拾参の1 機動隊のお下がり
若くて美しい清楚な女性検事がペンの頭で指した裁判所ビルから、そこへ連れて来られたのと同じルートで、隣の検察庁に戻る。バスでは再び、団体旅行の添乗員のような茶色い靴と黒ベルトの男声私服警官と二人っきりになった。
「再び独り言を述べます。あんたら、本気なんだね」
あんたらには、警察だけでなく同じ捜査機関である検察庁を含む。さらに言えば、検察に頭の上がらない司法機関である裁判所も含む。
「…独り言でも、私語は禁止だから」
団体旅行の添乗員のような明るい声ではない。脅すような低い声だ。おれ以外に聴かせる相手がいないからだろう。
「つぶやきっすよ、つぶやき。ツイート、じゃなくって、Xのポストですよ」
そうこうしている間に運転手の警察官が乗り込んできて、ディーゼルエンジンをうならせバスは地上に出て、区画を先ほどの半周とは別ルートで半周し、検察庁ビルの地下に入っていった。手錠腰縄のまま先ほどと同じ「待機室」に戻り、腰縄だけ外された。
見える範囲に時計がないから正確な時刻は分からないが、夕刻であろう、待機室の住人がそれぞれ呼び出される。
「青葉、五十九番」
別の待機室に移動させられ、そこで朝、電車ごっこで青葉署から一緒に連れて来られた車掌役の囚人と、再び連結される。
電車ごっこ状態でバスに戻ると、カーテンが閉まっていた。
「わたし、これから、どうなっちゃうんですか?」
中年女らしい声がカーテン越しに聴こえる。
「きょうから十日間は、けさまでと同じ署で過ごしてもらう」
そんな説明を、男性制服警官がする。
検察庁ビル地下の駐車場を出発したバスは、市街地を抜け有料道路に入り、おれがその日の朝まで留置されていた青葉署に戻る。
留置施設に入り、バスから同乗していた男性制服警察官に手錠腰縄を解かれながら、尋ねてみた。胸の階級章は見逃した。
「十日間の勾留の初日って、あしたじゃなくきょうですよね? きょうから換算ですよね?」
「そう。きょうが十一日だから、十一、十二、十三…」
制服警察官は、おれの手錠腰縄を解く手を止め、指折り数え始める。
「ああ、いいです、いいです。きょうが一日目って分かれば」
指折り数えるのを制止し、手錠腰縄を解く作業を続けてもらった。
青葉署留置管理課の、確認できた限りでは唯一の「巡査」の階級の警察官から足の裏、耳の穴、口腔内を含め身体検査を受け、羽根突きの羽子板のような金属探知機を頭から足先までに当てられ、朝までと同じ居室に戻った。
仕出し弁当屋のまずい夕飯を食い、医師の処方より一種類少ない薬を飲み、眠れない夜を過ごす。未明のうちから起き、布団を畳み、畳を模したビニール製床材の上に、壁を背もたれをにして、朝食の菓子パンを待つ。
神奈川県警は警視庁を除くほかの四十五道府県警の留置管理担当警察官と同じ三交代制だから、横浜地検が請求し横浜地裁が認めた勾留二日目の八月十二日は、逮捕令状を執行された日と同じ白髪の巡査部長、お茶目な巡査長ペアによる朝の交代時から二十四時間勤務だ。
「五十九番。運動、どうするか?」
朝食の後、柵越しに白髪の巡査部長から尋ねられた。
「爪切り、お借りできるんですよね」
「うん、お借りでき…お貸しできるよ」
白髪の巡査部長は言い間違いに自ら途中で気づき、片手のひらで自分の片頬をたたき、言い直した。
「出ます。爪切り、貸してください」
運動場と留置管理担当警察官らは呼んでいるが、初めて見た青葉署のそれは、居室の三倍ほどの広さしかない。しかも、四方を壁で囲まれていて圧迫感が十分。バレーボールができそうなほどの解放感があった、志願し労役場留置されていた埼玉の川越少年刑務所の運動場とは比べ物にならない。
