捌の9 犬(イヌ)の本能
小雨は降り続く。
片手で支え開いていた折り畳み傘を肩と顎に挟んで持ち、おれは着ていたアウトドア用ベストのポケットから取り出した名刺ケースから、さらに名刺を一枚取り出した。
「書くスペースが狭いな。ノートのページに書いて、破って渡そうかな」
「向こうに名刺って言ってあるんで、名刺でお願いします。でも、森さんの名刺、裏は全面写真で真っ黒でしたね」
牛の巡査、石川は、おれが渡した名刺のデザインを記憶している。
「分かった」
表の活字はすべて墨だから、赤ペンを準備した。
「傘、自分が差してますよ」
「ああ、頼むわ」
開いた状態の折り畳み傘をそのまま牛の石川に手渡し、しゃがんで膝の上で、おおむねこんな内容を記した。
《貴社の調査結果を聴くまで、貴社関連事業所ならびに役員・従業員らには接触しません。2023.6.6 森史×》
「余白が狭いから、これくらいしか書けんな。読める?」
牛の石川がおれの傘と交換で受け取り、鹿の巡査長、河内と一緒に見分する。
「大丈夫でしょう」
鹿の河内の太鼓判をもらい、牛の石川はその重要書類を手に道路を駆けて渡っていった。
ところが、おれはとんでもない光景を目の当たりにした。意外ということではない。その逆で、あまりにも典型的な警察官像を露骨に見せつけられ驚いたのだ。
牛の石川は、おれの手書きメモ入り名刺を三人のうちの一人に渡し、三人がそれぞれ交代で手にして見分。うちの一人が、どこかに電話をかけだした。おれの名刺とそれに記される手書きメモの内容を誰かに伝えるためであるのは間違いない。
そして電話を終え、その男は、伊藤治社長邸宅ブロック塀を垂直の机か下敷き代わりに、なにかにペンを走らせている。
「河内さん」
「はい」
「彼、石川さんは、悪気もなく無意識にやってると思うんだけどさ」
道路反対側に向け顎をしゃくった。
「…はい」
「なんでぼくのラブレターを相手に渡して厳しく見分させた上で、相手にお返事を書かせるの?」
「…順番が逆ってことですか?」
「うん。逆とまで言わなくても、同時じゃなきゃ。寸分たりとも違わず交換は無理にしても、例えば、まず相手には見せるだけで、それに対応した物を書かせてから、仲介役の石川さんが受け取った上で、ぼくのを渡さなきゃ」
「……」
「まるで、ぼくの文書を献上してお伺いを立ててるようなもんじゃん」
「……」
「あの三人は、あんたら警察を懐柔したってほくそ笑んでるよ。石川さんが尻尾を振って懐いてきたってさ」
「……」
「あんたら階級社会の人間はね、相手の地位を見定めようとする。見定めなきゃ職務が成立しない。その対象は、組織内に限らない。組織外の人間が自分より偉いか自分の方が偉いか。複数いる場合、どっちがどの程度偉いか。それなしには仕事が進まない」
「……」
「例えば、通報した側が善で、通報された側が悪。だから、通報した側の地位が保全され、通報された側は蔑ろ。今回の場合で言えば、伊藤氏とその周辺者が善かつ上の地位、ぼくが悪かつ下の地位」
「……」
「社会的動物っていわれる犬は、相手の地位が自分より上か下かを瞬時に見分ける。相手が複数存在する場合、その複数の相手に序列を付ける。自分が序列のどこに位置するか、つまり、どいつとどいつに挟まれるかを判定する。そうしないと、社会では生きていけない。判定を誤っても、生きていけない」
「……」
「ヒトに飼われて、ヒト社会に組み込まれていても同じ。飼い主一家の序列を識別する。例えば若い夫婦と幼い複数の子がいる飼い主一家だと、複数の子の最年少者は、自分より下の地位と飼い犬は見なす。よく出来た飼い犬は、自分より下の地位の最年少者を、弟や妹のように慈しみの対象とする。出来の悪い飼い犬は、攻撃の対象とする」
「……」
「河内さん。これから、良くない例え話、あんたらにとっては耳が痛いであろう話をするよ」
「お願いします」
「警察は、隠語で『犬』って呼ばれる。『権力の犬』って言い回しも、『犬のおまわりさん』って童謡もある。警察イコール犬にはいろんな意味合いがあるんだけど、そのうちの一つは、石川さんが今、やってるようなことだよ」
「…よく言い聴かせます。厳しく指導します」
「ぼくはそういうのには興味がない。あんたらの組織内のことだから、好きなように言い聴かせ、勝手に指導すればいい。そんな宣言もなんらかの報告もいらない」
