拾の1 セレナ、プリウス、キザシ
「靴ひもを結ばせろ。左右でひもを踏んで転ぶだろ」
「おれたちが支えてるから転ばん」
神奈川県警青葉署の警部補、石場と巡査部長、松本に両脇を抱えられ、両手錠の上からサイズの合わないブラジャーのようなカバーを掛けられたおれは、サンタクロースのように押収品などを詰めたポリ袋を担ぐ巡査長、田中に付いて、通路を通りエレベーターで一階まで降りた。途中、誰にも会わなかった。
郵便局や宅配屋がよく車両を止める、エレベーターホールからは死角のスペースに、無人のミニバン、日産セレナが止まっている。田中がリモコンキーを操作したようで、セレナはハザードランプを一回点灯させ、電子音が鳴って、ドアロックの解錠される音がした。
「あんたら、早朝からずっとここで張ってたの?」
「人は入れ替わってるけどな」
三人のうちの誰かが答えた。
「交代で何時間もか。ご苦労なこった。そこの広場で年寄りが集まってやってるラジオ体操、見た?」
誰もなにも言わない。
「六時半に放送が始まるみたいなんだよね。その放送が終わって、年寄りが引き上げるのを待って、うちに踏み込もうとしたの?」
「……」
「ぼくの行動確認くらいしてるでしょ? なん時に寝たか自分じゃ覚えてないけど、寝たと思ったらすぐにあんたらの来襲した音と声が聴こえたよ」
「……」
「寝てすぐには体調的に起きられないって、分からんもんかね」
「……」
田中が運転席に乗る。左後方のスライドドアが開き、三列シートの二列目に、石場、両手錠のおれ、松本の順番で乗り込む。
「取り調べも留置も青葉署か?」
「そういうこと」
冗舌なのは松本だけだ。
セレナはすぐに発進する。サイレンは鳴らず、屋根の上で赤色灯が回っている様子もない。
「逮捕されるとは、思わなかった?」
楽しそうにおれに手錠を打った松本が、あくまでもうれしそうに、おれに尋ねる。
「この件であんたらにやられるとはな。警視庁町田署の生活安全課が三月末にうちに来てるんだよ。知ってるだろ?」
三人とも反応しない。おれは続ける。
「だから、三和でやられるなら町田署だなって。あんたらにやられるなら、URの案件だと思ってた。知ってるだろ?」
これにも誰も、反応しない。つまり、三和の件に警視庁町田署が着手した、あるいは着手しようとしたこと、そして、UR都市機構の件に、神奈川県警青葉署がすでに着手している、あるいは着手しようとしているということだ。そのことを、この三人は認知している。
「三和でやるのなら、顧問弁護士とは接触した? ムーミンみたいな、つまりカバみたいな面の。ぼくは写真でしか見たことないけどさ」
「……」
「URの件も、あんたらに調べられるの? 二日連続で地域部門の連中の手を煩わせたの、知ってるでしょ? ぼくが煩わせたんじゃなくて、どっちもUR側の虚偽通報なんだけどさ」
「……」
「あ、ぼくが本を返そうとしてた地区センターって、ここ。ここの前を通るんなら、持参させてくれもいいじゃん。あんたらに託すとも言ったじゃん」
「……」
「あんたら、青葉署のなに課?」
「刑事」
しゃべりたくてうずうずしていたかのように松本が口を開く。
「青葉署は、刑事部門は一課と二課に分かれてるんだっけ?」
全国の警察本部は、刑事部捜査一課が殺人など強行犯罪を、捜査二課が、贈収賄など知能犯罪を担当する。大規模警察本部にはさらに捜査三課があって、窃盗などを担当。小規模警察本部は、三課の管掌業務も一課が受け持つ。
かつて暴力団犯罪を担当した四課が多くの警察本部の刑事部に設置されていたが、所掌範囲の特殊性から、暴力団対策課などを経て、今では組織犯罪対策課、略して「組対」へと名称変更が進んでいる。組対の特殊性については、章を改め詳述する。
警察本部の出先である各署は、そこが小規模だと「刑事課」一本にまとめられているものが、規模が大きくなるにつれ、本部の捜査一課、三課の領域を「刑事一課」、捜査二課、組対の領域を「刑事二課」と振り分ける。さらに大規模だと、組対部門も切り離す。逆に、離島などの極小規模署では、「課」として独立せず「刑事係」のこともある。
「分かれてない」
ぶぜんとした表情と口調なのは、青葉署が小規模であることへの松本のやりきれなさを表しているのかもしれない。
