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漆の6 あなたとは話したくない

「なんでわたしが謝罪しなきゃならないんですかっ!」

 事務所の外から、管理主任らしい初老の男の怒号が聴こえる。

「われわれは引き揚げるから、相手に対してなにか言いたいことがあったら、われわれの前で言って」

 そう促されて、おれと制服警察官は、事務所の外に出た。別の制服警察官に伴われる管理主任らしい男は、ふて腐れている。こっちに視線を向けない。

「肩書きと名前を言え」

 男に申し向けた。男は視線をあさっての方に向けたままだ。

「このおっさんの人定、取ってるよね?」

 傍らの制服警察官に尋ねた。

「取ってるよ」

「じゃ、後であんたらに聴くわ」

「タシロさん!」

 制服警察官の一人が、強い口調で男を諭す。

「あなた自身で名乗ったらどうですかっ!」

 当たり前のことだ。姓で呼び掛けたのは、警察官によるおれへのサービスだろう。

 タシロと呼ばれた男はそれでも、右斜め上と、左斜め上を交互に視線を向けるだけ。まるで、機嫌を損ねた猿回しの猿だ。

「あなたには、教えたくない」

 右斜め上を見上げたまま、タシロは言う。

「あなた? ぼくのこと? さっきみたいに『おまえ』って言いなよ、タシロ。『口の利き方に気を付けろ』って類のありがたいアドバイスも、もっとくれよ、じじい。ほんでタシロ、ぼくはいつ『おしまい』になるんだ? もう終わったのか? 終わったことに、ぼくが自分で気づいていないだけなのか?」

「タシロさん! このままじゃ、われわれは引き揚げられない」

「そうだぞ、タシロ。じじい」

「わたし、あなたとは話したくない」

 猿回しの猿でじじいのタシロは、自身の思い描いた結果にならなかった腹いせであろう、おれと警察官に対し不満をぶちまけるように、醜態を見せつける。

 これがこの男の真の姿なのだろう。この男の限界なのだろう。

「しゃべんなきゃしゃべんないでいいよ。虚偽告訴等(きょぎこくそ)罪で告訴する。刑法一七二条だったかな。被告訴人欄は、職業不詳、氏名不詳。それでいいね? お巡りさん、タシロ」

 猿回しの猿のタシロは、猿回しの猿のままだ。

「タシロさん!!」

 タシロの虚偽告訴、つまりうその通報だと、控えめに言って一一〇番するほどのことではなかったと、警察官四人ともが確信している。それでもタシロは、猿回しの猿だ。

「あんたらで告訴状、受理できる? 受け取ってもらえるなら、パソコンでも手書きででも、待ってもらってる間に、そうだなあ、五分か十分でさくさくっと仕上げるよ」

「いや、今は受け取れない。署に行ってもらわないと」

「ああ、そう。じゃ、これから準備して、青葉署に行くわ。もう、ここ離れていいかな?」

「タシロさんっ!」

 おれが告訴状を提出すると面倒ごとになると、警察官四人は分かっている。そして、おれの名刺を確認し、おれと少なからず会話を交わした四人は、おれの告訴状提出うんぬんが空虚な脅しではないとも悟っている。

 面倒ごとを避けるため、彼らはおれの告訴状提出を阻止しなければならない。

「わたしだって、あんたの肩書きも名前も知らない」

 猿回しの猿が、猿回しの猿のままで三度目のヒト語を吐いた。

「やっぱこのじじい、認知症だな。知恵遅れだな。ここの二号棟の、まさにこの棟だよ。八階の八〇五号室に住んでる(もん)だって、あんた、知ってるだろ?」

「森さん。さっき預かった名刺の情報を、タシロさんに伝えていい?」


 職務質問などを受けた際、素性を隠さなけばならない特段の事情がある場合を除き、スムーズに解放されるよう運転免許証などと併せて、名刺を差し出すようにしている。たいがいの警察官は記録を取った後、名刺も免許証などと一緒に返そうとするが、おれは受け取らない。

 ――名刺はあなたに上げるから、不要だったらそちらで処分して――

 そう申し向けると、たいがいの警察官は名刺を収める。

 今回は強引な身体捜検でパスポートとマイナンバーカードを床に放ったから、それと一緒に名刺を切ることができなかった。聴取の途中で、四人のうちの一人に一枚だけ渡した。

 運転免許証入り財布は、依然として見つからない。


「いいよ。ああ、むしろ、もう一枚上げるから、そのうちの一枚をこのおっさんに渡してやんなよ」

 おれの提案に警察官四人とタシロがなんらかかの反応をするのを待たず、ポケットの名刺入れから一枚取り出し、四人のうちの一人に渡そうとした。相手は受け取らない。

「タシロさんに直接、渡して」

 常識的な言い草だ。

 警察官を経由させると、押収品や任意提出品を利害が対立する事件の相手方に提供したとか利益供与だとかで、問題になる可能性がある。そんな無茶を言いだす(やから)が世間にはごろごろいる。そのことをこの四人は、知っている。

「おまえも名刺、出せや! タシロ」

 猿回しの猿は猿回しの猿のままなにも言わず猿の足取りで事務所に入っていった。猿のまま出てくると、四人のうちの一人にカード状の物を手渡そうとするが、警察官は受け取らない。

「森さんに直接渡して」

 ビジネスマナーを無視し、おれは自分の名刺を、片手でタシロに渡した。タシロはさらに激しくビジネスマナーを無視し、あさっての方を向いたまま、おれと同じように片手で名刺を差し出した。


(「漆の7 接近禁止命令を出してもらう」に続く)

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