拾の4 解体新書(ターヘル・アナトミア)
顔と名前の一致しない私服勤務員の男が、常に開放状態の取調室の扉の向こうから、巡査長、古賀を呼ぶ。
扉が常に開放状態なのは、密室を作出しないため。警視庁町田署生活安全課の警部補、つるっぱげ浅沼が曲解し枠との間に靴を突っ込んだ、おれが自宅で訪問者を迎える際、完全に閉まらぬようU字型ドアガードを玄関扉に挟むのと同じ価値観だ。
つまり、取調室を密室にされたら、特殊な事件といったなんらかの事情でもない限り、違法な取り調べが行われている、これから行われるのだと、それだけで判断しなければならない。
呼ばれた古賀は、男から半透明のビニール様の袋を受け取る。
「これをですねえ、しゃぶってもらうんです」
袋は密封されているようで、古賀はそれを慎重な手つきで開封する。中から棒付きキャンディーのような代物が出てきた。
「DNAが採取されちまうな」
「そうですね」
「北海道から沖縄まででここ数十年に発生した未解決のままの性犯罪が、すべてのぼくの仕業だったって、ばれちゃう」
「そうですよ」
古賀から受け取った棒付きキャンディーのような器具は、キャンディー部分が真っ白な発泡スチロール状の合成樹脂で、大人の口腔内に完全に入れて十分なすき間ができるほどの大きさ。棒部分は、箸よりやや太い。
「唾液とか口腔内組織とか、採られたことあります?」
「中学生のころにさ、理科の授業で、口の中の内頬の細胞をプレパラート上に採取して、顕微鏡で観察するって実験、やらなかった?」
「やってません。そういうのがあったんですか?」
「うん。好きな女子の細胞をのぞかせてもらって興奮したりしてさ。教科書にも載ってなかった?」
「載ってなかったと思います」
「最近じゃ、フナの解剖も、カエルの解剖も、やらないんだってな」
「魚のフナですか? ぴょんぴょんはねるカエルですか? 生きたままですか?」
「そう。フナは小学五年か六年のころ、理科の授業で解剖した。カエルは中学の教科書に載ってたけど、やってない。時代的なもんなのかな。地域性もあるだろうな。横浜辺りじゃ、フナもカエルも捕まえられない。令状請求しても無理」
「森さんなら、ヒトの解剖もやったことありそうですね」
「あるかっ! あ、猿はやったな」
「マジっすか? いつのことですか? どこでですか?」
「冗談」
「冗談はやめてください」
「古賀さんが先に言ったんだぞ」
「言ってませんよ」
「ヒトの解剖やってそうって」
「そうでした。言いました」
「こんな感じでどうかな?」
話をしながら口にくわえていた棒付きキャンディーのような器具を、古賀に返した。
「まだですね。もっとべろべろなめまわしてください。ごしごしこすってください」
棒を指でくるくる回しながら点検し、古賀は再度、おれに器具を持たせた。
「そうか。飴の持ちが他人より短いから、唾液の分泌が多いと思ったんだけどな。じゃ、密談を続けよう。唾をたくさん出さにゃならんから、酸っぱい話題で」
再びおれは器具を口にくわえる。
「交番とか機動隊とか交代勤務の部門は、あんたらは三交代制、四十七都道府県のうち警視庁だけ四交代制じゃん。あれ、なんでなんだろうね」
「警視庁は都会で事案の取り扱いが多いからでしょう」
「忙しいから勤務の回数を少なく抑えてるっていうの?」
「取り扱いが多いと、どうしても残業が多くなるし」
「きょうの古賀さんみたいにね。一勤務が長くなりがちだから、非番が多いってことか」
「歴史的な事情もあるでしょう」
「その歴史的な事情なんだけどさ、ぼくの仮説を聴いてくれる?」
「いいですよ。お願いします」
