拾弐の3 名札(ネームプレート)を見たのか
「商品と買い物かごが床に落下したことも、店が喧噪に陥ったことも、『分からない』ということでいいですか」
広い天板のデスクの向こうの若い美人女性検事は、綴じられていない紙の束に、ペンでメモを取っている。
「『分からない』と言うと、記憶が定かでないとか、あるいは、罪状を否認する常套句のような印象を与えてしまいます。ぼくは記憶は定かです。否認でもありません。その場面を見ていないから、『知らない』」
知らない、分からない、と女性検事は首をかしげながらつぶやく。
「『不知』ではどうですか」
提案してみた。
「『不知』だと民事事件で用いる別の意味と混同してしまいます」
「そうか。そうですね」
民事裁判の口頭弁論で、相手方の主張を否認し対抗する場合に、この用語を使う。
「分かりました。『知らない』でいきます。時系列が戻りますが、今回の事件の前に、この会社や店との間でどんなトラブルがありましたか」
「いろいろと問題を抱えてる店だという印象は持っていましたが、ぼくの方からなにかを指摘したことはありませんし、店側からなにか言われたこともありません。会社については、今回の一件があるまで一切、知識を持ち合わせておりませんでした」
「トラブルはなかったということですか」
「ぼくはそう認識しています」
だから、「企てる」なんてことはありえないのだ。
「事件の日には、なにをしに店に行ったのですか」
「買い物をするためです。それさえ貫徹できませんでしたがね」
「店には何度も行ったことがありますか」
「あの一件の前には、日常的に行ってます」
「前には? 事件の後には行っていないってことですか」
意外だという表情を、女性検事は見せた。
「一件の二カ月後ですかね。四月の初めごろ、店長から『もう来ないでほしい』ようなことを言われてからは、行ってません」
「その二カ月間には?」
「それより前と同様、日常的に行ってます」
「それも、買い物のためですか」
「買い物が主目的ですが、ぼくが行くことによる店側の反応を見る目的もあります」
「分かりました。時系列を元に戻します。買い物かごを手で払った事実はありますか」
「あります」
「なぜ払ったのですか」
「レジ打ちの作業がまったく進まない。あのままでは会計が進まない、支払いができない、買った物を持って帰れないから」
「その手で払ったかごは、ご自身の物ですか」
「いや、店に備え付けの、入り口付近やら店内のいくつかのポイントやらに積み上げてる、店のかごですよ。なんて言うんだろうな、ショッピング・カートみたいな名称があるのかな」
「すいません、聴き方が悪かった。ご自身がレジ台まで持っていったかごですか」
「そうです。買う商品を入れて、会計のためにレジのカウンター状の台に置いて…いや、違うな。台の上に置いて、レジ係がレジを打って、実際には機械に商品をバーコードだかなんだかを当てて読み取らせるんですが、空のかごに商品を移していきますね。その移す先の、当初は空っぽだったかごです。ぼくがレジまで持ってきたものではありません」
かごを台に置く手順を、実際に空いている両手で再現してみて、記憶を手繰る。
「そのかごは、手で払った後、どうなりましたか」
「見てないから、『知りません』」
「かごを手で払った後、レジ係店員とはやり取りをしましたか」
「しました」
「どういうやり取りをしましたか」
「名前を確認したり、口論したり」
「相手の名前を確認したということですね」
「はい」
「どのような方法で確認したんですか?」
「胸の名札を見ました。ひらがなで表記がありました」
「ちょっとすいません。あなたが、相手のネームプレートを見て、名前が分かったということですか」
ここでも女性検事は、意外だという表情を見せる。
「その名前でいいのかって尋ねたら、そうだって」
「なんて書かれていましたか」
「ここで口に出して言って、いいんですか」
男性事務官を横目で見た。なんの反応も示さない。
事件関係者、特に被害を申告する側の個人名は慎重に扱うべきだという常識が、事件取材経験の長いおれは身に沁みついている。青葉署での弁解録取書でも、そこには触れられていない。