「ふうん。罪名が威力業務妨害ってことは、一係か」
「強行犯係だな」
今度は、松本は強気だ。「キョーコー」の部分の語気に勢いがある。
「部外者に聴き耳を立てられないようにさ、ぼくらはあんたらと話をするとき、強行犯係やそこが所管する犯罪をイチ、知能犯係やそこが所管する犯罪をニ、盗犯係やそこが所管する犯罪をサンって表現するんだよ」
松本はおれの素性を知らないのではないか。その疑いが、確証に変わる契機になる発言を、松本は繰り出す。
「逮捕されるの、初めて?」
性風俗の店で童貞の客が嬢から尋ねられるようなことを、松本は聴いてくる。
「刑事訴訟法に基づく身柄の拘束は初めてだね。でも、刑務所に入ってたことはあるよ」
「逮捕されずに刑務所に行くはずないだろっ!」
おれの身柄を捕ってあくまでも楽しそう、うれしそうな松本は、相手を小ばかにした口調で笑う。おれが強がりで虚偽を吐いているとでも思っているような仕草と表情だ。
「あのねえ、ぼくは十年ちょっと前、バイクの酒気帯び運転で埼玉県警に赤切符を切られて、在宅のまま所沢区検察庁で略式起訴されて所沢簡易裁判所で罰金二十五万円の略式命令を受けて、払いたくないから、志願して川越少年刑務所で労役場留置されたんだよ。五十日間、刑務所で囚人として臭い飯を食って、汗水たらして軽作業に勤しんだんだよ。そういうぼくの前科前歴、知ってるだろ? 知った上で、令状請求してるはずだろ?」
「……」
「それにね、池袋でプリウスを暴走させて母親と幼い娘の二人を死なせた上級国民のじいさん。一度も逮捕されないまま、禁固刑で刑務所に入ってるじゃん」
二〇一九(平成三十一)年四月、東京・豊島区で、通商産業省(現・経済産業省)技官などを務めた当時八十七歳の男が、ペダルを踏み誤り運転していたトヨタ・プリウスを暴走させ、計十一人が死傷した事件のことだ。取り調べや公判で男側は一貫して「車に異常があった」と主張したが、東京地裁の禁固五年(求刑同七年)の実刑判決が確定し収監された。
警視庁が男を逮捕しないことに世間の批判が集まったが、年齢的に、逮捕して身柄を拘束すると健康面から取り調べが困難になると予測されること、男に逃亡、証拠隠滅の恐れがないと判断されることから、在宅のまま捜査が進められた。
セレナ二列目シートのおれの左側に座る松本は、しばらく黙り込む。
しかし、車内でおれの発言にいちいち反応するのは、決まって松本だ。
「青葉署の留置場って広いの? 庁舎を外からしか見たことないから分からんわ。あ、運転免許証の更新で、入ってったことがあるか」
「見た通りだ」
昭和末期の建築で、地上四階ほどだったはず。
「知ってると思うんだけど、ぼく、病気持ちなのよ。あんたらの奇襲で常備薬を持ち出せなかったから、その辺の配慮は頼むよ。医師に処方箋を書いてもらって、薬局で薬をもらってきて。留置場は、あんたら刑事部門の所管じゃないでしょ? 警務部門でしょ?」
「われわれではない」
昭和中期ごろまで全国の警察組織で留置場は刑事部門が所管し、警察官は留置場での勤務経験が刑事部門への登竜門ともされたが、深夜に及ぶ違法な聴取などの問題を解消するという名目で、刑事部門とは切り離された。それでも問題はなんら解消しない。
そして、たとえ常備薬を持ち出せても、留置場には入れられないはず。
ところが、おれの疾患と服薬をめぐり、青葉署はその日の夜、混乱する。後述する。
「捜査車両も、だんだんとセダンからミニバンに変わっていくね。もう国内メーカーは、ほとんどセダンを造ってないしさ。スズキのキザシも、耐用年数が過ぎるころだろ」
「キザシっ!」
左隣の松本だけでなく、運転席の田中も合唱した。右隣の石場からは声が聴こえない。
「スズキ初のあのクラスのスリーボックスセダンがちっとも売れないから、あんたらのカイシャが全国で、二束三文で買いたたいたろ。白黒パトはしょうがないとして、なんの装飾もないキザシが走ってても、擬態の捜査車両か覆面パトだって、簡単に見分けられるぞ。あんたらを識別する目印だぞ」
そんな世間話をしているうちに、ミニバン・セレナは、青葉署に到着した。庁舎裏側から、薄暗い、地下かと見まがう駐車場に入っていった。
(「拾の2 最終学歴、家族歴」に続く)




