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拾の3 殺人罪はヌレギヌだ

 警部補、石場に続いて、巡査長、田中も取調室から姿を消した。

「指紋、採らせてもらうからな」

 巡査部長、松本が、おれがつながれているパイプいす側の手錠を外し、腰縄とベルトをずらしおれの腹の前まで持ってきて、両手にはめ直した。

「立て」

 松本にうながされ腕を引かれ、おれは取調室を出て、刑事部屋の反対側隅にある、大型コピー機のような機械が設置されている一角に連れて行かれる。

「指紋、(しょう)紋、採られたことあるか」

「あるよ。刑務所で」


 労役場留置のため収監された埼玉の川越少年刑務所で、(ろう)のような物を塗った厚紙に両手を押し付け、蝋で(かたど)るようにして採られた。

 刑務所は検察庁と同じ法務省の機関だから、指紋、掌紋情報は永久保存され、凶悪犯罪が未解決になりそうなたびに、おれのデータと照らし合わせられるのだろうと、当時は観念した。


 逮捕されずに刑務所に行くはずがないだろうと、今度は松本は言わない。

 松本とは別の私服勤務員の男に、機械上部のガラス面に片手ずつ置くよう指示される。手錠を片手ずつ外される。白いモニター画面に、おれの手と指の生涯不変とされる凸凹(でこぼこ)紋様の凸の部分が、黒く映し出される。私服勤務員の男は、おれの手の甲を上からガラス面に押し付ける。黒く表示される範囲が広くなる。

 さらに男は、おれの手首をひねり、手のひらの親指側側面「母指球(ぼしきゅう)」、小指側側面「小指球(ししきゅう)」を、ガラス面に押し付ける。その名の通り丸みを帯びる部位だから、紋を平面で映し取るには、強い力で圧迫しなければならない。わざと痛くやっているのではないはずだと、性善説に立つおれは男の職業倫理を信じた。

「こっちに移れ」

 松本に言われ、三脚に据えられたカメラの前に立つ。正面、左右バストショットの、「マグショット」と呼ばれる写真を撮影するのだ。


 新聞記者時代、自治体によっては首長や議員の選挙があると、立候補者に役所に集まってもらい、フルネームを書いた横長のプレート状厚紙を胸やや下で両手でつまんで持ってもらって紙面掲載用の顔写真を撮影した。立候補者が多いと編集段階で識別困難で、取り違え必至だからだ。

 紙面にプレートは、もちろん出ない。映り込まない位置で持ってもらう。正面だけで、横顔は撮らない。

「犯罪者みたいだな」

 立候補者が必ず言う。ジョークだ

「選挙違反で捕まったら、そのまま使わせてもらいますよ」

 おれたちも、必ず言う。ジョークではない。

 労役のため収監された刑務所で、本物のマグショットを、おれも撮られた。おれのフルネームと、称呼(しょうこ)番号と刑務所では称する四桁の数字(ナンバーリング)が記された長さ五〇センチほどの厚紙を、両手でつまんで持たされた。


 青葉署では、なにも持たされていない。デジタル化で、画像データと一緒にテキストデータを刻み込むのだろう。取り違えの心配は、ないのだろう。

 そして、マグショットを撮られたことがあるか、とは松本は、もう言わない。

「体に欠損や入れ墨は?」

 指紋、掌紋を取りマグショットを撮った男が尋ねる。

「ないよ。偏平足とか、斜視とかはあるけど」

「そんなのいらん。裸になったら見える部位で、けがやら手術やらの(あと)は?」

「ない…ああ、この縫い傷くらいかな」

 両手錠のままで左手を上げ、左まぶたを指さした。

「どうしたんだ?」

 おれの顔に、男が自分の顔が近づける。

「小学校のころ、友だちと自転車で遊んでて正面衝突して、友だちの歯が当たった。五針だか六針だか縫った」

「相手はどうなった?」

「歯がぐらぐらするとか言ってた」

 松本ももう一人の男も、失笑した。


「いち、きゅう、きゅう」

 男が口に出し言う。誰に言ったのか分からない。おれに話しかける際より大きな声だ。周囲に、おれの目には入らぬ、記録を取る担当者がいたのかもしれない。

一九九(いちきゅうきゅう)…。殺人罪(コロシ)の嫌疑も掛かってるってことか…」

 口に出してみた。松本と、もう一人の男に聴かせるためだ。

 二人とも反応がない。通じなかったか、とがっかりした。

「おまえ、詳しいな」

 ツーテンポもスリーテンポも遅れ、時間にして三秒ほど経って、松本とは別の男が感心して見せる。刑法一九九条は、人を殺した者に対する法定刑について記されている。

「こっちの整理上の番号だ。気にするな」

 機器が並ぶ一角を、松本に伴われ両手錠で離れる際、後ろから男の声が聴こえた。もちろん、気にしない。


 取調室に戻る途中、おかしな光景に出くわした。執務用デスクの一つで、室内なのに雨傘を差す私服勤務員がいる。機器の一角に向かう際には気づかなかった。

 手錠でつながれ歩を進めながら、おれは、その勤務員の手元を凝視した。スマートフォン液晶画面を、別のカメラで撮影しているように見える。雨傘は、室内天井の照明をスマートフォン画面に反射させないための工夫のようだ。

 検察庁に送る証拠物件は、加工すると公判での証拠能力が弱まる。偽造だと被告人の弁護人弁護士に突かれる。

 デジカメが今ほど普及する前、警察は、フィルムカメラでも並行して現場写真などを撮影していた。デジカメで撮った画像は加工が容易という判断でだ。鮮明に映るデジタル画像と、加工が難しく証拠能力が高いフィルム画像の両方を用意し、公判に備える検察官の駄目出しに備えた。

 スマートフォン液晶画面の表示される内容は、スクリーンショットでは証拠能力が弱いのだろう。事件関係者が所有、使用する端末に表示させた状態でそれをそのまま撮影する必要に迫られているのだろう。

「こら。まっすぐ歩け」

 松本に注意を受け、無人の取調室に戻った。


 そして、石場、田中に続き松本も、取調室から姿を消す。代わりに、初めて見る若い男が入ってきた。ズボンのポケットから二つ折り式バッジを取り出し、古賀(こが)と名乗った。バッジの上の顔写真入り証票によれば、巡査長の階級だ。

()液と口腔内の組織を採らせてもらいます。今、準備してるんで、ちょっと待っててください」

 スチールデスクを挟んで向こう側のいすに座る古賀は、まるで、唾液採取の準備を自分自身が待てないかのごとく、いすの上で体をくねらせ、「ああ」とか「もう」とか「ちょっと」とか、悶えるような声を上げる。

「どうしたのよ」

 尋ねてみた。

()けなんっすよ」

 夜勤明けという意味だ。吐き出すようなせりふだ。

 その用語の意味することをおれが理解すると分かった上で、古賀は言っている。当初の松本のようなとぼけたことは言わない。

「早朝のぼくの()り物に失敗したから、勤務が長引いてるってことだな」

「……」

「あのねえ、古賀さん」

「…はい」

「被疑者の前で、そんな疲れたような、眠そうな態度を見せちゃ駄目だよ」

「……」

「あえてそれを装っている場合を除く」

「……」


 古賀の場合は、装っているのではなく、本当に疲れていて、眠そうだ。そしてそれはきっと、朝のうちに片が付くはずだったおれに対するこの日のメニューが、予想に反し夕方までずれ込んでいるからに違いない。


(「拾の4 解体新書(ターヘル・アナトミア)」に続く)

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