拾伍の8 公務員の守秘義務
「では、森さん。ここに署名と捺印をお願いします」
「はい、ちょこちょこっと」
「……」
右下角に塗りつぶしの頭出し用ガイドがない、調書最終ページの、ピロシキ田中がパソコン打ちした録取最終行下に、差し出されたボールペンで署名し、黒っぽいワックスのようなインクを右手人差し指に着け指印した。ほかの用紙にも指印だけ捺した。いずれも、指をぐるっとは回さなかった。
ピロシキ田中はその重要書類を取調室の外に持ち出し、すぐに手ぶらで戻ってくる。
「素晴らしい調書が、スムーズに作成できました」
「どうかな。取り直せって言われるぞ」
「そんなことないでしょう」
「被疑者に、森に惑わされて口車に乗って、肝心なところが抜けてるとか、余計な文言が入ってて、検察やら裁判所やらで揚げ足を取られるとかさ」
「……」
「今回の事件はさ、これで終わりじゃないわけじゃん」
「これでとは?」
「田中さんが調書に巻いた部分」
「うちらはそこだけと認識してますが」
「田中さんの部署じゃなくってもさ、同じ刑事課でも知能犯係とか、警備課とかでもっと厳しい調べを受けて、また別の調書を巻かれるとかさ。その別の調書は百枚単位に積みあがって、最初のページの頭出しのための塗りつぶしが役に立つとかさ」
「警備の連中なんて、調書の巻き方、ちっとも知らないんですよ。令状の請求の仕方も、送検の手続きも」
刑事部門の連中が、敵対する公安部門をけなしてよく放つせりふだ。
「向こうは向こうでさ、向こうって、警備、公安の人たちって意味ね。彼らは、『刑事の連中なんて、スパイの育成も、スパイが敵に捕まった時の救助方法も知らない、盗聴もできない』って言ってるよ」
「……」
「それにさ、ぼくを狙ってるのは、青葉署だけじゃない、神奈川県警だけでもないじゃん」
「……」
「今回のスーパー三和の件もそうじゃん」
「……」
「田中さんたちの会社が捜査を主導してるわけじゃないじゃん」
「……」
「検察が主導じゃん。検察はーー」
「ーーそれはですねえ、森さん」
ピロシキ田中が食いついてきた。
「われわれ警察は常に、検察の指示、指揮の下、捜査手続きを進めているのであって、森さんの今回の事件がなんら特別というわけでは、一切なくーー」
「ーー田中さん」
「はい」
「そういうあなた方の組織の構成というのかな、力学というのかな、刑事訴訟手続きを、ぼくはちゃんと分かった上で言ってるって、田中さん、知ってるでしょ?」
「……」
むきになっておれの発言をさえぎるピロシキ田中は、失敗した。
捜査機関の、つまり検察と警察の、そして、三和側の、すなわち顧問弁護士、藤間崇史の狙いと手法の一部を、おれに悟らせてしまった。事件取材に関するおれの経歴をピロシキ田中は、掌握しているはずなのにだ。
「事件の端緒は、警察じゃないね。検察だね」
おれは、勝負に打って出た。
「…検事さんに聴いてみたらどうですか」
しばしの沈黙の後、ピロシキ田中が言って、相互に見つめる視線を先にそらす。
「うん。そうしてみるよ。今度、検事に聴いてみる」
「巡査部長の昇任試験を受けようと思ってるんです」
検察の狙いに関する話題を、ピロシキ田中が避けようとしたのかどうか、分からない。
逮捕された日の終盤、付き合いのある警察官に赦せないやつがいるかと尋ねてきたり、この日の最初、盗撮という犯罪が赦せないと言い出したり、この男は、刑事専務の捜査員として未熟なのか未熟を装っているのか、判断に迷う。
「部長試験は昇任の登竜門だからね」
「今年、三十六なんです」
「年齢の話?」
「はい」
ピロシキ田中の左手薬指には、リングがはまっている。女房持ちということだ。
「一発で受かるつもりでいないとね。二、三年計画とかでいると、五年も六年も受からない」
「ですよね」
「ですよ」
警察官の定年退職時の平均的な階級は、警部補だ。警部で卒業できれば、良い警察官人生だったと振り返られるし、警視で上がれば、事件関係者として報道される場合、「元警察幹部」のフラッグが立つ。
