捌の5 村上春樹と太宰治
「森さん、小説家だって名乗ったんですって?」
おれの前から離れていた牛の石川が、戻ってきて、すっとんきょうな声を上げる。
「誰に?」
「伊藤さんのお宅の方に」
伊藤社長夫人から直接聴いた様子はない。青葉署経由だ。
「そんなこと名乗ってないよ」
「じゃあ、なんて名乗ったんですか?」
「市内で作家をしてるって」
「だから、小説家って名乗ったんでしょ?」
「違うよ。作家」
「どこが違うんですか?」
「……」
石川に渡したおれの横置き横書き名刺左上の肩書きは、一行目に《取材・著述》、二行目に英字で《reportage》と刷ってある。真ん中に本名フルネーム、下段センター寄せで住所、電話番号、メールアドレス。すべて墨字だ。
裏面はおれが撮影した印象的な白黒写真を全面に使い、テキスト情報は右下に寄せ英字と数字で、肩書き以外の表面と同じ内容を、それに加え、取り引き先が報酬を入金しやすいよう、メインバンクと口座番号を日本語プラス数字で、カラー印刷してある。
「あのね、ぼくは小説なんか書かないの」
本当は、別の筆名で書いている。
「小説を書かないのに小説家って名乗ったんですか?」
「名乗ってないって言ってるだろ」
「作家って、なんなんですか?」
「小説家も含めて作家。作詞家も作曲家も作家。脚本家も作家。写真家も陶芸家も画家も作家」
「森さんは、記事を書いてるってことですよね?]
「うん」
「新聞とか雑誌とかにですか?」
「書籍にもテレビでも」
「ショセキ?」
「本」
「本も書いてるってことですか?」
「うん」
「小説以外に、どんな本があるんですか?」
「きみら、ノンフィクションを読んだことないの? 警察官採用試験とか昇任試験とかを受けるのに、参考文献を読まないの? 交番勤務の心得とかの本は?」
「勉強のための教科書やら参考書やらは読みますよ」
「そういうのは、どういう人が書いてるの?」
「分かりません」
「学者とか、現役の検察官とか裁判官とか、警察官ОBとかじゃないの?」
「そうかもしれません」
「それは小説じゃないじゃん? 彼らは小説家じゃないじゃん? 石川さんは、小説のつもりで読んでるの?」
「違いますけど。ああいうのがノンフィクションですか? ああいう本を森さんは書いてるんですか?」
「きみらの教科書やら参考書やらになるような、読めば階級が上がるような作品は書かないよ」
「じゃあ、ノンフィクションって、なんですか?」
牛の石川が、牛の脳みそゆえ言っているのか、なんらかの意図をもって知らないふりをしているのか、判断に迷う。
「取材に基づき事実を書き連ねるのがノンフィクション。取材に基づこうか基づくまいが、作り話がフィクション」
「ノンフィクションに作り話はないってことですね? 森さんは、作り話は書かないってことですね?」
「実際はそんなに単純なものでもないんだけど、それでいいよ。そう理解してちょうだい」
フィクションとノンフィクションは、真逆を意味しない。言葉遊びの範疇だが、「ノンフィクションはフィクションの一部である」という捉え方もできる。
この概念は、犯罪刑事制度における似た事例で説明できる。
日本語で無罪と訳す「Not Guilty」は、有罪と訳す「Guilty」の対義語ではない。Guiltyの対義語は、「Innocense」だ。純粋無垢などと翻訳される。
刑事訴訟手続きにおいて、有罪か無罪かが判断されるのは、検察が起訴することにより、裁判所においてだ。そもそもの嫌疑がなければ、つまり、純粋無垢なら、検察は起訴せず、さかのぼって、捜査対象にさえなり得ない。冤罪である可能性はここでは考慮しないでおく。
つまり、ノット・ギルティは、ギルティに含まれるその一部。
少し異なる角度から検討しよう。
《死は生の対極としてではなく、その一部として存在している》
小説家、村上春樹(一九四九-)の書き下ろし長編『ノルウェイの森』(一九八七)で主人公によって語られる有名な一節だ。しかし、この概念は、村上以前から、宗教においても言葉遊びとしても存在した。逆に、「生は死の一部」が前提の宗教観もある。
そして、そもそもこの作品タイトル『ノルウェイの森』自体が言葉遊びだ。
英国のロックバンド「ビートルズ」の楽曲『Norwegian Wood (This Bird Has Flown)』(一九六五)の日本語タイトルは、「ノルウェーの森」。これは、本家の「Norwegian Wood」を誤訳したと、現在では一般に解釈されている。
歌詞を分析しても、ビートルズメンバー、ジョン・レノン(一九四〇-八〇)が、不倫相手の部屋にある当時英国内に大量に出回っていた安物のノルウェー産木材製家具か内装を皮肉った内容としか読み取れない。そして、邦題は言葉遊びとも思えない。村上が誤訳を皮肉ったのだとすれば合点がいく。
さらに、文学作品から例を引く。
太宰治(一九〇九-四八)の『人間失格』(一九四八)で主人公は、腐れ縁の友人、堀木と一緒にアパート屋上で焼酎を飲み、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをする。主人公が発明した遊びで、名詞にはすべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるように、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があってしかるべきだという考えから生まれた。
《たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん》
太宰は主人公に、こう語らせている。
堀木によれば、たばこは悲劇。主人公によれば、医師は薬や喜劇。そして、堀木によれば、死や牧師や和尚も喜劇。
主人公と堀木は、対義語の当てっこもする。
《黒のアント(対義語の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒》
フィクションとノンフィクションや、ギルティとノット・ギルティとイノセンスの関係と同じだ。相反関係では説明できない。
悲劇と喜劇については、英国出身の映画王、チャールズ・チャップリン(一八八九-一九七七)のものとされるこんな名言がある。
《Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.》(人生はクローズアップで〔近くから〕見れば悲劇だが、ロングショットで〔遠方から〕見れば喜劇だ)
こうした、言葉遊びでありつつ物事の芯を突いた例えを、牛の石川に申し向けても、相手が鹿の河内であっても、彼らには通じない。警察官に対する永年の取材経験から、そのことは明らかだ。おれの言っていることがその一部でも理解できたとしても、彼らの自尊心が、それを許さない。認めない。
特に、ギルティ、ノット・ギルティ、イノセンスなど、彼らが自身を専門家だと自負しそれを拠り所として世間にアピールしながらそのほとんどが著しい事実誤認である刑事関連法規で、取材者であるわれわれは無知なのだという前提を彼らは崩さない。崩せば、つまりおれらの主張に理があると認めれば警察組織がつぶされるのだという危機感を、彼らは常に抱いている。
だから、小説家ではなく作家なのだと、牛の石川にいくら説明しても無駄。例え話を挙げれば挙げるほど牛は意固地になり、お互いに神経をすり減らすだけ。
つまり、もし警察官と不毛かつ空虚な議論を繰り広げたいのであれば、学術的で文学的な言葉遊びを吹っ掛けると、いくらむいてもバナナのような中身が出てこないタマネギやラッキョウを与えられた猿のように彼らは激高するから、それはそれで、動物行動学、文化人類学、民俗学、職業倫理学の研究対象としては趣深い。
(「捌の6 一国一城の主」に続く)




