拾の2 最終学歴、家族歴
労役場留置のため二〇一〇(平成二十二)年二月十五日、埼玉県の川越少年刑務所に収監される際は、所沢区検に出頭し検察事務官三人に伴われ手錠などなしでホンダ・フィットの後部座席に乗せられ連れて行かれた。到着した刑務所では大きな鉄製門扉がゆっくりと開き、そこに車ごと入っていく。車が入ると後ろで大きな音を立て扉がゆっくりを閉まり、厳かでいかめしい儀式のようだった。
それから十三年半――。
刑事訴訟法に基づく二〇二三(令和五)年八月九日の人生初めての逮捕で神奈川県警青葉署敷地内に手錠、腰縄を打たれたまま日産セレナで入ると、駐車場では、制服、私服の署員が数人、待ち構えていた。刑務所のような大きな扉はない。待ち構えていたのは、おれが暴れたりそのことで逃走を図ったりに備え動員された、手がすいている署員だろう。
「降りろ」
座席左側の巡査部長、松本に促され、松本に続いて車両を降りた。松本の右手こぶしにはおれの胴体とつながる紺色の腰縄の先が巻かれている。
そして、駐車場同様、薄暗い階段をワンフロア分、上がった。上がった先が、刑事課の執務室、いわゆる刑事部屋だった。
刑事部屋と直接つながる小部屋に連れて行かれる。そこが取調室だ。
取調室には粗末なスチールデスク二台と、それより多い脚数のパイプいすがある。デスクのうち一台は壁に向かい、もう一台は人が向かい合わせで座れるよう置かれている。
その後者のデスクの奥にあるパイプいすに座らさせ、両手錠を外された。外されたが、腰縄とパイプを手錠でつながれた。この時に、腰縄は「縄」だけでなく、ナイロン製の幅五センチほどのベルト状のものと二重で巻かれていることに気づいた。
取調室には私服勤務員おそらく刑事課員が出たり入ったりで、おれを除き最多で三人ほどが室内にいる。
スチールデスクの向こうの石場が、人定質問をする。生年月日、本籍、現住所、職業を聴かれる。
「大分県日田市丸の内町一〇の一四。日曜の日に田んぼの田。丸の内は東京、千代田区の丸の内と同じだけど、町が付く」
高校まで暮らし、実父が亡くなった二〇一四(平成二十六)年には土地、建物とも売ってしまっていた実家の在りかに置いてある本籍地を答える。
「戸籍だと、丸の内町一〇番地までになってるけど、それでいいか?」
「ああ、そうかもね。職業は、ノンフィクション作家。あくまでも自称」
後で彼らの作成した調書を視認したら、《自称 ノンフィクション作家》となっていた。この職業は、身柄を送致された先の検察庁、さらに検察の勾留請求を認めた裁判所では、それぞれ別の表記をされることになる。
そこまでで石場は取調室から姿を消した。
「森さん。最終学歴を教えてもらえますか?」
おれの横に立っていた巡査長、田中が、腕を組んだ状態で尋ねる。
「四年制大学卒」
右上方の田中の顔を見上げ、答える。
「どこですか?」
「琉球大学。沖縄のな」
「卒業後の職歴を教えてください」
会社を複数回、移籍しているので、それを順番に答える。独立してフリーランスになってからの活動歴も簡単に説明する。
「家族歴は?」
「結婚と離婚がそれぞれ一回。今は単身。前妻との間に、成人の娘が一人」
「元の奥さんと、お嬢さんの名前、年齢を教えてください」
「二人とも、名字は今、どうなってるか知らんよ。住んでるところも知らんし」
漢字も含め、二人の名を説明した。
「これだろ?」
石場に代わってスチールデスクの向こう側に座っていた松本が、A4サイズ二枚ほどの紙片を指でつまみ、ひらひら振って見せる。「これだろ?」と聴かれても、その紙がなんなのか、なにが書かれているのか、おれには分からない。
「住民基本台帳やらなんやら取り寄せてるんだ」
「分かってるのなら、いちいち聴くなや」
苦情めいたことを言ってみた。
事前に分かっていても、取り調べでは本人の口で供述させなければならない。それは当然のことで、「これだろ?」とか「住民基本台帳ならなんやら取り寄せているんだ」とか、挑発する松本の方が悪い。
「念のためやんか。念のため」
弁解めいたことを、松本は言う。
逮捕されるとは思わなかったかとか、逮捕されるのは初めてかとか、逮捕されずに刑務所に行くはずがないとか間抜けなことを言う松本に車内でいちいち反応して正論をかましていたから、それへの反撃なのだろうとその時は観察したし、それが間違いでないことは後に分かる。
