拾伍の1 民間人は来ない
続きは午後に聴取するから昼食を摂るため留置施設の居室に戻るよう強行犯係巡査長、ピロシキ田中に言われ、そのための準備でピロシキ田中が取調室を出たり入ったりしている最中、巡査部長、ジョー松本が取調室に入ってきた。
「接見だってよ」
面倒くさそうに、ジョー松本は言う。
「弁護士ですか?」
ピロシキ田中は、接見つまり面会の希望者が来ていることを知らせたジョー松本ではなく、おれに尋ねる。
「どうだろ。ぼくがこうしてここにいるってことを民間人はだれも知らないはずだから、おそらく弁護士でしょうね」
「民っ間っ人っ!」
ジョー松本とピロシキ田中は、感心したように合唱する。
青葉署に連行されるミニバン日産セレナ車内で、警察の公用車として二束三文で買いたたき耐用年数が到来するセダン、スズキ・キザシにまつわる雑談を開陳した時と同じような反応だ。
同じ法曹でも国家公務員である裁判官や検察官と異なり、弁護士は、国や自治体にその資格で雇用されるわずかな例外を除き、顧客からの報酬で生活の糧を得る民間人だ。しかし、おれやおれの同業者、さらに取材対象の一部が使う「民間人」というワードは、それぞれ微妙に異なる別のイメージを帯びる。
現役の新聞記者時代、官庁の記者クラブ室で、複数のクラブ員と雑談をしていた時のことだ。
ーー彼は、転職組なんだよね。YKKに勤めてたらしいーー
そこにはいない讀賣新聞記者のことを、朝日新聞記者が評した。
ーー非鉄金属メーカーの? ファスナー屋の?ーー
ーーうん。マスコミ出身じゃないーー
ーー会社員だったのか…ーー
会社員だったのか、という毎日新聞記者コメントに、クラブ室にいた全員が沸いた。
ーーおれたちも会社員だーー
産経新聞記者が笑う。
ーーNHKやら共同通信やらは、団体職員だぞーー
ーーそういう問題じゃあるまい? だって、読売新聞もYKKも民間企業だ。従業員は、会社員だーー
ーーじゃあ、なんて表現すりゃいんだ? 報道機関の記者以外の連中のことをさーー
ーー堅気の衆とかーー
ーーそれだと、おれたちは任侠集団ってことになるぞ。そうと言えなくもないがーー
ーー素人ではどうだろうーー
ーー自分たちは玄人だっていう選民意識のにおいがして嫌だなーー
おれも臨席したその会合の場では結局、答えは導き出せなかった。
戦争で犠牲になった人について、軍人・戦闘員であったかそうでなかったかを区別する際、民間人というカテゴライズを使う。公務員であろうが民間企業従業員であろうが自営業者であろうが、学生であろうが無職であろうが子どもであろうが、軍人・戦闘員でなければ民間人だ。軍人・戦闘員の戦死と、民間人の犠牲は、重みも種類も異なる。
今も自衛隊は、組織外の人物のことを、おそらく非公式にであろうが「民間人」と総称する。
警察、消防の連中が、警察、消防以外の者を指し「民間人」と言っているのを何度も聴いたことがある。そして彼ら警察、消防の連中は、本音なのか懐柔する意図を含むのか、おれたち報道に従事する記者も仲間として、非民間人扱いすることがある。
ーー堅気のつもりでおったら、あかんよーー
ーーきみたちは素人じゃないんだからーー
ーー森ちゃんも、今さら民間人でもあるまい?ーー
そんな風に言われる。
「在野」という用語がある。かつての政府である朝廷に仕えた官僚を指す「在朝」の対義だ。在野の研究者、在野の弁護士などという使われ方をするが、前述通り裁判官でも検察官でもない弁護士はほぼ「在野」だから、「在野の弁護士」は、おかしな二重表現だ。
戦争における軍人・戦闘員以外を押しなべて「民間人」と表現するからには、刑事事件において捜査、司法、弁護、それに加え報道に携わる者を除き「民間人」と呼ぶのは、少なくとも非民間人の内輪においては理にかなっていると、おれは自負する。
理にかなっているからこそ、ジョー松本とピロシキ田中は、感心したのだ。民間人ではない弁護士であろうと納得したのだ。
民間企業YKKの従業員を「堅気」と呼ぶか「素人」と呼ぶか、平和な議論が白熱した記者クラブで、「民間人ではどうか」と提案する者はいなかった。当時のおれも、思いつかなかった。
パイプいすに手錠でくくり付けられていた腰縄のまま、手錠を両手にはめ直され、取調室を出て刑事部屋を出て留置施設に戻り、金属探知を含む一通りの身体検査を受け手錠腰縄を外され、白髪の巡査部長に伴われ、接見室に向かう。
