拾弐の6 独りぼっちでバスツアー
「聴取を開始した時刻と終了した時刻です」
男性事務官からぺら一枚の紙を受け取り、若く美しい清楚な女性検事から説明された。検事のフルネームも記されている。
「この終了時刻が、現時点ってことですね」
「そうです」
壁掛け時計を、女性検事は指さす。聴取されていたのは、引き算で四十五分間ほどだったと分かる。
調書とは別にその用紙にも署名して指印を押し、男性事務官に返した。指をぐるっとは回さなかった。
「終わりました。お願いします」
女性検事に言われ控えていた男性制服警察官二人が姿を現し、パイプいすと腰縄をつないでいた手錠を外し、おれの両手首にはめなおす。
「失礼します」
立ち上がり、そう言って一礼だけして、二人に連れられ検事の部屋を出る。振り返る猶予は与えられない。エレベーターに乗り、警察官の詰め所を通って、待機室に戻る。
戻っておそらく三十分も経っていない。
「青葉、五十九番」
柵の外から呼び出された。青葉署に帰還するのだろう、青葉署で釈放の手続きがなされるのだろう。そうとらえていた。
手錠はどの段階で外してくれるのか、いつ拘束を解かれるのか、その時のおれには、それしか頭に浮かばない。
ところが、拘束は解かれないどころか身体検査を受け再び腰縄を打たれ、連行されて詰め所を抜けてエレベーターに乗り、熱気が厳しい駐車場で降り、青葉署から乗ってきたのと同じマイクロバスに押し込まれた。車内には、団体旅行の添乗員のような私服警官が一人だけ。運転席は空だ。
《私語禁止》
車内の正面にはそう書かれる大きなプレートがある。
別の囚人もこれから連れて来られて乗るんだろう。そう思ったから、軽口をたたいてみた。
「独り言を述べます。茶色い靴には、茶色のベルトですよ」
団体旅行添乗員のような私服警官は、明るい茶色の革靴で、ベルトは真っ黒。拳銃、手錠、警棒などの装備品をぶら下げるための帯革ではない。ズボンのベルトループを通っている、ズボンがずり落ちないための、通常の紳士物だ。
ファッション・センスに難がある団体旅行添乗員は、おれのアドバイスが耳に入ったはずだが、なにも言わない。そして、運転手が乗り込んできた。
バスはそのまますぐに発車した。乗っているのは運転手と団体旅行添乗員風の私服警官とおれだけ。地上に向けた坂道をディーゼルエンジン特有の不快な音と振動で上り、区画を半周して、隣のビルの地下に入っていく。若く美しい清楚な女性検事がボールペンの頭で指した、裁判所の建物だ。
裁判所の地下駐車場では男性制服警察官が待機していて、その二人がおれの身柄を引き継いだ。
なんの説明もない。尋ねても、回答は得られないだろう。検察は、横浜地検は、あの若く美しい清楚な女性検事は、おれの身柄勾留を裁判所に請求したのだ。
仮設の法廷としても使えそうな広い会議室のような部屋に、一人で放り込まれる。検察庁の待機室のような柵はない。
《気分が悪くなったら裁判所職員に》うんぬんのいかめしい内容の注意事項が記された年代物のプレートが、同じように年代物の壁に掲示されている。
すぐに呼び出され、制服警察官に連れて行かれた廊下の途中のようなその先には、いずれも三十代前半に見える男女が、デスクに並んで着席している。二人とも、サマー・カジュアルといったいでたちだ。
二人の前のデスク上にはそれぞれ、厚紙一枚を折って作ったらしい、おそらく筒状で三角柱の造形物が不安定に立っており、太い文字でこう書かれている。
《裁判官》
《書記官》
国会や地方議会の議場で、議員が出席、着席し、倒れた状態のものを自ら起こす「氏名標」を模した手作りおもちゃのようで、とても間抜けに見える。そもそも本家である議場の氏名標が、おれには間抜けに見えて仕方がない。なにかの罰で、さらし者にされているかのよう。そして、そんな二人におれは、ひどく同情した。
裁判官の方は年齢的に、判事補だ。
中途採用組を除き新規で裁判官に任官すると最初の十年は一人で裁判ができない。しかし、定員の関係から、五年経てば最高裁判所の指名によって、「特例判事補」として判事と同じ業務ができるようになる。
警察官で本来なら巡査部長以上しか司法警察員の職名を与えられないのに、それ未満の階級である巡査長、ピロシキ田中が司法警察員の指定を受けているのと似た構図だ。
《裁判官》の氏名標の男が、口を開く。
