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拾壱の6 地検の横浜支部

 おれが留置されているのは、「少年室」だ。成人向けの別の居室とは、やや離れている。朝、晩の洗顔、歯磨きか布団の出し入れかで居室を出されて戻る際、柵の扉の外側頭上に、《成人使用》という表記のマグネット式プレートが、《少年室》表記の上から貼り付けられているのを見た。もともとの《少年室》表記の方が大きいから、文字が完全には隠れない。

「年少者と成人が顔を合わせると、トラブルの元だからね」

 三交代のどの勤務員の時だか記憶が定かではないが、ペアの内の上席である巡査部長の方に教えられた。

 白髪の巡査部長、お茶目な巡査長が二十四時間プラス残業の勤務を終え交代したペアも、巡査部長、巡査長の階級同士だった。

 巡査部長は顔面の血色が、内臓疾患を持つ者特有のドス黒さ。年かさに見えるが、白髪の巡査部長同様、おれとそう変わらないだろう。

 巡査長は、胴の部分が太い西洋式木樽のような低身長(ちんちくりん)の体形。それぞれ別の勤務員と区別する際には、顔色の悪い巡査部長、樽の巡査長と呼ぶことにする。


 旅館などにかつて備え付けられていた使い捨てに違いない粗末な歯ブラシを受け取った。

「次の購買が届く日までは、歯磨き粉も支給する。その後は、自弁で買うか、歯磨き粉なしで磨け」

 最初の白髪の巡査部長だったか、二番目の顔色の悪い巡査部長だったかに言われた。支給するという歯磨き粉は、チューブから文具の付箋(ポストイット)上に少量を練り出した状態であてがわれる。チューブのまま共有することによるコロナウイルス感染などを避けているのだろう。

 毎週金曜までに指定業者に注文すれば、自弁品は翌週水曜に届くと説明された。逮捕されたのが水曜。刑事訴訟法が定める四十八時間以内に釈放されると安心しきっていたから、自弁でなにかを購入するという発想には当初、至らなかった。


 そして、居室内では、寝転がったり座って壁にもたれかかったりして、アルプスの少女ハイジの気分で壁や天井を眺める。

 お呼び出しはかからない。

 立ち上がり飛び上がって天井に手が届くか試してみる。見た目では届きそうな高さだが、加齢で跳躍力が衰えているのだろう、届かない。

 天井の真ん中に蛍光灯による物らしい照明器具があって、昼も夜も「常灯」状態。就寝時間帯は、ワット数の小さい電球に切り替わる。

 長方形で平たい照明器具の角に、不自然な三角形の穴というか、隙間がある。監視カメラを仕込んでいるとしたらここだとにらんだ。


 前触れもなく柵の小窓が開き、棚にプラスチックの箱型容器と、その上に箸一膳が置かれた。前の日、刑事部屋の取調室で摂った夕食と同じような容器だ。ふたを開けると、前日と同じようなまずそうな中身。

 前日同様、魚の切り身の形をした正体不明の主菜と米飯のみ完食。なんだか分からない副菜は残した。


「少年室」だからであろう、別の居室の様子は、角度的に見えない。しかし、柵越しに観察していると、顔色の悪い巡査部長、樽の巡査長に伴われ、囚人が檻を出たり入ったりしているのが、「解錠」「施錠」の掛け声とともにうかがえる。

「この時刻まで呼び出されないってことは、きょうは調べはないってことですか?」

 おれの居室前を通りがかった巡査部長に、柵越しに尋ねてみた。

「われわれには、なんにも分からんよ」

 分かっていても言わないのだろう。

 そのまま、ハイジの気分で夕食を待つ。

 弁解録取書で供述した節分の日のスーパー三和の一件で、なんら取り調べを受ける要素などありはしない。威力業務妨害容疑での逮捕なんて、コケ脅しだ。四十八時間留め置いて、三和関係者に対し「逮捕しました。あいつは懲りてますよ。これで安心です。よかったですね」などとお茶を濁すためのポーズなのだ。 


 その晩も、薬剤師の指摘で一つ減らされた三種類の精神疾患系の薬を飲んで、眠れぬ夜を迎える。

 小窓から薬を受け取りながら、おれは妙な考えにとらわれた。その日の昼食後から、糖尿病の薬も飲まされている。処方内容は、かかりつけY内科と同じ。

 この状況から、いくつかの可能性が導き出せる。

 Y内科の処方薬を青葉署が入手したということは、おれの身柄拘束は、おれが楽観視するより長引くのかもしれない。逮捕から四十八時間の翌日正午過ぎごろまでに釈放するつもりなら、一日、二日飲まなくても体に異常をきたさない糖尿病薬を、青葉署がY内科まで出向いて処方箋を書かせ、入手するとは思えない。

 そしてその要素は、前日の人相の悪い双子の片割れが、精神科医に長めの処方を求めていたことと合致する。

 さらに、糖尿病で受診するかかりつけY内科には、早い段階から、うがった見方をすれば逮捕前から、青葉署は接触していた。身柄拘束に体が耐えうると確証を得ていた。

 逆に、うつ病と不眠症で受診するかかりつけX医院医師とは、接触を避けた。精神科医だから、身柄拘束には体よりむしろ心がもたないという意見書を出される恐れがある。刑事課強行犯係巡査部長、ジョー松本が、X医院での処方をことさら拒んでいた理由は、ここにある。


