拾壱の2 お医者さまがおっしゃった
「じゃ、これを着て」
下着を含め、上下灰色の囚人服を渡される。
刑務所では同様の物を舎房着と呼んだ。建物の一棟を「舎」、寝起きする部屋を「房」と呼ぶからだ。刑務所の舎房着は前開きでボタンがあったが、青葉署の囚人服はボタンのない丸首。やや肥満体のおれは大きなサイズをあてがわれ、ズボンの裾が長すぎる。
着てから、上着の左胸、ズボンの左ももに、《官》の太くて黒い文字が入っているのに気づいた。
文字を型抜きしたプレートにスプレーで塗料を吹きかける「ステンシル」という技法で転写したようだ。型抜きだから、《官》の文字に二カ所ある四方が囲まれる部分は、線がつながっていない。「官」は、貸与される官品という意味だろう。長期にわたり留置される場合、自弁で私物の着用が認められる。
「座って」
パイプいすに腰を下ろす。刑事部屋の取調室でのように、パイプに手錠や腰縄でつながれることはない。
正面に座る白髪の巡査部長から、人定を一通り確認される。巡査長は隣でデスクにもたれかかって立ち、クリップ・ボード状の物に挟んでいるらしい用紙にペンを走らせる。
「前科前歴は?」
「道路交通法違反を一件。酒気帯び運転で罰金刑を受けて、払わず埼玉の刑務所で労役場留置です」
代わり映えのしない自己紹介だ。
「所持品を預かる。着てた服も含めて一点一点、確認するから」
白髪の巡査部長が挙げる品目を、巡査長が復唱し記録に取る。
「灰色半袖シャツ、黒色ズボン、茶色ベルト、黒色短靴」
巡査長はよく見ると、平均的日本人の黒い瞳と比べ色素が薄く、茶色がかっている。
「運転免許証、キャッシュカード。これは名刺か?」
予備の名刺を財布に入れているのだが、劣化しよれよれで面談の相手に渡せるような代物ではすでになくなっている。UR都市機構のブレーカー問題が発生した日、路線バスに落とした財布が、名刺に刷られている電話番号を頼りに東急バス営業所から連絡が入り無事、戻ってきたのだから、名札代わりと思えばこの紙片も無用ではない。
「古い名刺ですね」
「今は違う仕事をしてるってこと?」
「いや、今も変わりません。ぼろぼろに朽ちてるっていう意味です」
こういうやりとりをしたから白髪の巡査部長は、少なくともその時点からは、おれの素性を把握している。
「これ、なんて表現すればいいんだろう」
瞳が茶色い(これより別の巡査長と区別する際には「お茶目な」と表現する)巡査長と相談しながら、白髪の巡査部長はおれの財布の金具を開いたり閉じたりする。巡査長にも答えが導き出せない。
「ぼくらはそういうの、札挟みとか、マネークリップとかって呼んでますよ」
「そうか。それでいこう。クリップ付き財布」
おれは容器全体の名称を説明したつもりだったが、白髪の巡査部長の表現の方がその実物を見たことがない者にとって分かりやすいかもしれない。
「後ろ左ポケットにボタン。右にはないな、ボタンの受けも」
ズボンを点検しながら巡査部長は言う。
「お巡りさんたちの制服と違って、この手のスラックスにはたいがい、右後ろのポケットにはボタンがありません」
巡査部長も巡査長も、クリップ付き財布の件が解決してから後は、おれの説明に関心を示さない。
「ポリ袋。四五リットル」
ピロシキ田中がサンタクロースのように担いでいた、おれの部屋から持ち出したごみ袋だ。
「あっ。ぴったり」
巡査部長が容量を言い当てたことにおれは驚いて声に出してしまったのだが、やはり二人はなにも言わない。
「シツビョーレキは?」
尋問の主が巡査長に代わった途端、未知の用語に出くわした。
「シツビョーレキ?」
「そう。シツビョーレキ」
「どんな字?」