ノックして入室すると、アクリル板の向こうで座って待っていたのは、国選弁護人のZ弁護士だった。
〈調べだったんだって?〉
通話口越しの弁護士の声は、相変わらずくぐもって聴こえる。
「はい。午後も続きをやるんだって」
〈なにを聴かれた?〉
「スーパーのレジでのことなんですけど、記憶にないことも」
〈記憶にない? 例えば?〉
「クレジットカードをレジカウンターにたたきつけてるって言うんですよね。ぼくが」
〈たたきつけてないの?〉
「記憶には一切ないんですけど、その場面だっていう写真を見せられました」
〈写真? ボウカメの?〉
防犯カメラのことを略して言っているのだろうと思い、その意味するところを確認せず続けた。
「防犯カメラの動画を静止画に切り取ったような、映りの悪い画像の」
〈動画は?〉
「午後の調べで見せてくれるって」
〈ほかには?〉
「細かいところでぼくの記憶にないことを捜査員は言うんですが、いずれも動画を見ないとなんとも言えませんし、時間も経ってるし、思い出せません」
かごを手で払ったのが二回だと、ピロシキ田中が言っていたことなどだ。
〈じゃあ、その件は動画を見てみてってことで。それで、この前、言ってた、横幅の件ね。別件。あらましを話して〉
「ぼくが今、住んでる団地のことなんです。旧公団で、今はUR都市機構が運営してて」
〈うん〉
「電気設備の故障のことでもめて、初日は制服警官が四人、来ました。翌日は、もめた相手が雇用されてる関連会社の社長宅が青葉区にあって、そこで、制服警官が二人、来ました。六月上旬のことです」
〈一度に四人も?〉
「はい。うち一人は、座布団みたいな防護具を抱えてました」
〈防護具?〉
「五月に長野で、警察官二人が猟銃で撃たれて亡くなった事件をご記憶ですか? そのせいだって」
〈誰がそう言うの?〉
「制服警官四人のうちの一人が。現場で。異常に厳しい身体捜検を受けたんですよ。凶器を持って立てこもってるとかって通報したみたいで」
〈通報したのは誰だか分かる?〉
「関連会社の管理主任って肩書きの男が、ぼくの目の前でスマートフォンで一一〇番してます」
〈凶器を持って立てこもってるって言った場面は聴いた?〉
「聴いてません。その時ぼくは手ぶらだったんで、身柄を押さえられた場合に備えて身の周りの物を取りに現場事務所を離れたり、戻ったら管理主任の姿は事務所になかったりで」
〈実際に凶器と言われるよう物は持ってたの?〉
「制服警官にも持ち物を調べられたんですが、一番、危険な物といえば、アウトドア用のアイスピック」
〈アイスピック?〉
「はい。フォークみたいに剣先が三本に分かれてて」
〈剣先の長さは?〉
「二・五センチ。銃刀法に該当しないよう配慮して買いました」
〈なぜ持ち歩く必要があるの?〉
「夏場の水分補給のためです。コンビニエンスストアに売ってる氷は大きすぎて、ぼくの水筒の口に入らない。アイスピックで砕いて入れます」
〈コンビニに氷、売ってる?〉
「はい。お酒の水割りに適したサイズだと思うんですけど、ロックアイスが。どんぶりくらいの大きさのプラスチック容器に入って」
〈ドングリ?〉
「いや、器の大きさです。どんぶり鉢くらいの」
両手でその大きさを示して見せる。
〈外出先で買う必要があるの?〉
「先生のその水筒、容量は五〇〇ミリリットルくらいですね?」
弁護士のかばんから水筒の頭が見えている。
〈うん。五〇〇ミリ〉
かばんから出して、弁護士はおれに示して見せる。
「ぼくはリュックの左右に五〇〇ミリの水筒を二本、ホルダーでくくり付けてます。合わせて一リットルです」
〈……〉
「朝、自宅の冷蔵庫の氷と水道水を入れます。自宅の製氷皿の氷は小さいから、そのまま水筒に入ります。極力、歩いて移動してます。炎天下だと、水筒は昼前には空になります。氷も解けてます。そこで補充します。それも、夕方には空になって解けてます。そこで二度目の補充をして、合計三リットルになります」
〈そうか。そんなもんか。それで、アイスピックをかばんから取り出す機会は?〉
「コンビニで氷を買って、それを店の前で砕く際くらいですね」
〈自宅では?〉
「シーズンの変わり目とか、リュックの洗濯のために出し入れするくらい。冬場は使いませんから」
〈その管理主任っていう男が、かばんの中身を知ってた可能性は?〉
「あっ…」
(「拾伍の2 早まったかやり過ぎたか」に続く)
※ 章タイトルを、「拾伍 便宜供与と信頼関係」から書き替えました。
(2025.08.05 追記)