「検察から請求があった勾留を認めるかどうかの裁判を行います。まず、本人かどうかの確認をしますす」
人定質問から始まる。
裁判所は却下するしかないのに、ご苦労なこった。却下されるに決まっている勾留を請求するとは、検察庁も面倒な仕事がご熱心なこと。
そんな考えで、逮捕された青葉署での弁解録取書、身柄ごと送検された先の横浜地検での検察官面前調書と同じように、黙秘権について告知された後、《裁判官》の勾留質問に応じた。
「これで質問は終わります。別室でお待ちください」
制服警察官に伴われ、先ほどの会議室のような部屋に戻った。
すぐに呼び戻された。
「あなたに対する十日間の勾留請求を、裁判所は認めます」
《裁判官》の言い間違いか、おれの聴き間違いだと思った。
「あなたを勾留する事実について、裁判所は一カ所だけ、あなたに代わり、あなたが勾留されると連絡をすることができます。希望があれば、今おっしゃってください。それから、私選弁護人を選任する財力がない場合、当裁判所として、国選弁護人を選任します」
やられたーーと思った。すべてが分かった。宇宙の仕組みが理解できた気がした。
おれの身柄に関するストーリーは、最初から構築されていた。構築したのは、株式会社三和の早漏顧問弁護士、ムーミン藤間崇史と彼の所属する大江・田中・大宅法律事務所、ならびに彼らと親密な関係にある横浜地方検察庁検事だ。
青葉署は、大きな影響力を示していないはず。警察の関与など、検察も裁判所も、念頭に置かない。
ただ、警察が検察に事件を送る際、刑事訴訟法に基づく犯罪捜査規範に従い「意見書」を添付する。被疑者に対する警察の心証を、検察に知らせる目的だ。意見書の内容は、心証が悪い順番に、「厳重処分」「相当処分(または「処分相当」)「寛大処分」「しかるべき処分」のおおむね四種類。
このうち、軽い「寛大処分」「しかるべき処分」は、警察としては、起訴に持ち込んでも公判維持が困難と考えられるという検察へのご注進だ。だから、この程度の事件はそもそも送検しない。検察からの指示でしょぼい事件の捜査に当たった場合に警察は、致し方なくこの類いの意見書を添付しお茶を濁す。
青葉署が横浜地方検察庁への送検に際し、おれの身柄に付けた意見書は、心証最悪の「厳重処分」だったに違いない。
そして、それは、青葉署が主体的に持ち得た心証ではない。なにしろ青葉署では、弁解録取書以外の供述調書を作成されていないのだ。つまり、捜査指揮権を持つ地検が、青葉署に、「『厳重処分』の意見書付きで身柄送検するよう」指示していた。
若く美しい清楚な女性検事は、自らが所属する横浜地検の作戦を、知らされていなかった。知らされていないから、警察では聴取されていない内容、時期のことにまで踏み込んできた。
しかし、知らされずとも、検事の誰が聴取に当たっても自動的に勾留請求がなされるよう、地検は布石を打っていた。
だから、若く美しい清楚な女性検事は、取材で警察も担当していたのかと、おれの経歴に驚いた。「厳重処分」の意見書が添付されるような事件でも被疑者でもないのに、なぜ青葉署は、神奈川県警は、警察はこうまで強気なのか、おれと警察の間にいったいなにがあったのかと。
横浜地検は、勾留請求する相手方の横浜地裁にも、請求を却下せぬよう、圧力を掛けていた。
法廷では、検察官を含む事件関係者より一段高い法壇に裁判官が座るなど、判事の地位が検事のそれより高いのだという印象操作を、国家は企てる。しかし、刑事事件において実際には、その地位は逆転している。
この「逆転」については、章を改め詳述する。
若く美しい清楚な女性検事が、おそらく無意識にであろう、裁判所建物が自身の後方にあるのだとペンの頭で指し説明したのは、UR都市機構の団地に入居したばかりのころ、団地管理サービス事務所の管理主任、渋谷が、初対面のおれを、「こいつ?」呼ばわりで、ペンの頭で指したのと同じ、発想、価値観だ。
《裁判官》の厚紙製「氏名標」もどきのおそらく特例判事補が恩着せがましく言う「一カ所だけの連絡」は、誰の電話番号も覚えていないし、職場経由で連絡が付きそうな相手にまで捜索範囲を広げるとかえって人選が困難だしで、断った。
国選弁護人については、費用がなくても条件次第で動いてもらえそうな弁護士が知人に複数いるが、章を改め後述するような理由から、可能であれば国選で就けてもらうことにした。
(拾参 カーゴパンツ「1 機動隊のお下がり」に続く)




