捌の8 尿意に負けて休戦提案
JS日本総合住生活関連従業員ら三人と直接会話させろという求めを、道路を渡って三人に伝えにいった牛の巡査、石川は、すぐに戻ってきた。
「駄目です。断られました」
鹿の巡査長、河内とは事前の打ち合わせもせず、おれに報告する。
「それだけでいいのかって石川さん、さっき言ってたじゃん」
「はあ」
「石川さんが『それだけ』って思ってるほど、この件は生ぬるい問題じゃないのよ。ほんで、直接ぼくと対面できない理由を彼らはなんて言ってるの?」
「理由は言いません。『お断りします』って」
自身が勤務する会社代表宅門前で発生しているトラブルに駆け付けながら、トラブルの相手であるおれとの接触を回避するのは、彼らの登場が、石川、河内を含む青葉署員を手足のように使い、おれを排除する目的だからだ。
その見立てで間違いないことは、石川と彼らとのやり取りをウオッチした終盤で判明する。
「じゃあ、ぼくが譲歩しよう。面談のアポイントを取ろう。きょうでなければ、いつ、どこの誰に会いにいけばいいか、聴いてきて。スケジュールは双方、つまりぼくと、彼ら三人かその勤め先関係者の間で調整する。すり合わせる」
「それだけでいいんですか?」
「いいよ」
「聴いてきます」
黒いクリップボードを小脇に抱え牛の石川は、車道を渡っていく。
道路反対側から眺めていると、短いやり取りの末、石川はこっちに戻ってきた。
「駄目でした。断られました」
「石川さん、それだけでいいのかって勇んで行って玉砕して帰還するの、これで二度目だよ」
「すんません」
「じゃあさ、文書で記してって言ってきて」
「文書? どんな内容でですか」
「団地住人であるぼくに対し、団地を経営、管理、運営する関連会社として、ならびにその従業員として、ぼくの不都合になることはしない、とかって趣旨で。それから、さっき石川さんが言ってた調査うんぬんの具体的な内容とか方法とか」
株式会社URコミュニティ従業員だという神奈川西住まいセンター、松縄の脅迫「困ることになる」「困ることになると、お困りでしょう?」も、JS日本総合住生活従業員で団地管理サービス事務所管理主任、田代修の暴力的な言動も、彼らUR都市機構側の瑕疵を主張する上で、おれにとってはかえって都合が良い。取材の格好の材料になる。
そして、おれの提示した条件を呑ませ、例えば田代の言う「正規の手続き」「接近禁止命令」をおれが恐れているのだとUR都市機構側に勘違いさせるのは、さらに好都合。
五分五分に持ち込もうとしているよう、おれは装う。実際は、UR都市機構側に勝ち目はない。おれは敗ける気が一切しない。松縄、田代、高瀬らに一〇〇パーセント非があるのは明らかだから。
「それだけでいいんですか?」
「石川さん、三度目だぞ」
「今度こそ、大丈夫です」
勇んで牛の石川は車道を渡っていった。そして、すぐに戻ってきた。
「駄目でした」
「理由は?」
「言いません」
「尋ねてないんだろ?」
「……」
「尋ねても、言わんだろうな」
「…申し訳ありません」
記録を文書で残すことを、常識的な社会人なら厭う。そのことの重みを知っている。牛の石川は、牛ゆえ知らないのだろう。
「このまま道路を挟んで、エンドウなにがしたちとぼくは、ずっとにらめっこか。いつまで続ける? これじゃあ伊藤社長も帰ってこれまい。ぼくはなん日でも待つよ。エンドウなにがし側は、交代要員を出すだろうな。伊藤社長は今夜からずっとホテル暮らしか」
「それを避けるには、森さんにここを離れていただかないと」
「じゃ、あしたの朝までここで粘って、それから神田錦町にあるっていう本社に移動するよ。あんたら三交代制の二十四時間連続勤務でしょ。それまで一緒に過ごそう」
「……」
「ということにならないように、こういうのはどうかな?」
「どういうのですか?」
牛の石川も鹿の河内も身を乗り出す。
「さっき石川さんが断られたっていう文書ね」
「はい」
「ぼくも同様の文書を出すからっていう条件で」
「同様の文書?」
「うん。今ここで、名刺の端か裏にでもすらすら一筆するよ。その『調査』結果を聴くまで、休戦するって内容で」
「それでここは引き揚げていただけるんですか?」
「そうね。向こうが書いてくる内容によっては、関連全施設、全事業所従業員を当分、触らないでおいてもいいよ」
「聴いてきます」
道路反対側に、牛の石川は突進した。
三人のうちの一人が、携帯電話を耳に当てているように見える。おれの提案をどこかのだれかに報告し指示を受けているのだろう。電話を終えた様子が見えて、牛の石川と短い会話を交わし、石川は帰還した。
「森さん、認めてもらいました。森さんがなにか書いてくれるのであれば、向こうも書くそうです」
ようやく解決に向かう。おれの尿意がだ。そろそろ決着をつけないと、トイレを我慢できなくなっている。
頻尿気味のおれも、夏場の炎天下では、正常に水分補給していてもほとんど汗として流れ出るから、十時間ほどはトイレに行かずに済む。そのつもりでこの日も出掛けたのだが、小雨に体温を奪われたせいであろう、目算より早く尿意が訪れた。
伊藤治社長邸宅で社長の帰宅を長時間待つことになるという展開の予測も十分ではなかった。
対象をウオッチしなければならない取材で中座すると。中座している間に状況が動いてもそれに対応できないし、状況が動いたことに気づかない恐れさえある。だから、その種の取材では交代要員が必須だ。
今回の伊藤治社長邸宅前のような現場では無理だが、カメラを設置し中座中の「動き」を後から確認する方法もある。では、その「後」とはいつか、という問題に直面する。
ウオッチ取材スケジュールを終えてからだと、中座の間に起こったことを認識しないまま中座後の取材を続けることになり、重大な選択ミスにつながる。本来なら起こすべきアクションを起こさずのんべんだらりとウオッチを続けることに陥るからだ。
しかし、中座から戻ってウオッチを続けながら、並行して中座中の撮影を再生して確認できるほど取材は容易ではないし、おれは優秀ではない。
張っている伊藤治社長邸宅前を、トイレのため一時的に離れることは可能だ。ところが、戻ってきて、なにか動きがなかったか、誰にも質せない。
――伊藤社長、帰宅した? どんな様子だった?――
こんな問いに、警察官である牛の石川も鹿の河内も、まともに答えることなんて期待できようはずがない。
つまり、そろそろ潮時だ。
(「捌の9 犬の本能」に続く)




