表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/235

漆の1 これでおまえはおしまいだ

 扉を蹴破る勢いの、紺色半袖ポロシャツを着たその小柄な初老の男は、管理主任(かんりしゅにん)という肩書きだろうと察しがついた。なぜなら、十二年前、初対面のおれに「こいつ?」とボールペンの頭を向けた管理主任・渋谷と、あまりに似通った物言いだから。そして、小柄な初老の男が「おまえ」とする二人称も、女性職員でなく、おれを指している。

「これはこれは、管理主任さま。ブレーカー問題を後から始末つけてもらうから、まず、『住まいセンター』の松永なにがしが言ってる、ぼくが『困ること』について教えてくれや。ぼくがどんな困った目に遭わせられるのか、言えや」

「なんだ、その口の利き方は!」

 男はカウンタ―ににじり寄ってくる。カウンター上には、新型コロナウイスル感染症防御名目であろう、透明のアクリル板が立っている。

 アクリル板越しに男は、おれをにらみつける。闘争心むき出しだ。おれに先に手を出させようと画策しているのが、ありありと分かる。

「あれ? お上品な管理主任さまがおしゃる『おまえ』って、誰のこと? あんたの部下のこの脳みそが足りない二人のこと?」

「部下じゃない」

「うん。つまり、あんたがおっしゃる『おまえ』は、あんたの部下のことじゃなく、ぼくのことだな」

「そうだよ。おまえだ、おまえ。おまえ、口の利き方に気を付けろよ」

 この二人が自分の部下ではないと言いたいのだと、あとで分かった。

「はあい、気を付けまあす。それで管理主任さま。松永なにがしの発言の真意を教えて」

「『困ること』なんて、言ってない」

「ぼく、通話を録音してるんだよねえ」

「…『住まいセンター』のことなんか知らない」

「あらら? 『言ってない』って断言したじゃん」

「『住まいセンター』は関係ない」

「あんたが雇われてる会社の関連事業所じゃないの?」

「じぇいえすっ! じぇいえすっ!」

 紺色半袖ポロシャツの胸の部分を自分でつまんで、男は唇を尖らせる。胸には緑色で《JS》と刺繍のような文字がある。それがなければ、男がなにを言っているのか理解できなかった。

「うん。管理主任さまにお給料をお支払いになられてるそのJS(ジェイエス)は、URの関連会社じゃないの?」

「まったく違う」

「ああ、そう。じゃ、URから仕事を請けてる、取り引き相手の事業所じゃないの?」

「違う」

「まったく違うのに、『住まいセンター』の松永なにがしの発言はなかったって、なぜ判断できるの?」

「言ってないからだ」

「じゃ、松永発言問題についてはあとで聴く。ぼくら住人から見て、管理主任さま、あんたの雇用主であるそのJSも、あんた個人も、UR側だと認識するって理屈は分かる?」

「なにを言ってるのか、まったく分からん」

「例えばぼくがNHK(エヌエイチケー)やフジテレビの番組製作のために外部と取材なんかの折衝をするに当たって、相手はぼくをNHKやフジテレビジョンのスタッフだと認識する。局員と誤認してなくても、ぼくを局の窓口に設定する。手軽にアクセスできる窓口がほかに存在しないから」

 おれの素性をこの男が把握しているか否か、把握しているとしてそれがどの程度か、探る意味もあった。

「はっ! おまえがNHKえ? フジテレビい? 取材い?」

 男は失笑した。まったく把握していないようだ。報道機関に、放送局に対し、根拠のおそらく希薄な、勘違いもきっと含めた、畏敬の念を抱いているようだ。そして、その敵意むき出しの言動から判断して、危険分子だとか強制退去候補だとか、おれに関する外形的な引き継ぎを受けているのだろう。