巡査長の手元をのぞき込もうとしたら、ボードを大げさに引っ込められた。
「疾病歴」のことを彼らがそう読んでいるか、巡査長の誤読かだ。おそらく、同じ漢字を使って別の読み方をする似た意味の「疾患」「傷病」と、巡査長が混同しているだろう。
「既往歴のことを言ってるのなら、例えば糖尿病」
「定期的に通院してるの?」
「はい」
巡査長はペンを走らせる。おれの読みで間違いなかった。
「ほかにもあるの?」
「うつ病と、それに伴う不眠症」
「これも通院してる?」
「はい」
「これくらい?」
「通院をやめたのもあるんですけど」
「なに?」
「過活動膀胱」
「カカツドーボーコー? どんな字?」
先ほどと尋ねる立場が逆になった。
「多過ぎ、少な過ぎの過ぎるに、活発に動くの活動。腎臓の腎盂っていう部分が拡張して膀胱を圧迫して、おしっこをたくさんためられないから、頻尿気味です」
「どうして通院をやめた?」
「根本的な治療法がないから。薬を飲んでも尿意を抑えるだけで、かえって逆効果なんです。尿意に気づかず漏らしちゃうってことになりかねない」
「お医者さまがそうおっしゃったの?」
「そうじゃないかって尋ねたら、その通りだって」
「お医者さまが?」
「はい」
「その通りだって?」
「はい」
あきれた表情を、巡査長はする。
「まだあるんですけど」
「もういい」
病気自慢は、巡査長に制止された。
「これは弁護士会の営業みたいなもんなんだけどね」
妙な例え方で、白髪の巡査部長は言う。
「国選の弁護士が付く前でも、一度だけ、当番の弁護士を呼ぶことができる」
当番弁護士のことは知っていたが、平成の司法制度改革が本格化したころのおれは事件取材から足を洗っているので改革の内容を完全には把握しておらず、巡査部長の説明を正確に認識できなかった。もっとも、巡査部長自身も、当番弁護士制度を熟知していたとは思えない。
「一度だけっていうのは、もし起訴と同時にそのまま再逮捕された場合も含めてですか?」
「一事件で一度だから、別件で再逮捕されたらまたそれで一度」
「大切な一回ですね。お願いする場合は、十分に熟考してからにします」
こんな見当違いの会話で、お互い納得した気分になっていた。
おれが認識できていなかった弁護士の接見に関する制度改革に関しては、章を改め詳述する。
「署名と捺印をしてもらうよ」
巡査部長に差し出された書面には、逮捕容疑である罪名の欄がある。自身で埋めなければならない。
《威力業務》まで書いて、「ぼう」の漢字が頭に浮かばずペンが止まった。
「あれ? あれ?」
《暴》
「違うな…」
《防》
「これも違うな…」
女偏だよと巡査部長に教えられ、途中まで書いた誤った漢字を二重線で消し、正確に記入することができた。
「あっ。ぐるっと回しちゃ駄目!」
巡査部長が叫んだ時にはすでに、おれはインクのような物を付着させた右手人差し指を、署名の横で転がしていた。指の断面にして一八〇度分ほどの紋が鮮やかに映っている。
「押さえつけて無理やり指印させたって、疑われちゃうんだよ。ちょんってやってくれなきゃ」
舌打ちし、巡査部長はふて腐れる。インク台の上でもぐるっと回したのを、巡査部長は見逃してしまったようだ。
半生において何度か経験がある交通違反での指印は、ぐるっと回せと指示された記憶がある。労役で入った刑務所でもそうだった。
この日の刑事部屋の取調室ではどうだったか。思い出せない。なにも言われていないから、ぐるっと回してそれで通ったはず。
そして、刑事部屋で掌紋を採る際の、機械のガラス面に手を強く押さえつけられた痛みを思い出し、嫌な気分がよみがえった。
(「拾壱の3 蒲田行進曲」に続く)