「……」
牛の石川は、スキップするような足取りで戻ってきた。
「書いてもらいましたよ」
石川から受け取った名刺には、その裏面に、おれと同じ赤インクでこう書かれている。
《会社の調査が終わるまで、森様へ/いやがらせや法的処置などは行いません/2023.6.6 遠藤邦夫》
嫌がらせをしているという自覚が、少なくともおれがそういう被害感情を抱いているという認識が、彼らにはあった。
法的措置を採ることも想定していた。措置と書くべきを《処置》と記しているのはなにか特別の意味があるのではなく、そういう方面に疎いせいだろう。
名刺の活字によれば遠藤の肩書きは電話で名乗った通りで、所属する《神奈川西支店》所在地は、管理主任、田代修や、電気工事屋を連れて来た設備課、小池洋太郎と同じ。名刺裏の社是のような《経営理念》も同じ。電話番号は田代と同じで、小池とは異なる。
「石川さんね」
「はい」
「なぜぼくの名刺を先に先方に渡すの?」
「えっ?」
「ぼくの名刺を渡して、先方がその内容をどこかに電話で伝えるのも待って、その上で相手にこの文言を書かせるの?」
「えっ?」
「ね。分かってないでしょ?」
牛の石川に向けていた顔と視線を、おれは鹿の河内に移した。
「えっ?」
おれと同じように、石川も顔と視線を河内に向ける。河内はなにも言わない。
「下僕のぼくの信書を、畏れ多くもJS日本総合住生活株式会社東京支社神奈川西支店副支店長さまに、献上差し上げなければならないと判断した根拠はなに?」
名刺の肩書きを読み上げ尋ねる。石川も河内もなにも言わない。
石川への指導なんておれは関心がないから宣言も報告もする必要がないと河内に言ったので、河内もどう反応するのが正解か分からないのだろう。
「ぼくが先に文書にしてって求めたことを相手が拒否したんで、ぼくも文書にするからって、ぼくは譲歩した。ぼくが提案したことなんだから、相手に先に書かせるか、同時に交換じゃない? ぼくが先に書いてしまった物は、せめて相手にまず見せるだけに留めるべきじゃない?」
やはり二人は、なにも言えない。
「それに石川さん、ノートに書こうかってさっきぼくが言ったら、向こうに名刺って言ってあるからってそれを拒んだね。ぼくの書いたものをしっかり献上申し上げ見分いただくのなら、ノートだっていいわけじゃん? 見分いただいた結果、駄目って言われたら、また石川さん、『駄目でした』とか言ってこれまでみたいに戻ってくればいいじゃん」
「……」
「つまり、ぼくが提案したことなのに、ぼくには選択権も相手の文書を点検する権利もない、ということね。常に決定権は向こうにあると」
「……」
「石川さん、ぼくの言ってること理解できる?」
鹿の河内は理解したのだということを言外に含んだ。
「…それも一理あるかな、と」
牛の石川は答える。
「一理あるってことは、言ってる意味は分かるってことね?」
「…分かります」
「じゃ、それでいいよ。上出来だ」
おれたち取材者の言い分を一切認めない警察組織の一員としては、上出来だ。
しかしそれは、巡査の階級でまだ組織になじんでいないことと表裏一体なのかもしれない。牛の石川は、犬に成り切れていない。
鹿の河内は、自分たちが犬の集団であることを客観視できている。正論をぶつけられた警察官の典型的な行動様式である猿のような激高を見せないのは、おれとの間に利害関係が存在しないし、今後、関係が発展する可能性にも乏しいからだ。
「自分、仕事で一般の人とこんなに長時間、いろんなことを話した経験がありません。勉強になりました」
おべんちゃらのようなことを、牛の石川は言う。
「ああ、そう。これから、似たような案件にたくさん出くわすかもね。ぼくみたいな往生際の悪い不審者はいっぱいいるだろうからさ」
いえいえ、そんなことはと牛の石川は恐縮して見せる。
「ま、縁があったら、またどっかで」
道路反対側の遠藤たちにも聴こえるよう、誰に対するでもなくあいさつして二人と別れその場を離れ、あざみ野駅に向かった。用を足すためだ。
駅前に、牛と鹿が勤務するらしい交番があって、外から見える範囲は無人だ。
日はどっぷり暮れている。駅改札内トイレで用を足し、おれは電車で帰宅した。
(玖 おれの友だち「1 人質が殺される」に続く)
※ エピソードタイトルを「犬の習性」から書き替えました。
(2025年6月28日追記)