「ぼくが高校生のころの話ね。学校に、警視庁からリクルーターが来るんだよ。警視庁を受験しろって」
「受験する生徒がいたんですか?」
「当時は国公立大の入試が原則一校しか受けられなくて、滑り止めで公務員の採用試験を受ける連中が結構いたんだよ。うちは田舎だから、どこの大学に行くにもお金がかかる。私立大進学やら浪人やらが許されない家計の同級生は、こぞって受けてた。ほんで、警視庁のリクルーターが甘く誘うんだ。東京に来れば、夜間の大学に通えるぞって。地元の県警じゃ、夜間部を持つ大学なんて管内にほとんどないし、公共交通機関が整ってないから、卒配先にもよるけど、非現実的。東京だと、離島勤務でもなければ電車でどっかしらの夜間部を持つ大学に通える」
「四交代制だと、大学に通いやすいってことですか?」
「ぼくの仮説ね」
「警視庁のリクルーターはそう言ってたんですか?」
「夜間の大学に通わせるって話はしてた。四交代制の話は覚えてない。話に出ても、当時のぼくじゃあ理解できなかったろうな」
「理解できる年齢になって、警視庁の人か誰かに聴いてみたことはないんですか?」
「聴く機会がなかった。なにかの拍子で思い出して聴いみたことはあるんだけど、いまだ納得できる回答に巡り合えない」
「自分も知りません」
「そりゃ残念」
しゃぶっている樹脂を古賀に見せるが、「もう少し」と突き返される。
「古賀さんたちのカイシャから…神奈川県警って意味ね。カイシャから来たお客さまをあばら家の奥まで迎え入れるのは、きょうで二回目だよ」
「……」
古賀がこの話に乗ってくるか、試す意味もあった。
「前回は二年前の暮れにね、本部の生活安全部人身安全対策課と、青葉署の生活安全課を名乗る男二人組の来訪を受けた。部屋に上がってもらった。身柄やら捜索やらの令状を持ってたかどうか分からん」
「生安…」
「うん。それでね、ぼくのやってること、商売の一環なんだけど、県の『迷惑行為防止条例』に抵触するから、やめろってくぎを刺された。口酸っぱく言われた」
「迷惑行為防止条例…」
「うん。古賀さん、ぼくの商売、知ってるでしょ?」
「……」
「ストーカーを取り締まるような内容の条文だった。付きまといを禁止するようなさ」
「……」
「それが、条例の第八条だったか、第十一条だったか、今ちょっと思い出せんのよ」
「……」
「なんで八条と十一条を混同しちゃうのかっていうとさ、愛用してるフランス製のRHODIAってブランドの高級メモ帳がさ、いろんなサイズを展開してて、No8とNo11の横幅がぼくの手の大きさにぴったりなじむのよ。だけど、そのどっちかは縦が長すぎて、もう一方は、短すぎる。『帯に短したすきに長し』って慣用句、分かる?」
「それ、十一条ですね」
古賀は話に乗ってきた。つまり、二年前の暮れの案件は、今回の事件とはつながっていない。
つながっていれば、セレナ車両内でも署に到着してからも警部補、石場と巡査長、田中が、UR都市機構関連の別件や、警視庁町田署による三和の事件への関与について沈黙を貫いたように、古賀はなにもしゃべらないはずだ。
慣用句『帯に短したすきに長し』の方に食いつかないことからも、古賀は二年前の暮れの案件を知らないことが裏付けられる。二年前の暮れの案件を知っていれば、古賀は逆に、慣用句に食いつくふりをするはず。古賀がこの慣用句に親しんでいようがいまいが、おれにとってはどうだっていい。
フランス製高級メモ帳のサイズを通販でよく間違って注文してしまうのは事実だ。条例と異なり、最近では長い方のNo8を常用している。
滴るほどの唾液を含んだ器具を、古賀はおれの目の前で再び袋詰めし、密封した。
(「拾の5 愛人バンクじゃなかった」に続く)




