壱の1 筋もコスパも悪いミッション
NHKラジオ体操の放送は、聴こえなかった。
だから、連続して鳴る玄関チャイムと、玄関扉を激しくたたく音、「森さあん」と繰り返す複数の男の怒声、携帯電話のうなる振動が、どの順番で始まったのか分からない。気がついたらそれらがすべて同時に耳に入ってきた。
寝床の横で充電用ケーブルとつながる携帯電話を手に取った。午前六時四十二分の現在時刻が液晶画面で確認できる。《070》から始まる未知の番号からと、おれが自分でインデックス機能に番号登録した《青葉警察署》の文字がほぼ交互に、一分も間を置かず表示される。
青葉警察署とは、おれの住み処を管轄する神奈川県警青葉署のことだ。署庁舎から架電しているのではなく、玄関の外にいるらしい複数の人間のうちのだれかの携帯端末の発信者通知番号が、署の代表番号である《045-972-0110》と表示されるよう細工しているのであろう。
無視を決め込むことにした。
おれの部屋の玄関扉外側には、《チャイムに反応がない場合、ドアを強くノックしてください。緊急・重要案件は、携帯電話にお願します》に続いて、《090》から始まる、メインで使う携帯端末の番号を記したカードを、防水のためラミネートフィルムで覆い、パンチ穴をあけひもを通し、ドアノブにくくり付けている。
しかし、早朝の来訪者集団が、そのカードの表記に従ったのだとは思えない。カードがなくても扉を強くたたいたであろうし、番号周知の携帯電話を鳴らしたはずだ。なぜなら、おれの姓を大声で唱えろとは、カードには書いていないからだ。
加齢とともに頻尿気味に陥っているのだが、この時のおれは、尿意が気にならなかった。なん時に床に就いたか覚えていない。おそらく、就寝からそう時は経っていない。暑い夏場だから、身体の水分の多くが汗で流れ出たせいもあろう。
チャイムとノックと怒号と受電は、七時ごろを境に、同時に止んだ。おれは、再びまどろみに身をゆだねた。
尿意で目が覚めたのは、午前十時を回ってからだ。
寝転がったまま、携帯端末を手にして見た。六時台に連続したのと同じ二種類の番号で、九時台にも複数回、受電している。振動には気づかなかった。扉をたたかれたり姓を連呼されたりしたとしても、聴こえていない。
起き上がり膝で立ち、玄関とは反対側にあるベランダ側の窓の外を、カーテン越しに見た。
五〇メートルほど先に、同じ団地の隣の棟がある。こちらから見えるのは向こうの玄関側で、外通路が見渡せる。おれの住む棟と同じ十一解建てのその棟に、不審者の影はない。平日の昼前だから、堅気の勤め人は、主戦場に出掛けている。夏休みど真ん中だが、古い団地のせいであろう、子どもの姿はめったに見ない。
カーテン越しに外の様子をうかがう「不審者」を目視で警戒する追っ手は、いなさそうだ。排泄欲に駆られ、おれは立ち上がりトイレに向かった。
その途中に、玄関スペースがある。スチール製の扉内側には、捨てても捨ててもたまる、建物一階の集合ポストに勝手にポスティングしていく怪しげな水道工事屋の、名刺サイズのマグネット式ステッカーを二十枚ほど貼ってある。水道の水が出なくなったり止まらなくなったり、水洗トイレが詰まったりしたら、修理名目で法外な料金を請求するのだというもっぱらの評判のその手の業者を、知恵のない消費者を装い呼んで、悪辣ぶりを取材してやろうと目論んでいるのだが、そんなチャンスは、思うようには訪れない。
尿意よりもおれの関心は、玄関の土間に強く吸い寄せられた。扉に貼ってあったマグネット式ステッカーのうち数枚が、落下している。そんなことは、それまで一度もなかった。怒声を発していた男どもが、いかに強く扉を外からたたいたかの証左だ。
片足を土間の自分の履き物の上に下ろし体重のバランスを取りながらマグネット式ステッカーを拾い上げ、再びスチール扉に貼り戻した。魚眼レンズのように広範囲がゆがんで見えるガラス玉の入ったのぞき穴に眼を近づけた。外通路全体が見渡せる。こちらにも、人影はない。
トイレで立ったまま用を済ませながら、外通路に面するすりガラスがはめ込まれた小窓の隙間をのぞいた。やはり人の気配はうかがえない。
1Kの間取りの寝室兼仕事部屋に戻り、再び床に就いた。エアコンの稼働音が、静かに聴こえる。
正午を過ぎてから、完全に覚醒し起床した。
隣の棟と玄関の外を確認する。怪しい者はだれもいない。しかし、敵はあきらめないだろう。あきらめるはずがない。早朝からあれほどの大騒ぎだったのだ。
新聞記者上がり(崩れ)のノンフィクション作家という職業柄もあり、たびたび捜査機関と戦闘を展開しているおれにとって、県警青葉署員らしい男らに寝込みを襲われる事態は、予期しないでもない。十年以上にわたってそこで暮らす団地を管理する、都市再生機構(旧・日本住宅公団。通称・UR都市機構)やその関連会社との間でトラブルに見舞われ、それがまったく解決していない。二カ月前には二日連続で相手方から通報され、いずれも青葉署から制服警官が出動、臨場している。
その件で間違いなかろう。
そして、早朝に大勢で暴力的な言動を示したということは、「捕り物」だ。裁判所が発行した逮捕令状は準備済みに違いない。任意でおれを署まで連行。聴取の結果によっては、署内の取調室で令状を執行する。つまり、刑事訴訟法に基づき令状に従い通常逮捕する。任意の連行に応じなければ、うちの玄関先で令状執行という脅しのストーリーも、きっちり備えていることだろう。
かつては、新聞の朝刊に「前打ち」の記事が載ると、それを捜査対象者が読む前、つまり読んで逃走や証拠隠滅、自殺する恐れを排除する目的で、早朝の捕り物がメジャーだった。テレビの朝のニュース対策も同様だ。
しかし、世の中の趨勢と同様、おれは新聞を購読していないし、テレビも見ない。そんなことは、彼ら警察官ならおれへの行動確認できちんと調べ上げているはずだ。ましてや、UR都市機構とのトラブルを警察がいくらこねくり回しても、新聞沙汰に発展させられるほどの高度な事件性はない。おれは著名人でも、大物でもない。おれとUR都市機構とのトラブルは彼らにとって筋の悪い、コスト・パフォーマンスの低い任務なのだ。
だからこそ、尋常ではない早朝の大騒ぎは、彼らの「本気」度を表す。任意同行に応じても拒否しても、その日には帰してもらえまい。
横浜市立図書館から借りている数冊の本を、どこかに連れて行かれる前に返さなければならないと、おれは考えた。そうしなければ、いつ返せるか分からない。返却が遅れると図書館からの信用を失い、今後の借り出しに支障が生じる。
借りる本はインターネット経由で予約でき、受け取りも返却も、うちから徒歩圏内にある、市の公民館のような出先機関「地区センター」で可能だ。その時に借りていた数冊も、いずれも同センターで受け取っている。
おれは熱い湯のシャワーを浴び、借りている本数冊を愛用のリュックに詰め、Tシャツとハーフパンツに、裸足で鼻緒の付いたゴム製ビーチサンダルをつっかけ、地区センターに向け出発した。
(「壱の2 そっちの件とは想定外」に続く)