拾壱の4 お盆が近いから
「眠れないってことだね。常備薬は分かる?」
壮年の男性医師が尋ねる。
「これまでに何度も変遷してて、今は四種類処方されてます。ハルシオンだけは分かります。あとの三種類は、名称は分かりません。睡眠導入剤だけじゃなく、抗うつ薬も含まれてるはずです」
手錠腰縄でつながれたままのおれは、患者用のいすに座って答える。取調室でのように、いすにつながれることはない。腰縄の端を、真後ろに控えるお茶目な巡査長か人相の悪い双子のどちらかがこぶしに巻き付け握っているのだろう。
医薬品にはその成分に戻づく「一般名」と、製薬企業ごとに付けた「商品名」の二通りの名称がある。ハルシオンは米国のアップジョン社(後にファイザー社が買収)が一九七〇年代後半に開発した睡眠導入剤で、世界中で爆発的に売れたから、一般名「トリアゾラム」よりも商品名「ハルシオン」の方が、医療関係者の間でも患者の間でも浸透している。日本では一九八二年に承認された一方、副作用や依存症の問題から、承認が取り消されたり、投薬に厳しい制限を付けたりの国もある。
そして、特許が切れ、別メーカーによる別商品名の後発品が続々登場しているにもかかわらず、国内の医療現場では今もハルシオンで通用する。
「ハルシオンと併せて処方するとしたら例えばーー」
医師はいくつかの薬品名を挙げる。聴いたことのある名称の薬品は、体に合わず変えてもらったものばかりだ。
後述する通り、おれは省庁再編前の旧厚生省時代から医療行政の取材を長く担当していたことがあり、平均的な患者に比べれば、その方面に詳しい。しかし、だからこそ、医師の治療方針には異を唱えないでおこう、深く追求しないでおこう、さらに言えば、あえて関心を示さないでおこうと心掛けている。生半可な知識で対抗すると、医師にとってもおれにとっても、後味の悪い結果を招きかねないからだ。
同じように長く取材を担当していた警察など捜査機関ともそういう関係でいたいのだが、今回のように、相手である警察や、その威を借りようとする貧民窟の住人らが、おれの自衛手段を許してくれず、三者ともが不幸に陥る。
「ーーリフレックス」
「あっ、リフレックス。聴いたことあります。今もおそらく処方されてます」
「こういうの」
医師がデスクトップパソコンの液晶画面をこちら側に向け、画像を見せてくれる。ブルーのPTP包装シートに黄色い楕円の錠剤が入っている。かかりつけ医に処方されている物と同じだ。
「抗うつ剤だね。一般名だと、ミルタザピン」
後発品がたくさん出ていれば、それぞれ形状や色、シートが異なる。かかりつけ院外薬局が先発品を調剤していたか、壮年医師の示すパソコン上の画像がかかりつけ薬局の後発品と同じだったか、後発品でも形状や色、シートが同じだったかのいずれかだ。
「あと二つは、分からないか」
「分かりません。申し訳ありません」
「薬を飲まないと、どれくらい眠れない?」
「試してみたら一週間でも起きていられるんですけど、頭も体もおかしくなって、苦しくて服薬して寝ました。それより長くは試していません」
「そりゃひどいな…」
ひどい不眠症と認識しても、初診の患者に強い薬は出さない。精神科医とはそういうものだ。
精神科医に限らずだが、精神科の薬物療法は特に効果が医師の五感では分かりにくいから患者への問診に頼らざるを得ず、効き目の弱い薬から順番に試していくのがセオリーだ。そのことを知らない患者が、「精神科は薬漬け」と見当外れな非難をよく展開する。
結局、常備薬のハルシオン、リフレックスと、おそらく常備薬とは異なる二種類、計四種類を処方してもらうことになった。
「何日分、必要?」
壮年医師は、おれの後ろの三人に尋ねる。
「お盆休みのこともあるんで、長めにお願いします」
人相の悪い双子の片割れが答える。
その日は八月九日だから、全国標準の盂蘭盆でその期間に事業所が休業することの多い八月十三-十五日を間近に控えている。
双子の片割れの主張には、二通りの意味合いがあると、その時のおれはにらんだ。