「あなたさえよければ、問題ありません」
「『ほづみ』ですね。づが『す』に濁点だったか、『つ』に濁点だったか、記憶が定かではありません。読み上げた音で覚えてるんで」
「ネームプレートの大きさは?」
「名刺と同程度。おそらく名刺をそのままぴったり入れられる規格サイズです」
「名刺が入っていたのですか」
「あれは名刺じゃないでしょう。ぼくが言ったのは、サイズの例え話です」
「文字は手書きですか」
「パソコンかなにかの活字ですね。PОPなデザインの太いフォントで」
「ネームプレートは、ネックストラップでレジ係店員の首から下がっていたのですか」
「違います。ピンかクリップのようなもので、エプロン状の制服左胸に留められている感じで。ストラップは付いていなかったはずです」
「レジ係店員は男性ですか、女性ですか」
「女性…あっ、見た感じですね」
「いいんですよ、そういうのは気にしなくて。そのレジ係店員とは、それまでにも店内や店の外を含め、顔を合わせたことはありますか」
「あったとしても、ぼくはまったく覚えていません。日常的に買い物をしてるから、元からいる店員だとしたら、何度もぼくの買い物のレジを打ってるでしょうね。相手がぼくを認識していたかどうかまでは分かりません」
「口論の内容は?」
「お互いの言動を非難するんですが、詳細には覚えていません。唯一、印象に残っているのは、相手から言われた『蹴らないでもいいでしょう』か『蹴ることはないでしょう』ですが、これは、蹴った後のせりふですね」
「蹴ったという話に移ります。なぜ蹴ったのですか」
「口論の果てです。相手を黙らせるため」
「相手とは、レジ係店員ですか」
「そうです」
「相手は黙りましたか?」
「黙りません。蹴ったことを批判してるわけですから」
「また時系列を少し戻します。レジ打ちはなぜ進まなかったのですか」
「そのレジ打ち店員が、レジスターの前から長時間、離れたり、どこかに電話をしたりで、そのたびにレジ打ちが中断されるから」
「店員はレジスターの前から何度、離れましたか」
「少なくとも二回」
「どこかに電話をした回数は?」
「覚えている限りでは一回」
「そのことで立腹してかごを払ったのですか」
「違いますよ。レジを離れて戻ってきてからも、電話を終えてからも、レジ打ちはどうなってるのかって口頭で何度も催促しています」
「その催促に対するレジ係店員の反応は?」
「マスクをしてるから唇の動きまでは分かりませんが、かごを払う前に、なにかを言われた記憶はありません。なにも反応がない結果としてかごを手で払ってます」
「あなたの存在にレジ係店員が気づかなかった可能性はありませんか」
「ありません。だって、レジを打ってる最中ですよ。打ってる途中に、レジ係の囲いを出たり入ったり、どこかに電話を掛けてるんですから」
「電話に関して、ほかになにか覚えていることは」
女性検事がなにを気にしているのか分からない。なにかをおれにしゃべせようとしていることは間違いない。
「固定電話」
「携帯電話ではないということですね」
「はい。コードレスでもない。受話器と本体が、カール状のコードでつながってる」
「電話の相手は、どこの誰だか分かりますか」
「おそらく店舗のどこかと内線でつながってる先で、相手は同僚しょう」
微に入り細を穿つ、女性検事の取り調べが続く。本来なら、警察が先にやるべき手続きだ。警察で聴取し、その調書のみの書類送検か、身柄ごと検察庁に送る。
ところが、青葉署では、弁解録取書を取られて以降、なんら聴取がない。
その理由が、この時のおれにはつかめなかった。後で振り返れば、なるほどとうなずけることばかりだ。
おれの右前、女性検事の左前に座っている男性事務官はパソコンに向かいなにかの作業をしているが、検事とおれのやり取りを録取している様子はうかがえない。
ここにおれを連れて来た制服警察官はおれの真後ろだし、もし振り返ったとしてもパーテーション越しだから、なにをしているのか分からない。そして、彼ら二人は、そこに控えている気配させ感じさせない。
(「拾弐の4 利き足はどっち」に続く)




