拾の5 愛人バンクじゃなかった
唾液と口腔内組織を採取する器具をなめながら巡査長、古賀を試してみた二年前の暮れの案件は、どうなったのか分からず尻すぼみのままだ。
地元のよく知らない同級生女性に関する、気にかかる情報を拾った。仕事になるかどうか、見当が付かない。直接アタックするには地理的に遠過ぎ、仕事にならなかった場合のリスクが大きい。
本作の筆名「森史之助」とも戸籍名とも異なる雅号で民間の私書箱を借りているから、そことその雅号を使って、実際の身元を明かさず、その女性宛てに思わせぶりな内容の手紙を出しつついてみる、揺さぶってみることにした。もし情報が本物なら、彼女はなんらかのアクションを起こすはず。アクションを起こせば、おれはそれを監視できる環境にある。犯罪絡みではない。
そして、予期せぬ内容のアクションを、彼女は起こした。手紙を投函した数日後、おれの携帯端末「青色二号」が、《0973-23-2131》の電話番号を液晶画面に表示した。大分県警日田署の代表番号だ。
一〇〇〇キロ離れた片田舎の警察署に、用はない。向こうがおれに用があるとしたら、手紙を受け取ったはずの彼女絡みだ。こんなに動きが早いということは、おれがつかまされた情報はガセネタかもしれない。しばらく放置しておくことにした。
同じ番号から三度ほど受電があったが、いずれも出ていないし、コールバックもしていない。
そして、二〇二一(令和三)年十二月八日、神奈川県警の捜査員二人の訪問を受けた。
――わたしたちがなぜここに来たか、心当たりがあるだろう?――
――いっぱいあり過ぎて、どれだか分かんねえよ――
代わり映えのしないあいさつを交わす。
いかがわしい内容の文書を送り付けたようなことを、室内の丸いすに座らせた二人は言う。大分のことかと尋ねたら、そうだと言う。
この二人は、おれの素性を把握していなかった。把握していないふりなのかもしれない。雅号と私設私書箱を手繰ってうちを探索しているのだから、素性を把握するのは正統かつ容易な手順のはずだ。
――探偵業をしてるのか?――
おかしなことを、二人は言う。
夭折した俳優、松田優作(一九四九-八九)の容姿と、伝説の主演テレビドラマ『探偵物語』設定舞台《工藤探偵事務所》の文字が印刷される著作権無視のブリキの板を、玄関横の明かり取り窓の鉄柵にワイヤーで結わえ付けている。それを見たのだろう。
――松田優作を知らないの? 探偵物語を知らないの?――
知らないと、二人とも言う。ジェネレーション・ギャップなのだろうか。二人とも三十代に見える。知らないふりなのかもしれない。
――なぜ手紙を送り付けたのか――
――商売のため――
――どんな商売か――
――それを調べるのが、あんたらの仕事――
――どこで手紙を書いたのか――
――ここでだったか、出先の都内でだったか覚えてない――
――条例に抵触する可能性がある――
――どこの自治体の条例?――
――とりあえず神奈川県――
――なんていう条例?――
――神奈川県だと、迷惑行為防止条例――
――立件しろ――
――捕まえにきたのではない。対象にもう関わるな――
――あんたらの指示は受けない。強制するのなら、令状を持ってこい――
――恋愛感情なのか――
――彼女、もうばあさんだろ? ぼくがじいさんなのと一緒――
――恋愛に年齢は関係ない――
――ぼくはそんな変態じゃない――
――大分県警の地元署からも電話を受けてるだろ?――
――どうかな――
――末尾〇一一〇の番号から受けてるはずだ――
――それなら受けてない――
――うそをつくな――
――あんたらの常識が世界の常識と思うな。大分県警は本部も全十五署も、末尾は〇一一〇ではない――
――あれえ? あれえ?(とカバンの中の書類をがさごそ)――
こんな不毛なやり取りをして、二人は帰っていった。
彼女の反応があまりにも早いから、おかしいと思ってよくよく調べたら、人違いだった。
日本語の音節には、母音を二倍に伸ばす長音がある。本作タイトルの一部「法曹ぶち切れ」は、〈ホウソウブチキレ〉と読むが、実際の発声は、それより〈ホーソーブチキレ〉に近い。音節に分けると、〈ホー/ソー/ブ/チ/キ/レ〉で、〈ホー〉と〈ソー〉が長音。