前述した通り、極端に鋭いピラミッド型が特徴的な階級社会において警察は、巡査部長の定員を増やすなど特異な釣り鐘型に近づいている。その理由の一つは、民間企業などとの人材争奪戦に勝つためだ。昇任、昇進が難関で昇給が遅いと、優秀な入職志願者から敬遠される。離職者も増える。
全国の警察本部が入職希望者向け受験ガイドなどで紹介する優等生モデルは、おおむね三十歳までに巡査部長、四十歳までに警部補、五十歳までに警部に昇任。そうすれば、定年退職までに、中小規模署の署長、副署長クラスである警視への到達が現実的になる。
その上の警視正からは国の定員だから都道府県警の判断では昇任させられないことも、前述した。しかし逆に、地元採用組から警視正に上げなければ、警察庁に官僚出向ポストとして奪われてしまう。だから、極めて優秀な少数が、「優等生モデル」よりさらに早く昇任し、警視正に到達する。
つまり、巡査部長昇任試験にトライする三十六歳の巡査長、ピロシキ田中は、すでに出世レースから外れている。ただ、「警部補での定年退職」という平均像から見れば、落伍者とまでは言えない。
「森さんたちがですね」
「うん」
「取材して報道する記事を読んだりニュースと見たりするとですよ。どうやってネタを取ったのか、不思議でならないことがよくあるんです」
「ぼくも、田中さんたちがどうやって捜査の糸口を見つけたのか、関係者の口を割ったのか、ちっとも分からんことがあるよ」
「われわれは公務員ですから、それなりの捜査権限があります」
「うん」
「ですが、森さんたちには、それがないはず。逆に森さんたちに捜査情報を漏らしたら、ぼくら、地方公務員法の守秘義務違反です」
「警視正以上だと、国家公務員法違反な」
「そうですよ」
「ほんじゃあ、分かりやすい例を一つ。聴きたい?」
「お願いします」
「ぼくが毎晩、ある捜査幹部に会う。会う場所は、庁舎内の隅っことか、幹部宅の玄関先とか。腰を落ち着けられるような状況ではないけど、密会ってほどでもない。そういう場面を想像して」
「想像しました」
「ぼくが幹部に尋ねる。『あの事件、ガサ入れ、やりますね?』。幹部は答える。『そんなこと言えるわけないよ、教えられるわけないよ。分かってるでしょ、森ちゃん』。分かりましたって言って、ぼくは引き下がる」
「はい」
「翌日の晩も同じことの繰り返し。『ガサ入れやりますね?』『そんなこと言えないよ』。次の日の晩も同じ。『ガサ入れやりますね?』『そんなこと言えないよ』。その次の日の晩も、さらにその次の日の晩も」
おれの話に聴き入るピロシキ田中は、真剣な表情だ。
「ある日の晩、いつもと同じように、ぼくは尋ねる。『あの事件、ガサ入れ、やりますね?』。幹部は答える。『やらないよ』」
あっという表情を、ピロシキ田中はする。口は半開き。
曲げた指の関節を強く歯で噛むようなことは、今度はしない。
「『ありがとうございます』。それまでの連夜と同じように礼を言ってあいさつして捜査幹部と別れ、会社に緊急連絡を入れる。同じような情報が、別ルートからも入ってる」
「それで、それで捜査幹部はなんら違法性を伴わず、森さんたちに情報をもたらすってことなんですかっ!?」
「あくまでも一例ね。朝刊で『きょう強制捜査へ』って打って、田中さんたちがうちを襲撃したような時間帯より早く、撮影班を連れてって万全の体制で、捜索対象場所付近で田中さんたちの到着を待つ」
「そんな地を這うような…」
「田中さんたちも、地を這うことくらいあるでしょ? そういう事件捜査の現場に出くわすでしょ?」
「……」
「取材と捜査って、似てるところがあるよね。まったく違うところもあるよね。だから、ぼくらと田中さんたちは、理解し合えることも、お互い理解に苦しむこともあるよね。報道機関と捜査機関は、相手の手の内が分かってることも、想像さえできないってこともあるよね」
半開きのピロシキ田中の口は、会話を終えてからもしばらくの間、閉じなかった。
(「拾伍の9 パンダちゃんへ」に続く)