拾肆の1 八丈島のきょん!
弁護士が接見に来た翌日、つまり逮捕から五日目、勾留三日目の日曜も、なにもなく過ぎていく。眼を疲れさせながら、官本の伊集院静『日傘を差す女』を読み終え、樽の巡査長に、聴いたことのない著者の見たこともない著書、麻野涼『三叉路ゲーム』と交換してもらう。
冷房が効き過ぎる居室は、寒くて仕方がない。なんとかならないかと顔色の悪い巡査部長に訴えたら、重ね着しろと言われ、胸に「官」の文字が誇らしげな丸首シャツをもう一枚、あてがわれた。
重ね着しても寒い。
留置管理部門と違って交代勤務ではない刑事部門の連中は、前日の土曜同様、当直勤務員以外、特段の事件でもない限り休んでいるはずだから、取り調べがないのも仕方がない。つまり、おれの事件は、休日返上で取り調べをしなければならないような重要性などないということだ。
ところが、逮捕から六日目、勾留四日目の月曜にも、呼び出しがない。
警察は、検察はこのまま勾留期限までおれを留め置いて釈放するつもりではないかーー。そんな思いに駆られる。
それはそれで面白い。おれの職業的にだ。つまり、ネタになる。
三交代制の留置管理ペアは、若い巡査部長と、唯一の巡査。眼が疲れて、麻野涼『三叉路ゲーム』を読み進められない。
逮捕から七日目、勾留五日目の朝、白髪の巡査部長が、柵越しにおれを呼んだ。
「調べだ」
「待ってました! 署内ですか?」
「うん」
白髪の巡査部長に伴われ、初日に所持品の検査をされた小部屋の前のちょっとしたスペースに行くと、床に黒っぽい縄跳びのようなロープが円を描いて広げられている。
「中に入れ」
幼児の長縄跳び遊びの掛け声「お嬢さん、お入んなさい」のようなことを、お茶目な巡査長が言う。
円の内側を踏むとロープで腰を締め上げられた。それは腰縄だった。腰縄の端はすでに、手錠の真ん中の鎖を通っている。その手錠を両手首にかまされた。署外の心療内科や検察庁に連れて行かれる時のような、ナイロン製のベルトはない。
そのまま二つ扉をくぐって、一週間ぶりの刑事部屋に入り、取調室に通される。巡査長、ピロシキ田中が待っていた。
「きょうは、供述調書を作成します。わたしが担当します」
「うん」
「長時間にわたることになると思いますが、体の調子は大丈夫ですか」
「最初の日に話したと思うけど、頻尿気味なんで、たびたび中座させてもらうよ」
初日にあれほど言った睡眠導入剤がなぜ処方されていなかったのか、留置管理課に申し送りされていなかったのかと主張しても無駄だ。「結局、薬は飲めたのだろう、飲めているのだろう、それで問題ないではないか」と、瑕疵を一切認めないのが捜査機関の平常運転だ。
「分かってます」
「それとね、長くしゃべると声がかすれるから、水分を補給したい。できれば、常に飲めるようにここに置いててほしい」
ピロシキ田中との間のスチールデスクの天板を指さした。手錠はすでに、腰縄とパイプいすに付け替えられている。
「水がいいですか。お茶がいいですか」
「選べるんだったら、味の着いてるもの」
留置施設で食事の際にだされるぬるま湯や、のどが渇いたと訴えれば同じプラスチック容器にくんできて柵の小窓越しにわたされる水道水に、嫌気が差していた。
巡査部長、ジョー松本が、緑色の液体の入った半透明のプラスチック容器を持ってくる。持ってきて、すぐに出ていく。口にふくんでみると、冷たい緑茶だった。
「終戦記念日だね」
八月十五日だ。あいさつ代わりに言ってみた。
「え? そうなんですか? お盆ですけど」
この様子ではピロシキ田中は、おれの身柄を捕ったのが、長崎に原爆を投下された歴史的な日だという認識もあるまい。
「自分、盗撮っていう犯罪が、絶対に許せないんですよ」
そんなことより、といった口調でピロシキ田中がしゃべりだす。おれの「時候のあいさつ」と異なり、突拍子もないとしか表現できない。
初日の最後に、こいつだけは赦せないとか付き合いたくないとかの警察官がいるかと尋ねられたのと同程度に、ピロシキ田中の主張の意味するところが分からない。おれの知らぬ間に外の社会でそれ系の大事件でもあったのかと尋ねても、そうではないと言う。
「癖だからね。病気だから仕方ない。一生治らんよ」
そう話しながら、そうか、おれから押収した証拠物件であるスマートフォンにそれらしき画像データが保存されていないから、地団駄を踏んだんだな、と合点がいった。
だから、試してみた。
「児童ポルノとか児童買春とかって犯罪があるじゃん。法律としてはわりと新しくて、法整備される前は、条例やら児童福祉系の関係法令やらを適用させて取り締まってた」
「はい」
「ああいう犯罪者の気持ちは、分からんでもないよ。平成の初めに女子高生ブームってのがあってさ、そのころは、ぼくも、その年ごろの女の子ってかわいいなあって思ってた」
