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捌の3 なぜ逃げない? なぜ隠れない?

「今、ご主人の会社のナカムラさんと電話がつながってるんですよ。ちょっと代わっていただけますか?」

 JS日本総合住生活、伊藤治社長邸宅から出てきた、社長の女房らしい壮年の女性に申し向けた。

「ナカムラさん? わたしは存じません」

「総務部門の偉い人だって。とにかく代わってちょうだい」

 玄関から完全に体を出し、女性はおれに近づいてきた。片手に財布のようなものを携えている。おれから携帯電話「赤色一号機」を受け取った。

家内(かない)でございます」

 電話の相手に女性は、そう名乗った。

 おれの旧式の二つ折り型「赤色一号機」は、通話中の録音が、最長二分しかできない。録音ボタンは、押さなかった。

 しかし、社長夫人もナカムラも、録音されているという前提で通話するはず。おかしな話は、しないはず。

 夫人は、積極的にはしゃべらない。「はい。はい」と、相手の助言(アドバイス)を聴いているようだ。おれが自分の名刺を差し出すと、話に夢中の夫人は無意識にであろう、片手で受け取る。

「終わりました。お願いします」

 そう言って渡された「赤色一号機」を、おれは受け取った。夫人はすぐに、玄関から家に引っ込んでいった。電話は切れていない。

「こういう状況なんですよ、ナカムラさん。警察が到着するのを待ってます」

〈とにかく、そこをすぐに離れてください〉

「じゃあ、伊藤社長に早く帰宅するように伝えて」

〈弊社代表が森さんと会うことはできません。神奈川西支店に対応するよう命じました。今回の件については会社としても調査します〉

「そう。それじゃ、伊藤社長の帰宅か、警察の臨場か、神奈川西支店からの連絡か、おたくらの調査結果を待つわ」

 電話を切っておれは、伊藤治社長邸宅前の幅八メートルほどの車道を荷物ごと横断し、渡った先の歩道に拠点を移した。社長夫人への圧迫を少しでも低減しようと努めた。

 しかし、社長自身への、つまりJS日本総合住生活に対する手綱は緩めない。リュックを歩道隅に置き、その横に立って、道路反対側の社長邸宅をウオッチする。帽子はかぶったまま。サングラスは外して、テンプルの蝶番(ちょうつがい)でシャツの襟に掛けている。


 ぱらぱら小雨が降ってきた。伊藤社長邸宅に変化はない。正面から見える窓はすべて、カーテンが閉まっているようだ。警察は来ない。JS日本総合住生活神奈川西支店からの電話もない。おれは、JS日本総合住生活本社に三度目の電話をし、ナカムラを呼びだした。

 警察は来ないし神奈川西支店からの連絡もないと訴えた。ナカムラは、すぐにそこを離れろと繰り返す。雨足は強まる。

 五〇メートルほど離れた信号機のある交差点を、白い雨がっぱ姿の男二人組の乗る一二五ccクラスの白いスクーター二台がゆっくりとしたスピードで順番に通過するのが見えた。

「あ、お巡り、やっと来たわ――」

 電話の相手のナカムラに告げた。

 雨がっぱで制服は隠れているが、遠方のため正確には読み取れないもののスクーターの後部トランクに黒く太い記される《PОLICE》の文字や、白いヘルメットの形状から、交番勤務の地域課員のようだ。

 しかし、スクーター二台の二人とも、交差点を通過してそのまま姿が見えなくなった。

「――行っちゃった。違ったみたい」

 すぐにそこを離れろと壊れたジュークボックスのようにナカムラは繰り返し、社長帰宅か警察臨場か神奈川西支店からの連絡を待つ、あるいはそちらに向かうとおれも同じように応じ、三度目の電話を終えた。


 しばらく経って、男性制服警察官二人の乗った白いスクーターが、伊藤社長邸宅と隣家の間辺りの前道路に止まった。先ほど交差点を通過した二人組かどうか、分からない。白い上下の雨がっぱを着ている。