「じゃあ、別の例を挙げましょう。自動車(クルマ)のメーカーとディーラーで行きます」

「ケーサツを呼ぶぞ」

「面白いな」

 自動車のメーカーとディーラーの例えは、この男にも理解できるようだ。反論できない。失笑もしない。

「本当に呼ぶぞ」

「呼べよ」

「よおし。見てろ」

 男はどこからか出してきたスマートフォンを、カウンター上に乱暴に置いた。カウンターとスマートフォンの双方が、お互いに打ち付けられ悲鳴を上げる。

「見てるぞ。管理主任さまも、ぼくをご覧になって。ほらほら、管理主任さまのJSの大切な備品を、お蹴り差し上げてるざあますわよ」

 カウンター外側つまりおれ側の、おれのすぐ横にあった丸いすの脚を、自分の右足の内側で軽く蹴った。丸いすはギイと音を立て、傾いてすぐに立ち直った。

「いち、いち、ぜろ、と。これでおまえ(オマエ)は、おしまい(オシマイ)だな」

 警察沙汰にしてもらった方が、おれにとっては好都合。彼らは著しく不都合に陥ると、この男は理解できない。脅しかなにかのつもりのようだ。

 この脅しで、これまでに住人を黙らせたことがあるのだろう。液晶画面上の数字を大げさに押して見せる。唇の端を下品に上げ、男はうれしそうだ。楽しそうだ。

「おしまい? まだ始まったばかりだ。これからさらに、新しい幕が()くぞ」

 あんたら三人とも、そこを動くなよと言い聴かせ、いや、一方的に言い、おれは事務所を出た。エレベーターで八階の自室に戻った。警察が出動すれば、身柄を()られるかもしれない、つまり、任意だとしても署に連行されるかもしれない。サンダル履きだし手持ちはノートとペンだけだから、靴に履き替え、一そろいの仕事道具を備え出直す。いつも担いでいるリュックの底には、下着など最低限の着替え一回分も収めてある。


 ところが、運転免許証やクレジットカードを入れてある財布が、部屋のどこにもない。

 あれ? なんで焦ってるんだ?

 自問したが、答えも財布も見つからない。リュックの中にあるだろうと思い、リュックを右肩だけで担ぎ、ブーツに右、左の順番で足を突っ込みそれぞれのひもを結び、玄関常備のニコンの一眼レフもリュックと同じ右肩にストラップで掛け、一階に戻った。

 三人ともそこを動くなという言いつけを、高瀬とは別の女性職員は守っていたが、男と高瀬の姿は見えない。

「警察呼んだ? あのおっさんはどうした?」

 おびえているのか、管理主任らしき男からなにか指示されているのか、残った女性はまったく口を開かない。

 カウンターとは別の、それより低いテーブルに、おれはリュックとカメラを置いた。リュックから財布を探そうとした。しかし、見つからない。

 リュックの中身を点検している間に、男は例の扉から事務所に入ってきた。蹴破るような勢いはない。高瀬を伴ってもいない。おれはカメラを手にし、事務所全体が映り込むよう最ワイドの画角にレンズの焦点距離を合わせ、数枚シャッターを切った。昼間だから室内でも高速でスムーズにシャッターが降りる。男女二人もフレームに収まっている。

「こらっ! なにしてるんだ!」

「見て分からんか? 写真を撮ってるんだよ」

 両腕で万歳のポーズを取り、高い位置から、ファインダーを視認しないまま連写した。室内写真は、天井の面を犠牲にする分だけこの画角(アングル)の方が広く映る。

「警察を呼んだからな。一一〇(ひゃくとう)番したからな」

「まあ、怖い。逃げようかしら。隠れようかしら。高飛びしなくっちゃ。ちょっと忘れ物があるから、部屋に戻る。そこから動くな。このリュックにもカメラにも触るな」

 そう言って、財布を探しに、八階に上がった。

 しかし、財布は見つからない。夏場の外出で日常的に羽織っている、その日も着ていたアウトドア用ベストのたくさんあるすべてのポケットを改めてまさぐった。財布とは別の革の名刺入れ、メモ帳、スケジュール管理用の手帳は間違いなく入っている。財布だけが手に触れない。

 やはりリュックの中か――。

 なんど往復したか分からないエレベーターに乗って一階に降りると、エレベーターホールから、スマートフォンらしき物を片手で耳に当て建物の外を歩いているあの男の姿が隣りの一号棟と間に見えた。男は、おれを視認していないようだ。

 管理サービス事務所には、高瀬と、もう一人の女がいた。

「お巡り、来た?」

 尋ねたが、二人とも反応しない。

 そして、テーブル上のリュックの全ファスナーを開け底まで探索したが、それでも財布は見つからない。

 もう一度だけ――。

 そう決心して、部屋に戻った。財布が見つからないまま連行されてもいいように、デスクの引き出しから非常用の紙幣数枚を取り出しズボンのポケットに突っ込み、普段は持ち歩かない有効期限内のパスポートとマイナンバーカードをつかんで、一階に降りていった。

 制服警官が、管理サービス事務所に到着していた。


(「漆の2 錠を掛けたか外したか」に続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