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陸の7 指を突き出す間抜けな女

 中学生時代の自身をモデルにしたお笑い芸人による模倣作の方が一般にはなじみが深い、小説家・松井計(まついけい)(一九五八―)の自叙伝『ホームレス作家』(二〇〇一)で、《私》こと松井は、住み処としていた東京・多摩ニュータウンの団地の家賃を滞納し、UR都市機構の前身である都市基盤整備公団から家族ともども強制的に退去させられる。


 二〇〇四年にUR都市機構として再編された現在も松井がホームレスに転落したころと変わらず、三カ月分の家賃を滞納した時点から、強制退去に向けた手続きが着々と進められる。全国の地方裁判所では、UR都市機構を原告とした住人に対する建物明け渡しの民事訴訟が、日常的に係争されている。

 横浜地裁での口頭弁論を、傍聴したことがある。被告席は無人。家賃を払えない住人あるいは元住人は、代理人弁護士を雇うだけの金銭的余裕もないのだろう。欠席裁判で判事は、未納分と利息を支払うよう、原告の訴えを一〇〇パーセント認める判決文を読み上げた。

 退去処分は、システマティックだ。「来月、必ず払いますから」が通用しない。「そこをなんとか」も通用しない。全国七十万戸を擁する「世界最大の大家」だから、民間の、つまり在野の賃貸物件のようにイメージダウンを気にする必要がない。


 半面、入居もシステマティックだ。

 国策としてスタートした歴史からUR都市機構の団地は、縁のない人からは、県営、市営など自治体による公営住宅と混同されがち。公営住宅は貧困層保護の観点から、入居には収入の上限などが設定される。収入ごとに段階的な賃料が組まれ、実質的に家賃補助される場合もある。この面だけ見ればUR都市機構の団地は逆で、一定以上の収入か貯蓄残高の証明が必要。

 そして、入居を拒まれるのは公には、暴力団組織に関与していることなどのみ。

 だから、在野の賃貸物件で行われるブラックボックスの「審査」が、UR都市機構の団地では、ほぼフリーパス。

 つまり、在野の賃貸物件では審査を通過できない、例えば正業に就いていないとか、高齢だとかの「住宅難民」を、それだけの理由では排除しない。おれのように収入が不安定な自営業者でも入居できる。

 こうした事情から、築年数が古いなどで家賃の安い物件には、おれのような、UR都市機構から見れば不埒(ふらち)な入居者が紛れ込むことになる。


 UR都市機構にとっておれが不埒な最大の要因は、知る人ぞ知る特別募集名目で開放する事故物件に潜入し、あろうことか応募方法や入居契約内容を含めその一部始終を体験記として上梓(じょうし)した事実にほかならない。入居直後の管理主任、渋谷もそのことを知っていて、攻撃してきた。

 おれの住む団地の管理サービス事務所職員が無能なのは、UR都市機構関連事業所全体の問題、貧困層が多い団地というエリアの問題、そして、おれの場合、第三に、UR都市機構に敵対する表現者(クリエーター)という始末に負えない事情がある。

 事故物件体験記のことが団地管理サービス事務所の代々の職員に、どう引き継がれているか、おれには分からない。ただ、きっとほかにも多数いるであろう「問題住人」のうちの一人、しかもおれの場合、問題の程度が著しく凶悪というフラッグを立て後任者に引き継いでいるようだ。


 誕生日の翌日の月曜、ブレーカー問題を解決させるためバスで帰宅したおれは、前日、管理サービス事務所の郵便受けに投げ込んだ文書を、パソコンのファイルから呼び出した。自分で書いた文書を改めて読んで、やはりそうかと膝を打った。

《昨年十一月、アンペア数を変更するため東京電力がブレーカーをいじっているので、そのことと関係があるのかもしれません》

 しっかり記しているではないか。

 ファイルの文書を紙に刷り出し、サンダル履きで、おれの住む二号棟一階の団地管理サービス事務所に向かった。《高瀬》の名札を付けた三十歳くらいの女性職員は、制服であろう薄水色のシャツ姿で、そこにいた。


「この文書で、ぼくがブレーカーを確認していないと判断した理由を教えて」

 名乗ることもせず、本題から入った。同じ文書はその日の朝、見ているはずだから、見た上で電話をかけてきているはずだから、おれがその主だと分かるはずだ。

「ブレーカーを上げてみましたか?」

 見当はずれなことを、高瀬はまだ言っている。

「まず、ぼくの質問に答えて。この文書で、ぼくがブレーカーを確認していないと判断した理由を教えて」

「ブレーカーは落ちてませんでしたか?」

「ぼくの質問にまず答えて」

「玄関の上の黒いレバーです」

「ぼくの質問に答えて」

「部屋ごとに何本もあるかもしれません」

「質問に答えて」

「一番右に、大元(おおもと)のレバーがあるはずです」

「まず、質問に答えて」

「それを、こんなふうにパチン、パチンって押し上げてください」

 高瀬は左手の人差し指と中指をおれに向かって突き出し、それを右手でつまんで、押し上げる動作をして見せる。

「あんたのその左手の指は、どこから生えてるんだ?」

「はぁ?」

「配電盤じゃないのか?」

「いや、ハイデンバンじゃなくて、ブレーカーです」

「ブレーカーは、配電盤から伸びてるんだよ。この文書に、《配電盤三系統のうち、エアコン用系統が断線しているようです》って、書いてあるだろ」

「だから、ハイデンバンじゃなくて、ブレーカーなんです。ダンセンじゃなくて、ブレーカーなんです」

「ブレーカーは何度も上げ下げしたって、この文書から読み取れんか?」

「上げたらエアコンは付くでしょう?」

「《エアコン用コンセントに電気が届きません。エアコンのプラグを一般用コンセントに差し込むと、エアコンそのものは稼働します》って書いてあるだろ?」

「そんなことはどうだっていいんです。ブレーカーです。ブレーカー」

「あんた、ちょっとおれの部屋に見に来いや」

「行きません」

「なぜ?」

「行く必要がありません」

「なぜ必要がない?」

「森さんの方が背が高いじゃないですか。腕を伸ばして、ブレーカーを上げればいい話じゃないですか」

 入居時から備品として設置されていたU字型ドアガードが音を立て破損した時、高瀬の何代か前の同じデスクの女性職員が、自身で取り付けた装置は自身で修理なり交換なりしろと言っていたのを思い出した。

「高瀬さん」

「はい」

「文書の二の《キッチン流し台上蛍光灯のスイッチひも》はどうなった?」

「修理を依頼しました」

「どこに?」

「URの『神奈川西住まいセンター』です」

 根本のパーツ部分からちぎれ落下したひもの現物を同封していたから、「根本のパーツ部分からちぎれ落下」したことが高瀬にも伝わったようだ。

「分かった。配電盤ごと取り外して持ってくる。大掛かりだから時間がかかるかもしれん。きょう中に来なかったら、ぼくは感電して死んだと思え」


(「陸の8 就職するまで知らなかった」に続く)

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