刑務所はそこが生活の場だから、警察の留置施設は取り調べのための一時的な留め置きの場だからという理由付けは、機能しない。追起訴、再逮捕の繰り返しで、十カ月以上にわたって警察の留置場に留め置かれる囚人も少なくないからだ。
章を改め詳細を後述する。
壁に囲まれた四方のうち一方はそのまま建物で、おれがいる「運動場」より上階二つ分の窓が見上げられる。取調室があった刑事部屋や留置施設が、四階建て庁舎の二階に存在することが分かる。
「五十九番。ほら、爪切り」
お茶目な巡査長から、比較的大きな、使い込まれた爪切りと、一斗缶よりやや小ぶりな、塗料などによく使われる円柱状の空き缶を受け取る。
爪切りにはプラスチックのカバーがはまっており、手の指の爪はそれで問題なく切れるものの、足の爪は、おれの足の指の形状に問題があるのか、プラスチックのカバーが邪魔で、爪切りの刃が爪をかまない。
「このカバー、外していいっすか」
「いいよ」
お茶目な巡査長が答える。お互い、平穏な口調だ。
「ああ、カバーを外したせいか、切った爪があちこち飛んで、缶にうまく入らないな」
「気にしなくていいから。うちらが後で、掃除して集めるから」
手足の計二十本の指の爪を切り、道具一式をお茶目な巡査長に返却した。お茶目な巡査長はどこかから箒とちり取りを持ってきて、コンクリート地面におれが飛ばした爪を掃き集める。
「すんませんね。よけいな仕事を増やしちゃって」
「そんなこと、気にしなくていいから」
狭い運動場にいるのは、おれと白髪の巡査部長とお茶目な巡査長の三人だけ。
「お巡りさんたちの履いてるそのズボン、機動隊の出動服の物に似てますね」
「よく知ってるねえ。詳しいねえ」
おれの指摘に、白髪の巡査部長が、極端に驚いた表情を見せる。
貨物船で荷役作業などに従事する人たちの間で好んで着用され、米国など世界の軍隊で戦闘服として採用されるようになり、今や作業服だけでなくカジュアルウェアとしても普及している、膝上両サイドに大きなポケットがあるカーゴパンツ・スタイルだ。
「同じ物ですか、機動隊と」
「うん、そう」
実際には機動隊の出動服は、制服警察官の拳銃ホルスター同様、二〇二〇(令和四)年に予定され新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受け翌年に延期された東京オリンピックに向け、全国で新素材、新デザインに切り替わっている。現行品は鮮やかな青色の旧式と比べ、濃くほぼ黒。カーゴパンツ式の特徴である膝上両サイドのポケットはマチが狭く、全体的にスリム化されている。
機動隊で使わなくなったお下がりを、押し付けられているのだ。制服警察官の夏服ズボンの青色と似通っているから、上と下で異なる用途の制服を着ていても違和感がない。
「神奈川県警の留置管理課は、どこもこれですか」
「いや、署によっても違うよ。これはね、風呂掃除の時に便利なんだよね」
足首のひもで、まくり上げた裾を結べるからだろう。
機動隊のお下がりをあてがわれているという話題を避けるよう、おれは気を配った。
「お巡りさんの制服ね。現行型になる前は、冬服のシーズンには暑くても上着を脱げなかったじゃないっすか。上着の上から帯革を巻いてたから」
その帯革は、「サム・ブラウン・ベルト」と呼ばれる、かつての軍隊のような左肩から斜めに伸びるストラップ付きで、そういう制約からも上着を脱げなかった。おれは自身の体を使い、両手でなぞってベルトが体に巻き付く部分を再現して見せる。
「うん、そうそう。平成六年に、今の制服に代わったんだよ」
「ああ、そのころですよね。ぼくが社会に出たころはまだ旧式でーー」
「ーーまさかーー」
白髪の巡査部長の顔色と口調が変わった。一瞬だけ険しくなり、すぐに、なにかを恐れるよう表情に暗転。半開きの口は、下の歯が下唇で隠れている。
(拾参の2 あるとき謎の運転手」に続く)




