拾参の4 フィリピン、インドで海賊版
〈相手方の顧問弁護士をつついたって話ね〉
「はい」
こもった声での、アクリル板越しの弁護士との接見は続く。
〈具体的にどういうつつき方をしたの〉
「当初は、通常の文書をやり取りしてました。ぼくからはたいがい普通郵便で、向こうの弁護士からは、たいがい内容証明郵便で。ぼくが弁護士に送る文書は、相手方会社にも同じ内容で並行して投函してます。途中から、アスキーアートを使ったふざけた内容をファクシミリで送るようになりました」
〈アスキーアート?〉
「ちょっと言葉ではうまく言い表せないんで、後でお調べください」
〈文字で絵を表す、あれ?〉
「そうです、それです。文字やら記号やらの活字を使って描画する技法です」
〈それも相手方の会社にファクスした?〉
「はい。アスキーアートはファクシミリ送信が主目的でしたが、紙に何枚も刷り出して郵便でも送ってますし、会社社長宅やら顧問弁護士の事務所やらに自ら出向いていって。郵便受けに投げ入れてもいます」
〈どんな絵柄の?〉
「どこかの誰かが作成したユニークな描写をコピーして、その登場人物やら正体不明の生き物やらに、吹き出しでオリジナルのせりふを吐かせました」
〈せりふ? どんな内容の?〉
「顧問弁護士から受け取った内容証明郵便に、『なんらかの法的措置を採る』うんぬんの文面があったんです。それをからかって、《なんらかの法的措置はまだですか?》とかって挑発するような」
〈脅すような内容は?〉
「そう捉えられないよう、揚げ足を取られないよう、避けてます」
〈送った先は、会社と顧問弁護士だけ?〉
「終盤には…終盤っていうのは逮捕直前という意味ですが、会社の登記簿上の本店が置かれてる場所に立地する店舗にテナント出店する、その会社とはおそらく取り引き関係しかないであろう事業所やら、弁護士事務所が入居するビルの別の事業所やらにも拡大しました」
〈事件が起こったっていう現場のスーパーマーケットには?〉
「そこの店舗は触ってません。避けました」
デジタルメモ「ポメラ」を打つ手を止め、弁護士は考え込む仕草を見せる。
新型コロナウイルス感染症対策で推奨されるマスクを、弁護士は着けていない。露出した下唇を、口を閉じたまま、右手親指と人差し指でつまむ。つまんだ下唇は、アルファベット「U」を上下逆さにした、数学で積集合として使われる共通部分を表す記号「⋂」のようにきれいに折れ曲がる。
アクリル板のこちら側のおれは、警察の留置施設の規則に従いマスクを着けている。だから、弁護士の声がこもって聴こえづらいのよりずっと、おれの声は弁護士に届きづらいはずだ。
おれは極力、穴の位置をずらせた二重構造の空気孔のような窓に自分の口を近づけしゃべったのだが、それでも弁護士に、何度も発言内容を聴き返されることがあった。
〈妹さんとのきょうだい仲は?〉
家族歴を聴かれた中で、弁護士が尋ねる。
「家庭の事情で、十代末から十五年以上、会ってない時期があったんです。それからは良くも悪くもないとぼくは認識してるんですが、向こうが今、どう思ってるか。なにしろ、再会したのはお互い三十歳を過ぎてからですから」
〈連絡は取り合ってる?〉
「用事がある際に、パソコンの電子メールとか、携帯電話のSМSとか、SNSのラインとかで。年賀状のやり取りは、いつの間にか自然消滅しました」
〈最後に連絡を取り合ったのは?〉
「つい最近です。先月か先々月のことだと記憶してます」
〈どっちから?〉
「ぼくから」
〈どんな内容?〉
「妹も、ぼくと同じような仕事をしてるんです。彼女の作品の中国語版が出てるって知って、別の用で国立国会図書館に行ったついでに探してみて、見つかったから複写して持ち帰ったんです。その報告を、複写した画像を添付して。ラインでだったと思います」
〈妹さんからの反応は?〉
「《韓国語版も出てるんだよ》って、それもラインで。韓国語版の画像も付いてました」
〈それへの返信はした?〉
「しました」
〈なんて?〉
「フィリピンやらインドやらでも海賊版が出てるかもしれんよって。ジョークで」
〈それへの反応は?〉
「驚いたような、怯えたような描写の顔文字でした。顔文字、一行だけで表すアスキーアートの一種ですね」
〈アスキーアートか…。返信は?〉
「ぼくはしていません。それを受信したのでおしまいだったはずです」
弁護士は、下唇を右手親指と人差し指で挟む。下唇が、積集合の記号になる。この仕草は思考をめぐらせる際の癖のようで、その後も頻繁に眼にすることになる。
〈健康状態は?〉
「良くはないんです。持病もたくさんあって」
〈例えば?〉
「糖尿病とか、うつ病で不眠症とか」
〈医療機関にかかってる?〉
「はい」
〈薬も飲んでる?〉
「はい」
〈ここでも飲めてる?〉
「かろうじて」
初日にひと悶着あって外部の医療機関で診察を受けたのだという顛末を語りだすと長くなりそうだから機会を改めようと、その時は思った。この弁護士とは、話す機会に恵まれぬじまいになる。
「刑法でいうところの責任能力が問題になるほどの精神疾患ではありません。ただ、長期の勾留に心と体が持ちこたえられないかもしれない。捜査機関はそのことを知ってて、知ってるからこそ長期勾留に持ち込む戦略だと思うんです」
〈抜け出すには、保釈請求しかないね。今は独居か。妹さんは福岡だっけ?〉
ポメラの画面ををスクロールするような操作をして、弁護士はおれから聴き取った内容を確認する。
「はい。関東近辺に親族はおりません。いても付き合いがありません」
〈保釈金は逃亡しなきゃ全額、戻ってくるから、わたしが責任を持って、誰かに協力を求めることはできる〉
「そのことは存じてますし、先生にお願いしなきゃならない局面が到来するかもしれません」
〈問題は、保釈が認められた後の定住地だな。身元引受人の監督下に身を置かなきゃならない。裁判所の居住制限がかかる〉
「そりゃ無理ですね。親が建てた地元の実家は売っぱらっちゃったし、福岡の妹の嫁ぎ先になんか転がり込めない。その近くでホテル暮らしなんてのも、現実的じゃありません」
右手親指と人差し指で、弁護士は自身の下唇をつまむ。
(「拾参の5 夏目雅子を看取った夫」に続く)




