13.女神の覚悟
時間が、止まったように感じた。
いや、実際に、ほんの数秒にも満たない出来事だったのかもしれない。
神凪湊が、希望を懸けた一撃を放ち――
その攻撃が、まるで子供の玩具のように、神話喰いの一振りで薙ぎ払われ――
そして、彼の身体が、壁に叩きつけられて、ぐにゃりと崩れ落ちるまで。
「――湊ッ!」
最初に我に返ったのは、高千穂だった。
親友の名を絶叫し、その瞳に怒りの炎を燃え上がらせる。
「てめえ……よくも、湊を……!」
「待て、高千穂! 冷静になれ!」
今にも一人で突っ込もうとする高千穂を、剣崎がその盾で制する。
だが、その剣崎の声もまた、激しく震えていた。
貴船は、無言だった。ただ、その美しい顔から一切の表情を消し、砕けた壁の下で動かなくなった湊と、その手前で圧倒的な存在感を放つ神話喰いを、交互に見つめている。
彼の完璧な計算の中に、目の前で起こった『イレギュラー』は、存在しなかった。
湊が、やられた。
たった、一撃で。
その事実は、この場にいる全員の心に、鉛のように重い絶望を叩きつけた。
俺たちの、最後の希望だったかもしれない男が、最も早く、戦場から脱落したのだ。
グルルルォォォォ……
神話喰いは、まるで人間たちの動揺を嘲笑うかのように、その喉を低く鳴らした。
そして、その矛先を、残された三人の適合者へと向ける。
「――来るぞ!」
貴船の鋭い声が、膠着を破った。
「こいつの狙いは、おそらく活動を停止したダンジョンのコアだ。それまで、何としてもここで食い止める!」
「言われずとも!」
三人の天才が、再び戦線へと舞い戻る。
貴船の【薄氷の刃】が、神話喰いの関節を狙って、無数の氷の礫を放つ。
剣崎の【正義の天秤】が、その巨大な腕による薙ぎ払いを受け止め、衝撃波をカウンターとして返す。
高千穂の【炎神の小手】が、その隙を突いて、渾身の【紅蓮螺旋撃】を叩き込む。
それは、BランクとCランクのペア、そしてAランクの天才による、本来であれば、どんな敵をも粉砕しうる、完璧な連携だった。
だが――。
氷の礫は、その硬質な外皮に、傷一つ付けられずに弾かれ。
衝撃波は、その巨体を僅かに揺らがせるに留まり。
炎のドリルは、その身体を覆う、混沌としたエネルギーの膜に、威力を殺されて霧散した。
「……嘘だろ……」
高千穂の口から、乾いた声が漏れる。
「俺の、最大火力が……!?」
格が、違いすぎる。
彼らは、ただの獣ではない。彼ら自身が、この世界の物理法則を無視する、歩く『理不尽』そのものなのだ。
じり、じりと、三人は後退を余儀なくされる。その顔には、先ほどまでの闘志ではなく、明確な『消耗』と『焦り』の色が浮かび始めていた。
その、絶望的な光景を。
私は、ただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった。
(湊くん……湊くん……!)
湊くんが倒れた時、彼と私を繋いでいた、あの暖かな光のラインは、一方的に断ち切られた。
私の【千里眼の水晶玉】は、再び、ただの重いガラス玉に戻ってしまった。
今の私に、『視える』のは、目の前で仲間たちが傷ついていく、残酷な現実だけ。
何もできない。
何の役にも立てない。
湊くんが、あれほど期待してくれたのに。
勇気を振り絞って、コンタクトにしたのに。
変わろうと、したはずなのに。
結局、私は、昔のまま。
ただ怯えて、誰かの背中の後ろに隠れているだけの、臆病な『余り物』。
その時だった。
神話喰いは、まるで、目の前の三人に飽きたとでも言うように、その動きをぴたりと止めた。
そして、その禍々しい複眼が、ゆっくりと、私の方へと向けられる。
いや、違う。
その視線の先にあるのは――私の背後で、壁にもたれて、ぐったりと意識を失っている、湊くんの姿だった。
「……あ」
神話喰いは、もはや抵抗する意志のない、最も無力で、最も栄養価の高い獲物から、先に喰らうつもりなのだ。
その巨大な爪が、ゆっくりと、湊くんに向かって、振り上げられる。
――やめて。
貴船さんたちの、悲鳴のような声が聞こえた。
高千穂くんが、何かを叫びながら、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
でも、間に合わない。
――湊くんが、いなくなっちゃう。
その事実を認識した瞬間。
私の頭の中で、恐怖とか、無力感とか、そういうものが、全て、焼き切れた。
気づいた時には、私は、走っていた。
震える足で、涙でぐしゃぐしゃの顔で。
そして、振り下ろされようとする、巨大な爪と、湊くんの間に、両手を広げて、立っていた。
「……させ、ない……!」
何の力もない。
ただの、小さな人間の少女。
こんなことをしても、一瞬、時間を稼ぐくらいにしかならないことなんて、分かっている。
でも、それでも。
この人が、私に「大丈夫だ」って言ってくれた。
この人が、私の力を「必要だ」って言ってくれた。
この人が、私の手を引いて、光の中に連れ出してくれた。
だから。
今度は、私が。
「湊くんは……私が、守る……!」
神話喰いが、鬱陶しそうに、私を見下ろす。
そして、その巨大な爪が、私に向かって、容赦なく、振り下ろされた。
衝撃。
空と、地面が、逆さまになる感覚。
熱くて、痛くて、息が、できない。
ああ、私、これで……。
冷たい床に叩きつけられ、朦朧とする意識の中、私は、最後の力を振り絞った。
血の味がする喉で、ただ、彼の名前を。
私の、たった一人の、英雄の名前を。
「――……湊……くんっ……!」
その声が、彼の深い闇に届くことを、ただ、信じて。
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