捌の4 われわれも帰れません
「あんたらちょっと、名前、教えてくれる? 胸の階級章も見せてもらえる?」
おかしな物言いに、彼らは頭がおかしいのではないかと、おれは疑った。
「河内です」
鹿の方が先に名乗った。雨がっぱの襟をめくって、胸の階級章を露出させる。
「巡査長です」
「ああ、そう。聴かなきゃ分かんなかったよ」
冗句のつもりだ。
階級章は巡査長のそれを示しているし、階級章の上の識別章も、青葉署員であるとみて矛盾がない。
「石川です。手帳も見ますか?」
「見せたきゃ見せな」
階級章も識別章も、なんら矛盾はない。
牛の石川がよけいなことを言うから鹿の河内もあおりを食い、二人そろって雨がっぱのズボンの腰のゴムを引っ張って伸ばし右手を突っ込み、ポケットからバッジを出して提示する。
デザイン変更で手帳機能を失っても「警察手帳」と称する身分証票付きバッジは落下防止のため、冬服だと上着の内側と、夏服だとズボンのベルトループとストラップでつながっている。雨がっぱのズボンのゴムを伸ばして手を突っ込み取り出すのは、間抜けな格好だ。女性制服警察官も、雨天時のバッジ掲示では同じ仕草をさせられるのだろうかと、その光景を見た記憶がないおれは彼女らへの同情の思いを寄せた。
「あざみ野駅前交番って言ったね?」
「はい」
「てことは、青葉署の地域課?」
「そうです」
会話はやはり、牛の石川がメインだ。自己紹介の際は社会的ルールにのっとり、上役の巡査長である鹿の河内に先を譲ったのだろう。鹿の河内は、訓練の意味合いもあって、後輩格の石川にしゃべらせているのであろう。
組織においてトップが表舞台に出ない事情と似ている。牛の石川が誤った発言をしたら、鹿の河内はそれをやめさせ、訂正することができる。逆に、鹿の河内が間違ったことをしていると認識しても牛の石川は、能力上も立場上も見とがめることができない。
警視庁町田署生活安全課の二人がうちを奇襲した際、はげの警部補・浅沼より、後ろに控える女性・小林の方が上役に感じられたのは、そのせいだ。
そして、報道取材において警察の所属長が、つまり署長や本部の課長以上がお出ましになったら、それはイコール警察組織にとって重大案件なのだと、それだけで類推できるし、そう判断しなければ事件記者は務まらない。
「石川さんさっき、なぜぼくが逃げなかったのかとか隠れなかったのかとか言ってたね」
「はい」
「どういう意味?」
「普通の人は、われわれの姿を見ると逃げ隠れするからです」
「それはいいからっ!」
鹿の巡査長、河内が止めた理由を、牛の巡査、石川は理解できない。ぽかんとしている。
「逃げ隠れするとあんたらは怪しがって、よけいに関心を示すんじゃないの? 悪者にとってはそのことの方が不都合で、逆効果なんじゃないの?」
あっ! というような表情を、牛の石川はようやくした。
「それにね、ぼくは仕事柄、あんたらとの付き合いが長いのよ。おそらく、石川さんが生まれる前から。免疫が付いてんのよ」
「……」
「あんたらの制服の連中に囲まれるとね、あれ? ぼくはなんで制服を着てないんだろうって、間違って普段着で登校して学ラン姿の同級生に囲まれたような違和感にさいなまれるよ。部活で一人だけユニフォームを着てないような寂しさに襲われるよ」
「……」
二人とも、なにも言えない。
牛の石川と鹿の河内は、たびたびどちらかがもう一人を残し、おれから離れる。携帯電話でどこかとやり取りしている。相手はきっと、警部の階級である青葉署の地域課長か、警部捕の交番長だろう。
石川は、戻ってきては新たな無理難題を、おれに突き付ける。
「ここが伊藤さんのお宅だって、森さん、なんで分かったんですか?」
「巡回連絡簿」
「えっ?」