その方面の画像も、おれのスマートフォンに画像データはないし、おれにそういう嗜好もない。
「まあ、生物として、若い相手を求めるっていう本能は理解できますがね」
関心がある素振りを、ピロシキ田中は見せない。話の方向性を変えてみることにした。
「現職のお巡りさんも、盗撮でたまに捕まってるね」
「そうなんですよ! ああいうのがあると、うちら、仕事がやりにくくなるんです。世間の眼が厳しくなって」
こっち方面の話には乗ってきた。
「警察官の盗撮事件っていうのは、ぼくはあんまり興味ないな。捕まえてみたら職業が警察官だったってことがほとんどだからさ」
ふんふんと、ピロシキ田中は聴いている。
「ぼくが興味あるのはね、警察官が自身の立場を悪用した犯罪。例えば留置場でさ、留置管理担当の男の警察官が囚人の女性に性的被害を加えるとか、そうでなくても懇ろの関係になるって事件が、たまに報道されるじゃん。懇ろの関係を装って女の囚人が牙をむく、男の警察官がはめられてるって要素も否定できないんだけどさ」
前の年に岐阜県警大垣署で、女性被留置者にわいせつな行為を繰り返していたとして、留置管理課の巡査長の男が特別公務員暴行陵虐罪で実刑判決が確定、懲戒免職処分を受けている。
「最悪っすね」
「最悪っすよ。それからさ、被害者側にはなんら落ち度がない事案でーー」
ピロシキ田中は真剣なまなざしだ。
「ーー巡回連絡簿で知り得た家族構成やら名前やらの情報を悪用して、女児…まだ子どもだよ、小学生だよ、女の子をわいせつ目的で誘拐しようとした交番勤務員の男がいたじゃん」
群馬県警渋川署地域課の巡査が逮捕されたのは、二〇一五(平成二十七)年のことだ。執行猶予付きの有罪判決が確定している。
「そんなやつ、死刑ですよっ!」
おれの鼓膜が破れるのではないか、半開きの扉を抜けて取調室の外の刑事部屋全体に響きわたるのではないかというような雄たけびを、ピロシキ田中は上げる。
「田中さん」
「はい」
「取調室で、死刑なんて物騒なワードを使っちゃ駄目」
「そういうもんすか」
「あんたらの作出するストーリーに沿った供述調書に署名しなきゃ死刑が求刑され判決が言い渡され確定して執行されるって脅されたって、公判で言うよ?」
「脅してません」
「それにね」
「はい」
「シロートさんは、警察官が死刑執行するもんだって思ってる」
「そりゃないでしょ」
「刑務官も警察官も、シロートさんは区別が付かない。だから、刑務所も拘置所も留置場も、違いが分からない。シロートさんだけじゃないよ。収容されてる囚人だってそう」
労役場留置された川越少年刑務所の房仲間はそうだった。
「……」
「『がきデカ』って漫画、知ってる? 『週刊少年チャンピオン』って雑誌で連載してたんだけど」
「知りません」
「じゃあ、主人公の『こまわり君』も知らんか」
「知りません」
「『こまわり君』はね、自称・少年警察官なんだ」
「少年警察…ですか」
「少年警察官」
警察には「少年警察官」と「少年警察」という用語がいずれも実在したが、前者は現在では使われない。昭和初期の戦時中、人員不足から警察は多くの未成年者を採用し、彼らを「少年警察官」と呼称した。
また、民法の二〇二二(令和四)年改正で成人年齢が現行の十八歳になる前は、高校新卒採用などで二十歳未満、つまり未成年の警察官が大勢存在したが、彼らのことも、俗称や蔑称を除けば、少年警察官とは呼ばなかった。
だから混乱は生じないものの、部外者に勘違いされやすい「少年警察」という用語は今も正式に使われる。未成年者が加害者、被害者となる犯罪を扱う部門やその仕事、さらにそれを行う構成員を、こう呼ぶ。「刑事警察」「警備警察」「交通警察」と同列だ。
うちを襲撃した警視庁町田署生活安全課の警部補、つるっぱげ浅沼のことを、日勤の残業ではなく当直勤務だと口を滑らせた同課少年係のフジカワは、「少年警察」の一員だ。
「その『こまわり君』がどうしたんですか」
「彼のお決まりのギャグがあるんだよ。『死刑!』っての」
「……」
「読者層の子どもたちも、死刑は警察官が執行するもんだと思ってたんじゃないかな」
「……」
「『こまわり君』のギャグはほかにもあってね。『八丈島のきょん!』とか、『あふりか象が好きっ!』とか」
「……」
「きょんって動物が本当にいるとは、『がきデカ』を読んでたころの小学生のぼくは知らなかった。八丈島も架空の地名だと思ってた。土地勘がないからね」
「……」
「警察官による死刑執行も、架空だと思ってた。実際にあるなんてね。この年齢になって、強行犯係の捜査員に取調室で宣告されるなんてね」
「……」
ピロシキ田中による取り調べはなかなか進捗しないまま、半透明プラスチック容器の冷たい緑茶だけが減っていく。おれに原因があるのではないと、おれは思う。
(「拾肆の2 警察の庁舎を家宅捜索」に続く)




