拾参の5 夏目雅子を看取った夫
〈きょうはあまり時間がないから、次の接見で続きを聴こう〉
アクリル板の向こうの弁護士は、デジタルメモ「ポメラ」を畳んでかばんにしまう。
「よろしくお願いします」
〈この事件は、複雑だってことだね〉
「決して難解ではないと思いますが、いろいろとややこしくて。先生の事務所は、この近くですか?」
〈川崎。川崎市。名刺を差し入れしとくから〉
ポケットの名刺ケースから一枚取り出し、アクリル板越しに見せてくれた。
弁護士はいすを立ち上がる。おれも立ち上ろうとする。
〈呼ばれるまで、そのまま座って待ってて〉
弁護士に制止された。
大阪府警富田林署で二〇一八(平成三十)年、性犯罪で逮捕、起訴され留置場に勾留されていた当時三十歳の男が、弁護士との接見を終え、アクリル板のすき間をこじ開けそこから逃走。同署敷地から出ても署員の誰も脱柵に気づかないという事件が起きている。
前述の通り、弁護士の接見に警察官は立ち会わない。本来なら弁護士が接見を終えたことを知らせ、それを受けた警察官が、囚人を居室に戻さなければならないが、富田林署の担当署員は仕事をさぼっていた。
この轍を踏まぬよう、神奈川県警は、青葉署は、留置管理課は、接見後の囚人の取り扱いに細心の注意を払っているはずだ。
警察の留置施設(旧・留置場)の住人を、現行法では「被留置者」と呼ぶ。起訴され法的立場が「被告人」になっても、諸般の事情でそのまま留置施設に留め置かれることが少なくないから、彼らは「被疑者」とは限らない。
被留置者という用語は一般的ではないから、檻の中の被疑者、被告人のことを本作では便宜上、特段の事情がなければ「囚人」と呼ぶことにする。
逮捕から四日目、検察の請求により裁判所が認めた勾留二日のこの日は、土曜だった。昼食を取ってからも弁護士が帰ってからもなんら呼び出しがかからないから、取り調べはないのだろう。先は長い。
どこかに手紙を書こうにも、クリップ付き財布内にあり預けたままの現金を使う名目で前の日に自弁で注文した恐ろしく割高な便箋も封筒も、額面通りの郵便切手もまだ届かない。
官本を借りて読書をして過ごすことにした。
労役場留置されていた埼玉の川越少年刑務所では、週に二回、担当の受刑者がカラーボックス大の本棚を乗せた台車で、刑務所所蔵の官本の交換に回ってきていた。柵越しに、読みたい本を選んで受け取り、読み終えた、借りていた本を返す。
青葉署の官本は、クリアファイルに入った一覧表があって、ファイルを見せてもらい、その中から選ぶ。
つまらなそうな著書名ばかりが百冊分ほど並ぶ。逮捕され勾留されるというこんな機会でもなければ今後、縁のなさそうな、西村京太郎(一九三〇-二〇二二)の推理小説『仙台駅殺人事件』を選んだ。古びた文庫本を、柵の小窓越しに渡された。
陳腐な設定とトリックと文体だ。
一時間ほどで完読した。もう二度とこの作家の作品に関わることはないだろう。
お茶目な巡査長に言って西村京太郎を返却し、一覧表を、もう一度貸してもらった。
夭逝した女優、夏目雅子(一九五七-一九八五)の夫で、おれの逮捕、勾留時には存命だった伊集院静(一九五〇-二〇二三)の『日傘を差す女』を借りた。
老眼のせいであろう、おれは手元の文字が読みづらい。眼鏡を作ったのだが、刑事課強行犯係警部補グランパ石場、巡査部長ジョー松本、巡査長ピロシキ田中による大捕り物で、持ち出せなかった。持ち出せたとしても、居室まで持ち込めたかどうか分からない。
日が暮れても居室内は電灯が明るいから、暗いせいではなくおれの眼が疲れたのであろう、『日傘を差す女』を読み続けることがつらくなった。夜には返却しなければならないから、いったん返し、別に読みたい本がなければ再度、同じものを借りることにした。