通報で臨場したのではないと虚偽を吐かれたことのお返しだ。
「あんたら交番や駐在所の地域警察官が、寒さをこらえ暑さに耐え、雨の日も風の日も雪の日も雷の日も管内を回って、住民の不審を買いながら疑いの眼で見られながら集めた、地域警察官の血と汗と涙の結晶、巡回連絡簿」
「えっ? えっ?」
「それが、ぼくらのところにだらだら漏れてるの」
「えっ? えっ? えっ?」
「もういいから!」
鹿の河内がたしなめた相手は、牛の石川だけではあるまい。
からかったことを、おれは少しだけ反省した。二人に対し、特に牛の石川に比べれば聡明な鹿の河内に申し訳なく思った。だから、こう話し理解を求める。
「あんたらのカイシャでも、対象者や第三者には明かせない捜査の手法があるでしょ?」
「あります」
「ぼくらにも、取材の手法があるんだよ」
「ですよねえ」
「うん。だから、言えない。言ったとしても、それはおそらくうそ。あるいは、古すぎるとかでもはや役に立たない手法」
釈然としない表情の石川とは逆に、鹿の河内は納得してみせる。
牛の石川との丁々発止は続く。
「森さん。さっきからお願いしてることなんですけどね」
「うん」
「ここを移動してもらえませんか?」
「じゃ、はい」
リュックを手で携え一歩右に移動し、その歩道上に置く。置いて、そこで立ち止まる。
「そうじゃなくて」
「なんなのよ」
「森さんがここを離れてくれないとですねえ」
「うん」
「われわれもここを離れられないんですよ」
「じゃ、ずっと一緒にいようよ」
「近隣住民の方の眼もあるし」
「どんな?」
「なにか重大な事件かと疑われちゃうんです」
「ケーサツはいったい、なにやってるんだ! って緊急性のないクレームが一一〇番で県警本部の通信指令に行っちゃうね」
「そうなんです。だから、ここを離れましょ」
「駄目だな。伊藤氏を待たなきゃならないから」
「森さんがここにいる限り伊藤さんは帰宅できないって、会社は言ってるんでしょ?」
JS日本総合住生活ナカムラの言い分も、それをおれが聴いていることも、青葉署には伝わっている。
「じゃ、場所を変えようか」
「そうしましょ」
「あんたらの交番に行こう。近くなんだろ?」
「いや、それは…」
「それじゃ、青葉署に行こう。スクーターの後部座席はきついから、四輪呼んで。迎えに来させて」
「それもちょっと…」
刑事訴訟法(二〇三条一項)では容疑者の身柄を拘束、つまり逮捕したら、四十八時間以内に検察庁に送致するか、それができなければ釈放しなければならない。身柄拘束は、最初は任意捜査であったのだと警察側が主張しても、警察施設に入る、あるいは警察車両に乗り込む時点でスタートしたと、容疑者保護の観点からは解釈される傾向にある。当然そう解釈されるべきと、おれも賛同する。
違法捜査だと公判で問題を追及されぬよう警察は、逮捕令状の請求と執行を極力遅らせ証拠を固めるのみならず、逮捕に至る可能性がある場合、警察施設への出頭も極力遅らせるという作用が働く。
だから、一般人にも常人逮捕(私人逮捕)が認められる現行犯逮捕は、捜査機関にとってありがた迷惑、控えめに言って痛しかゆしだ。十分な証拠が固まっていない段階なのに、四十八時間のストップウォッチの針が回り始めてしまう。
牛の石川や鹿の河内、青葉署は、そのような原則の一環を遵守しているのだろうと、その時のおれは、捜査機関と対峙するそれまでのいつものように受け止めていた。
ところが、青葉署内では、おれの扱いをめぐって石川、河内の所属する地域課だけでなく、署トップのリーダーシップで刑事部門を巻き込み慎重かつ激しい議論が交わされていたと、後に知らされる。
別の章で詳述する。
(「捌の5 村上春樹と太宰治」に続く)