このリズムは、例えば、「ぎゃあぎゃあ喚くな」も同じ。音節では〈ギャー/ギャー/ワ/メ/ク/ナ〉。
本名フルネームの音節リズムが同じだから、文字も読みも異なる別人を、記憶がおぼろげな彼女のことと誤認してしまった。その別人は、都内にいた。容易に接触できた。商売には、この稿を書いている時点では、まだできていない。
相手を取り違えてしまったことは、容易に接触できた都内の別人に対してだけでなく、神奈川県警捜査員にも、大分県警日田署に届け出たらしい地元の同級生女性にも伝えていない。
対象が人違いだった取材を進めていく過程で、さらにまったく別の同級生女性の、本人にとっては不名誉であろう過去を発掘してしまった。
その同級生は、おれと同じクラスだった高校一年のころ、二週間の停学処分を受けている。化粧品を万引きしたのだとクラス担任教諭は説明したが、疑わしい。彼女の家は裕福で有名だからだ。
――異性関係に違いない――
クラスの男連中で、そううわさしていた。
現役女子大生を主戦力とした売春組織「愛人バンク」がメディアで取り上げられ、類似業者が全国に林立した。『夕ぐれ族』という自称・短大卒の女性社長の会社が嚆矢だ。愛人バンクも夕ぐれ族も目新しいワードで、万引き容疑で停学処分を受けた女子も罪状はきっと実際はそっち方面なのだろうと、おれたちは勘繰った。それでなんとなく納得していた。
――道仁会の抗争があって、一斉摘発の場に居合わせちゃったのよ――
山を挟んで県境の向こう側、福岡県久留米市に本部を置く指定暴力団のことだ。四十年ぶりに本人からカミングアウトされて、驚いた。
真偽は分からない。しかし、本人とは別の人物も、同じことを言っている。少なくとも本人は、おれ以外に対しても同じ説明をしているということだ。
指定暴力団の抗争で組員もろとも摘発されたと「三人目」の同級生からカミングアウトされた前後、日本最大の警察署である警視庁新宿署員を名乗る未知の男声から、アポイントメントを求める電話連絡を受けた。よくあることだ。いつものように、無視を決め込んだ。
高校時代に指定暴力団の抗争絡みで摘発されたという女性の立ち回り先が、新宿署管内にある。留守番電話メッセージの求めるアポイントメントが、彼女と関係あるかないか、分からない。ほかにも心当たりは山ほどある。県境の山より高くて険しい。
警視庁町田署生活安全課の警部補、つるっぱげ浅沼の捨てぜりふ「次は逮捕だ」の意図を電話で尋ねた際、オカザキと名乗る浅沼の同僚が、〈あなた、とても危険な場所に立ってるんだよ/綱渡りだよ。どっちに堕ちるか分からない〉とお決まりの脅し文句を吐いていた。その脅しに根拠があるとしたら、例えばこの新宿署ルートというか、新宿署コネクションのような類いのことを言っているのだろう。
そんな記憶を手繰りだすときりがないから、古賀とのやり取りでは、二年前の暮れに神奈川県警の捜査員がニコイチで来た件とのつながりを探るだけにとどめた。
「新型コロナウイルス感染症が鎮まらないからマスクが外せない世の中だけどさ」
「はい」
よもやま話を古賀と続ける。
「相手の顔の覚え方が、マスクがあるのとないので、違ってくるね」
「どういうことですか?」
「マスクを着けてるともちろん、人相が分かりにくい」
「そりゃそうですね」
「だから、マスクに隠れない眼の辺りなんかの特徴をメインに記憶に刻む」
「です、です」
「ところが、マスクを外すと、マスクで隠れてる部位の方に、大きな特徴を見つけちゃうことがある」
「はい、はい」
「そうすると、マスクを着けてた時のイメージなんて、吹き飛んじゃう」
「ははは。自分の顔、覚えてもらってます?」
「今みたいにマスク着けてれば、どっかで会っても分かるよ。外した状態で再会したら、気づかんかもね」
「外してみます」
耳の後ろのひもをつまみ、古賀はマスクを外した。
「おお。覚えたぞ。マスクのない方がいい男だ」
「頬の肉を、落としたんですよ。フィットネスがうまくいって」
自分の右頬を、古賀は右手でさすって見せる。
「顔の肉はなかなか落ちないもんなんだけどな。落として正解だ」
いい男、古賀の顔はこの日の後、取調室の外で一回、署庁舎外で少なくとも一回、思わぬきっかけで拝むことになる。
(「拾の6 中学校ソフトテニス部の上下関係」に続く)