 布団の中で眠れぬ二夜目を過ごし、未明のうちから起きて布団を畳み壁にもたれかかって座り、あれやこれや考えた。

 初日の身上書と弁解録取書だけで、警察が逮捕した容疑者を放つとは、考えにくい。これまでの事件取材経験でも、私選の敏腕弁護士が強引に身柄を奪還するなどといった特殊なケースでしか、そんな前例に接したことがない。

 本格的な供述調書は、必ず取られる。しかし、青葉署に残された時間はない。本来なら取り調べをしてしかるべき丸一日、おれを留置施設に放置していたのだから。

 事件は検察に持ち込まれる。つまり、四十八時間では釈放されない。最初からそういうストーリーだった。

 こんな仮説を立てるうちに、ぎんぎんに眼がさえていった。脳みそがフル回転しだした。


「五十九番。出掛けるからそのつもりで」

 三日目の朝、パンをかじっていたら、二十四時間勤務が間もなく終わる、顔色の悪い巡査部長に言われた。

 どこにーーと尋ねる前に、巡査部長は姿を消した。行く先は、検察庁以外にあるまい。その日の正午過ぎで、刑事訴訟法が定める、一つの事件に関する身柄を拘束した上で警察の取り調べられるタイムリミットに到達する。


 樽の巡査長が柵の前を通りがかったから、声を掛けた。

「どこに送られるんですか?」

「検察庁だ」

「そんなの分かってます。地検なのか、地検の支部かのか、区検なのかを聴いてるんですよ」

「チケンのヨコハマシブだ」

 おれの聴覚が正常なら、樽の巡査長が唱えた呪文は、日本には公式には存在しない、おそらく世界中のどこにも同様に存在しない、秘密結社かなにかの幻の旗印だ。


 日本の司法機関は最高裁判所を筆頭に、全国を八ブロックに分けそれぞれに高等裁判所が、そして四十六都府県に一カ所、北海道のみ四カ所の計五十の地方裁判所ならびに家庭裁判所がある。

 関東ブロックの東京高等裁判所管内には、東京、横浜、さいたま、千葉、水戸、宇都宮、前橋、静岡、甲府、長野、新潟の各地方裁判所・家庭裁判所がある。首都・東京を除き、県名ではなく県都である市名が付けられている。

 さらにその下に、四百三十八カ所の簡易裁判所がある。おれに対するふざけた逮捕令状を発付した間抜けな裁判所は、警部補、グランパ石場のくしゃくしゃ折り紙によれば、この簡易裁判所。「神奈川簡易裁判所」の名称は神奈川県ではなく、横浜市神奈川区に基づく。横浜地裁管内には、横浜、川崎、相模原、横須賀、小田原、神奈川、保土ケ谷、鎌倉、藤沢、平塚、厚木の簡易裁判所がある。

 そして、この簡易裁判所のおおむね半分、二百三カ所に、地方裁判所の支部が併設される。横浜地方裁判の支部は、川崎、相模原、横須賀、小田原の四カ所。


 行政機関たる検察庁は裁判所に対応して置かれるから、最高検察庁を筆頭に、八ブロックにそれぞれ高等検察庁があり、四十六都府県に一カ所ずつと、北海道のみ四カ所の地方検察庁。東京高等検察庁管轄の横浜地方検察庁には四カ所の支部があり、それとは別に、簡易裁判所に対応する十一カ所の区検察庁がある。


 つまり、神奈川県警青葉署に逮捕されたおれが身柄を送られるのは、通常なら、横浜地方検察庁(ちけん)か、その川崎、相模原、横須賀、小田原にある四つの支部、あるいは、横浜、川崎、相模原、横須賀、小田原、神奈川、保土ケ谷、鎌倉、藤沢、平塚、厚木にある十一カ所の区検察庁(くけん)のいずれかだ。

 もちろん、事件の性質によっては別エリアの検察庁に送られることもある。しかし、樽の巡査長が言う、「チケンのヨコハマシブ」、漢字にするとおそらく「地検の横浜支部」なんて、どこにもない。


 今も昔も警察官が法律を知らないこと、なのに、世間に対しては「知っている」と虚勢を張っている、張らなければ仕事が成立しないという悲しく同情すべき事実は、これまで述べてきた通りだ。

 しかし、留置管理に当たる巡査長が、被疑者の身柄の送り先である検察庁の組織について知らないとは、思いも寄らなかった。

 樽の巡査長は、無知を装ったのでも、あえておれに事実を伝えないでおこうというつもりでもなかった。彼らはそれで、仕事が成り立っているのだ。ほかの被疑者らから同じように聴かれても、「チケンのヨコハマシブ」などと寝ぼけたことを言って、警察官と同程度かそれ未満の頭脳の被疑者も、納得しているのだ。


(拾弐 作戦届かず先走る「1 中華街の門」に続く)

● 泉谷しげる(一九四八-)『眠れない夜』(一九七四年発表)

● 小田和正(一九四七-)作詞・作曲、オフコース『眠れぬ夜』(一九七五年発表)


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