「こんにちわぁ」

 先頭の大柄な警察官が先にまたがっていたスクーターを降り、後部トランクを開けクリップボードのような物を取り出し、それを手に、やはり先に道路を横断してくる。おれは首を縦に振ってあいさつに応じた。

「遅いな。ずっと待ってたんだぞ」

 皮肉を込めて言ってみた。後続の小柄な警察官も、道路を渡ってくる。

「はぁ? 待ってた? われわれをですぁ? なんでですかぁ?」

 (ウシ)のような大柄警察官が、とぼけているのか、本当に分からないのか、判別が付かない。鹿(シカ)のような小柄な警察官は、なにも言わない。

 二人とも雨がっぱ姿だから、制服の胸の階級章は隠れていて見えない。

「ここでなにをしてるんですかぁ?」

 牛の警察官が言う。

「人を待ってるんだよ」

 おれは答える。

「あざみ野駅前交番の者なんですが、なにか身分を証明する物をお持ちですか? 見せていただけますか?」

 いつものように運転免許証と名刺を取り出し、名刺は返さなくていいからと言って、牛の警察官に手渡した。牛は二枚を鹿に見せる。鹿はなにも言わない。

「ここで待ち合わせをしてるんですか?」

 やはり牛だ。

「いいや。一方的に待ってる」

「相手の方は、森さんがここで待ってるって知ってるんですか?」

「本人にどう伝わってるか分からんが、本人の周辺には伝えた」

「知り合いの方ですか?」

「会ったことはないと思う。おれは相手の名前と肩書きと、写真で顔を知ってる程度」

「相手の方は森さんのことを知ってますか?」

「知ってるか知らないか、知っているとしてどの程度か、分からん」

「必ず相手の方は現れるんですか?」

「仕事が終われば、帰ってくるんじゃないかな。早退してでも帰って来てほしいんだけど。あのね、本来は待つ予定はなかったのよ。あんたらが来るっていうから、実際は、あんたらを待ってたのよ。相手を待つのは、優先順位で言うと二番目」

「われわれを待ってたってことですか?」

「うん」

 牛と鹿は、無言で視線を合わせる。

「待ってる相手は、なんていう方ですか?」

「ぼくからは言わんよ。あんたらが名前を出したら、そうか違うか答えられないかで応じる」

「帰ってくるって、その方はこの近くにお住まいなんですか?」

「うん」

「どのお宅ですか?」

「ここから見える範囲の建物のどれか」

「そりゃそうでしょうけど」

 牛が言うと、鹿は笑った。鹿の表情らしい表情を初めて見た。

「あんたら、おれの面会相手の家人からの通報で来たんじゃないの?」

「違いますよう」

 牛が大げさに(かぶり)を振る。芝居じみている。

「あのですねえ、ここから移動していただけませんか?」

 JS日本総合住生活ナカムラと同じようなことを、牛は言う。

「なんで?」

「通行の邪魔になるし」

「公道だよ」

「雨も降ってきたし」

「リュックの中に、折り畳み傘がある。それ、差そうかな」


 意を決した表情で牛が、傍らの鹿に、眼で同意を求める。鹿はうなずく。

「実はですねえ、われわれ、伊藤さんのお宅からの通報で来たんです」

 もったいぶった、勝ち誇ったような口調と表情と仕草だ。

「芝居が上手だな。ちっとも想像できなかったよ」

 おれのその猿芝居を、逆に牛と鹿がどう受け止めたか分からない。

「森さん、われわれがさっき、あそこを通過するのを見てますよね?」

 信号機のある交差点を、牛が指さす。

「あんたらかどうか視認できんかったけど、雨がっぱのお巡りさん二人がスクーターで交差点を渡るのは見たよ」

「なぜその時に逃げなかったんですか?」

「逃げる?」

「なぜ隠れなかったんですか?」

「隠れる?」

「われわれを見て、なぜ姿を消そうとしなかったんですか?」


(「捌の4 われわれも帰れません」に続く)

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