外の社会ではめったに触れる機会のない伊集院静作品を手に取ったのは、四十年近く前に亡くなった夏目雅子がそうさせたのではないかという不思議な使命感をその少し後におれは抱き、その感覚は、本作を書いている今も消え失せない。
朝食後、昼食後、夕食後、就寝前の一日計四回、薬を飲まされる。食事後は糖尿病薬、就寝前は、向精神薬だ。
薬を持ってくるのは勤務員一人だけのこともあれば二人そろってのこともあり、その規則性が解明できない。就寝前の向精神薬は取り扱いに注意し二人で監視しているのかもしれないとも思ったが、必ずしもそうとは言えない。
この日の就寝前は、白髪の巡査部長、お茶目な巡査長が二人かがりで薬を運搬してきた。
指示に従い、柵の小窓越しに受け取った複数の錠剤を口に放り込み、舌の上に載せ、口を開け二人に見せる。
「ちょっとよく見えんな。れろれろって舌を動かしてみて」
懐中電灯の光をおれの顔面下半分に当てる白髪の巡査部長に言われた通り、口を開けたまま舌を動かした。
「おっ。見えた。確認できた。幻惑だな」
白髪の巡査部長は、感心して見せる。
「口淫で鍛えてますから」
おれの下品なジョークに白髪はなにか反応しようとする素振りを見せたが、お茶目な巡査長に制止された。
「主任っ! 行きますよ」
階級社会である警察組織は、部外者にとって肩書きが分かりにくいことがままある。
青木雄二(一九四五-二〇〇三)の漫画『ナニワ金融道』で主人公は無知により、接待相手の大阪府警の刑事部長を、「部長刑事」と呼んでしまう。
近畿広域圏に電波を飛ばす「朝日放送」(現「朝日放送テレビ」)で一九五八(昭和三十三)年から二〇〇二(平成十四)年まで放送していた関西エリアローカルドラマ『部長刑事』シリーズは、警察官の階級名である巡査部長に由来する。『ナニワ金融道』の舞台は大阪で、主人公はドラマの影響で勘違いしたのだという青木の筋書きかもしれないし、同エリアに長く住んだ青木自身が作品を描く前には誤認していたという経緯があるのかもしれない。
刑事部長は警察本部における刑事部門トップで、小規模県警では巡査部長より階級が四つ上の警視正が、大阪府など大規模警察本部では、その上の警視長が、首都・東京の警視庁では、さらにその上の警視監が就くポストだ。
だから、警察組織には階級としての部長と、役職としての部長が二重構造で存在することになるが、『ナニワ金融道』主人公のような混乱は、ほぼ発生しない。なぜなら、それぞれの生息域がまったく異なるから。
後述する通り、一線署では巡査部長を、たびたび「ブチョー」と呼ぶ。秋本治(一九五二-)のギネス記録長寿漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場する主人公の上司、大原部長は、この巡査部長だ。
極端に鋭いピラミッド型の階級構成が改まり、各都道府県警とも巡査部長の定員を増やしたから、現行の巡査部長に、『部長刑事』放送初期、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』連載初期のころの権威はない。『部長刑事』シリーズも末期には、宮崎美子(一九五八-)演じる警部補が主役を務めている。
そして、警察本部では機動隊や交通機動隊など外回りの「執行隊」を除き巡査部長の階級の者は最下層だから、「ブチョー」とは呼ばれない。
つまり、本来なら青葉署留置管理課でもお茶目な巡査長は、白髪の巡査部長を「ブチョー」と呼んで差し支えないはず。そう呼ばないのは、階級章の上の識別章を裏向きに挿しているのと同様、個人情報を極力、囚人に知らせないため。
一線署では係長級の警部補の一つ下の階級だから、「ブチョー」ではなく「主任」と呼ぶ方が、確かに社会の趨勢と合致している。
胸元で彼らの階級が見分けられるおれは、彼らにとってさぞや扱いにくい囚人であろう。
(拾肆 揚げパン刑事「1 八丈島のきょん!」に続く)




