拾伍の7 A4、B5の頭出し
「今、作成した調書を、紙にプリントアウトしてきます。内容に問題がなければ、署名と捺印をいただきます」
「うん。ちょこちょこっとね。内容に問題がなければね」
「……」
ピロシキ田中はおれと向かい合って座るスチールデスク上のパソコンを片付け抱え取調室から出ていく。そして、三、四枚の紙を手に戻ってきた。
「これ、確認お願いします」
《供述調書》
縦置き横書き罫線入り用紙の一番上には、そう打たれている。
一番下は、こうだ。
《神奈川県警察》
「田中さん」
「はい」
「紙質が一枚だけ他と違うね。なんか意味があんの?」
いずれもA4版の上質紙なのだが、《供述調書》《神奈川県警察》と上下に活字が刷られている紙は、それとは別の下に《神奈川県警察》だけの紙より白みが強く、表面が滑らか。《神奈川県警察》だけの紙は、やや黄身がかっており、表面がざらざら。前者の方が後者と比べ、折れ、破れなど損傷への耐性が強そうな感触。
「ああ、それはですねえ、別のプリンターから出力したからなんです」
「別のプリンターから? なんで?」
「調書の一枚目の紙には、ここにこういう印が付くんです。なんの意味があるのか、ちっとも分かんないんですけどね」
《供述証書》の活字がある一枚の右下角は確かに、幅数ミリ、高さ数センチで黒く塗りつぶされている。
「頭出しのためだな」
「アタマダシ?」
「うん。ぼくの事件のこの調書は数枚だからそんな必要はないだろうけど、一通百枚単位に及ぶ調書も存在するわけじゃん。そういう事件を扱う機会が、田中さんにもあるでしょ?」
「…はい…」
「そういう調書を何通も同じファイルにとじると、それぞれがどこから始まってるか分からない。一ページ目を探さなきゃならない」
「……」
「辞書とか、少し昔の分厚い電話帳とか、思い描いてみなよ。背表紙の反対側、腹に当たる部分。ぼくらの業界じゃ『小口』とか『前小口』とか呼んでるんだけどさ、そこに、英和辞典だとアルファベット順で、その文字で始まる英単語が収載されてるページのその幅分、『小口』が黒く検索用に塗りつぶされてるじゃん。Aの次が、その下にずらしてBで」
「あっ…」
ピロシキ田中は、関節でフック状に折り曲げた右手人差し指を、自分の口の歯で噛んだ。
「調書の一枚だけ検索用に塗りつぶしても、小口からじゃ頭を探し出せない。でも、これは辞書でも電話帳でもそうすればさらに探しやすくなるんだけど、本を丸めてページをずらして、小口を広く斜めにして、その塗りつぶした紙が見つけやすくする。そこをガイドに、親指で固定するとかしてファイルを開けば、開いたページは調書の一枚目。手作業じゃなくても、機械で頭出しするためにも使えるんじゃないかな」
数枚の調書をつづった体で、小口に当たる端をぺらぺらめくって見せた。
「……」
「平成の初めごろまでね、供述調書は横置きB4版に縦書きだったんだよ。ワープロが普及するまでは手書きでさ。世界標準に合わせるために行政文書が横書きA4化されたんだ。全省庁で順次。裁判所だけかなり遅れた」
「……」
「田中さん、小学生のころ夏休みの宿題とかで、読書感想文やら書かされたでしょ?」
「……」
「四百字詰め原稿用紙にさ。縦書きで。おそらく横置きB4版で」
「……」
「それをファイルするのに、真ん中で山折りして、面積半分のB5版としてとじるんだよ。片面にしか文字がなくても、山折りでとじればページの表と裏になる」
「……」
「四百字詰めの横置き縦書き原稿用紙は、左右二百字ずつで真ん中に一行分くらいのスペースが空いてるだろ。業界用語で『魚尾』とかなんとか言ってたけど、今じゃそういう原稿用紙を使わないから、正確な名称は忘れた」
「……」
「手書き時代には、そのスペースになんらかの印を入れて、例えば頭出しのためのガイドにしてたんだよ。捜査機関の供述調書もそうだったはず」
「…森さん…」
「うん」
「なんでそんなこと、知ってるんですか?」
ピロシキ田中の右手人差し指には、深い歯型が付いている。
「辞書の話? 原稿用紙の話?」
「供述調書の頭出しのことです」
「知らんよ。辞書やら原稿用紙やらの例から、類推した。間違ってるかもね」
「ほかに理由が思い当たりません。それしかありません」
「そうかもね。知ってるのは、ぼくと田中さんだけかもね」
「……」
「全国三十万警察官のうち、田中さんだけかもね」
「…森さん」
「なに」
「初めて話をした時からずっと思ってたんですけど」
「一目ぼれか?」
「すっごく頭が良くないですか?」
「そうね。あんたらと同じくらいにね」
いすの座面を九〇度回転させ、ピロシキ田中は腰を丸め顔を自分の両ひざに埋めた。肩を震わせている。
泣いている風ではない。笑っているのだろう。爆笑したくても、扉が半開きの取調室だから、大声を出さないよう気を付けているのだろう。死刑宣告で忠告した効果があったのかもしれない。
「でもさ、田中さん」
「はい」
ピロシキ田中は顔を上げ、正面を向く。やはり、笑っていた。
「田中さんは深い意味を込めずに言ってるんだろうけど」
「なんでしょう」
「頭が良い、うんぬん」
「はい」
「ぼくに言ったのと同じことを、石場係長に言える? 刑事課長には? 署長には?」
「頭がいいってですか?」
「うん。『係長、頭が良くないですか』とか、『署長、すっごく頭がいいですね』とか」
「…考えたこともありません」
「言ったことある?」
「ないと思います」
「彼らは頭が良くないから?」
「そんな理由ではありません」
「『頭が良い』とか『賢い』とかって評価は、例えば飼い犬に対してのもの」
「……」
「それを田中さんは知ってるから、上司にはそう言えないんじゃないの?」
「…無意識に、言っちゃいけないって判断してるのかもしれません」
「礼を失する表現だって、皮膚感覚では分かってるんじゃないの?」
「そうかもしれません。でも、だとしたら、なんて言うのが正解なんでしょう」
「『聡明ですね』とか『頭脳明晰ですね』とかって表現だと、失礼の度合いは薄まる」
「それでもまだ失礼ですか」
「うん。相手を敬う気持ちがあるのなら、相手を評価しちゃ駄目」
「じゃあ、どうすれば…」
「自分がへりくだる」
「へりくだる?」
「うん。『恐れ入りました』『お見それしました』『感服しました』『参りました』。相手を評価できる立場ではなくその能力がない自分は、ただただかしこまる。それしかできない」
「…勉強になります」
「そう、それ。『勉強になります』もいいね。使えるね」
「なるほど」
「だからさ、さっきぼくが言った、『あんたらと同じくらいにね』」
「はい」
「半分本気、半分冗談」
「……」
「本気の方は、ぼくの言ってることが理解できるのなら、ぼくと同じくらいの脳みそを持ってるんだろうなって意味。三和の連中は、そろって脳みそが足りない。そろって Anencephaly かもね」
「……」
「冗談の方の半分は、言葉を知らない、社会常識についても危なっかしい田中さんたちへの皮肉。提言って捉えてもらってもいいよ」
(「拾伍の8 公務員の守秘義務」に続く)