「弁解録取書という書類を作成します」
松本からさらに代わってスチールデスクの向こう側に座った田中が言う。
逮捕容疑に対する簡易な供述調書で、捜査機関や司法機関、弁護士、それを取材するおれたちの間では、「弁録」と略す。容疑者の逮捕を報じるメディアが、容疑の認否について述べる内容は、この弁録の供述に基づく。
「最初に黙秘権について告知します」
言いたくないことは言わなくてよいうんぬんの内容の決まり文句が書かれているらしい紙を、田中は読み上げる。
そうか、ちっとも知らんかったわ――と冗談の一つでも吐いてやろうかと考えたが、身柄を拘束されてしまっているのだし、あえて彼らの心証を悪くする必要もあるまいと思い直し、やめておいた。
人定質問には黙秘権が適用されないと、捜査機関でも司法機関でも解釈されている。だからこそ松本は、「住民基本台帳やらなんやら」で収集した情報をひらひら振って見せられるのだ。
もし人定質問に黙秘権が適用されていれば、「これだろ?」なんて軽口をたたけない。証拠物件は慎重に扱い、示さなければ、聴取の相手、つまり被疑者が口をつぐんでしまう。
「被疑者」は法律用語で、「容疑者」はそうではない。
容疑者も元からある用語だが、法律用語でないだけに、その意味する対象は、使う者によって印象が異なった。読み手、聴き手に暴力的な印象を与えがちな呼び捨てを避けるため、元号が昭和から平成に変わるころ、報道機関が被疑者の名前に付けるようになった。
本作では、ケースに応じて両用語を使い分ける。かぎかっこ内は、発言をできる限り忠実に再現する。
容疑事実に間違いがあるか否か、田中に聴かれる。
「ぼくの罪状、もう一度、読み上げてもらえる?」
「いいですよ。『令和五年二月三日、スーパー三和奈良北店で、買い物かごを地面に払い落としたり、レジ台を蹴ったりしたことで、店内を騒乱に陥れ、営業を妨害した…』」
「ああ、そう。じゃ、述べるよ。あんた方が言っていることがなにを指しているのかは分かる。でも、そこには事実に反する内容が含まれてる。こんな感じ」
「事実認定に一部不同意ということでいいですか?」
「うん」
「どの部分が不同意ですか?」
「買い物かごを地面? 床? どっちでもいいんだけど、落下させたことはない。仮に落ちたとしても、その場面を見てない。騒乱うんぬんも、現場がその後、どうなったのか知らん。それから、あんたらに限らず、三和も顧問弁護士も同じように言ってるんだけど、レジ台っていう表現ね。あそこをレジ台っていうのは抵抗がある」
「なにかを蹴ったことは間違いありませんか?」
「うん。蹴った」
「なぜ蹴ったんですか?」
「レジ打ちの店員と口論になった末」
「なにか言われたということですか?」
「うん」
「なんて言われたんですか?」
「蹴ることはないでしょう…あれ? 違うな。それは蹴った後だな。とにかく、そういう批判めいた内容」
「そういう一連の行為が、威力業務妨害に当たるという認識はありますか?」
「ぼくはないよ。でも、あんたらがそれをそうだって認識していることは理解してる」
「一連の行為を反省していますか?」
「いいや、まったく」
「謝罪の意思はありますか?」
「あるわけないじゃん。謝罪するべきは、むしろ向こう」
「相手に頭を下げさせたいということですか?」
「顔を合わせたくないし、それは彼らも同じだろうから、文書にでもしてもらえばいいんじゃないかな」
弁録の内容を、田中はパソコンで打ち込む。その作業が一通り済んで内容を読み聴かされるとき、「文書」とおれが言ったのを、田中は「文章」と打っていると分かった。
「文章じゃなくて、文書な」
「あれ? どう違うんですか?」
「文章っていったらそれの意味する範囲が広くて、話し言葉も含むだろ。弁録みたいに、書状になったものが文書。顔を合わせたくないし向こうもそうだろうってぼくは言ってるわけだから、それは形になった書面を受け渡すことを意味するじゃん? だから、文章じゃなく文書」
納得できない、釈然としない様子で、田中は首をかしげる。被疑者であるおれの頭がおかしいのだとでも思っている表情と仕草だ。
(「拾の3 殺人罪はヌレギヌだ」に続く)