一つ目は発言通りで、盆の時期には夏季休暇を取る職員が集中するから署内が手薄になりがちだし、医療機関も休業しがち。
そしてもう一つ。おれに対する、長期にわたり身柄を拘束するのだという脅しだ。
警察が容疑者を逮捕したら四十八時間以内に身柄を検察庁に送るか、それが不可能なら釈放しなければならない。青葉署がおれの身柄を検察庁に送りたくても、虚偽の被害申告に基づくこんなしょぼい案件を、検察庁は受け取らない、受け取れないはずだと、おれは楽観視していた。二日限りの辛抱だと、安心しきっていた。
だから、人相の悪い双子の片割れによる、囚われの被疑者を脅かす芝居だと受け止めた。
「じゃあ、二週間分、出しとくんで」
医師はパソコンのキーボードに向かう。処方箋を作成するのだ。
釈放されても処方された薬を被疑者であるおれは「お持ち帰り」できないから、そのほとんどが廃棄処分。国家予算の無駄遣いだと、財政当局をおもんぱかった。
クリニックに入っていったのとは逆ルートで建物を出て、白線に収まらず斜めに止まっているワゴン車に乗せられ、車は発進した。
「薬は手に入ったんですか?」
三人のうちの誰に対するでもなく聴いてみた。
「これから薬局に受け取りにいく」
助手席の、双子の片割れが振り返らずに答える。
「薬が体に合わないと、どうなるの?」
おれの隣でおれの手錠につながる腰縄をこぶしに巻きつけ握る、お茶目な巡査長が尋ねる。
「効き目が弱くて眠れないとか、逆に強すぎて起きれないとか。怖い夢を見るとか、のどが渇いて何度も目が覚めるとか」
睡眠導入剤の世話になるようになって二十年余の間に経験したことを思い出しながら話した。
「朝の起床時刻に目を覚まさなかったら、蹴とばしてでも起こすよ。布団を引っぺがすよ」
「それはお巡りさんたちの仕事でしょうから、遠慮なくやってください」
刑事課強行犯係の奇襲に寝ていたおれが応じられなかったその日の早朝のことを、お茶目な巡査長は知らされているのかもしれない。
チェーン展開する大手ドラッグストアの大きな看板がある広い駐車場に、車は滑り込む。駐車スペースには前進のまま収められたからだろう、ハンドルの切り返しを、双子の片割れは今度はしない。
もう一方の片割れが助手席から降りて、煌々と明かりのともる店舗に入っていく。
双子の片割れが戻るのを待っている間、お茶目な巡査長は言う。
「おむつ、はめて寝る? 署に常備してるよ」
過活動膀胱で頻尿だという疾病歴のことを気にしているのだろう。漏らすとその後始末で、彼ら警察官も嫌な思いをする。
「我慢ができないとか、そういうようなもんじゃないんです。尿意はちゃんとあるんで。一度排尿しても、次の尿意の訪れるのが他人より早いってことです」
そうこうしているうちに双子の片割れが、助手席に戻ってきた。
「五十九番」
「はい」
「××××って薬は、これまでにも飲んでたのか?」
「その名前じゃ分かりませんね。飲んでたかもしれないし、飲んでないかもしれない」
「血糖値を上げる働きがあるって、薬剤師に言われたんだ」
糖尿病の既往歴に、調剤薬剤師は反応した。つまり、警察が用意し薬剤師に示したなんらかの書面には、おれの既往歴が記されていた。ところが、同じ内容の書面を見たはずの医師は、糖尿病の既往歴に気づかず、血糖値を上げる作用のある薬を処方したということだ。
医師のミス、とまでは言えない。むしろ、医薬分業が正常に機能したと評価しなければならない。
「この薬は、飲ませられんかもしれん。署に戻ってから上に報告する」
助手席の双子の片割れがそう言った時にはすでに、運転席の片割れは、車を発進させていた。
さっきの医院に戻って医師に別の処方箋を書かせろ――とは、囚われの身でなくても、大人の、社会人の常識として、おれには言えない。四種類の薬のうち一種類が飲めなくても、死ぬような事態には陥らないであろうからだ。
(「拾壱の5 アルプスの少女ハイジ」に続く)




