参の3 はげに免じて容赦する
警視庁の代表番号に架電したことのメリットは、あった。〈町田署の「生活安全当直」に転送〉すると、電話に出た担当者は言った。町田署への直接の電話では、分からなかった。
土曜、日曜、祝日や、平日でも夜間の警察は交代勤務の部署を除き当直体制だと、すでに書いた。小規模署では、各課のメンバーが寄り合いで一つの当直班を構成する。その場合、警部クラスのいずれかの課の課長が、当直責任者(地方によっては「当直長」と呼称)を務める。
署の規模が大きいとか都市部に立地するとか管轄エリアが広いとかの要素により、例えば夜間の担当事件発生が多い刑事一課は班を別で組むなどの変則的な編成も見られる。寄せ集めの当直班では対応困難な事案が頻発するからだ。
署長が中小規模署のそれである警視の階級より一つ上の警視正で、署員五百五十人を数える町田署は、生活安全課も、当直班が独立している。全課でそれぞれ当直班を構成しているのかもしれない。
オカザキと名乗る男声が、転送された電話に出た。生活安全課員だという。
〈根拠法令? いろいろあるよ。例えば、警察官職務執行法とか〉
「警察官職務執行法の第なん条?」
第二条で、職務質問について触れられている。職務質問が強制力を伴わず任意である根拠は、この条文だ。
〈第五条とかだね〉
同条文は、《警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、また、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、または財産に重大な損害を受けるおそれがあって、急を要する場合においては、その行為を制止することができる》と規定する。オカザキは、浅沼の狙いを知っている。
「警告やら制止やらの根拠を聴いてるんじゃないのよ。ぼくのどの行為が、どういう法令に抵触するのか。浅沼さんが『次は逮捕だ』って言うのは、どういう犯罪に該当するのか、罪名はなんなのかを知りたいのよ」
〈森さんねえ〉
「はい」
〈あなた、とても危険な場所に立ってるんだよ〉
「どういう意味?」
〈綱渡りだよ。どっちに堕ちるか分からない〉
「ああ、そういうことか。ぼくはね、ここなん十年も、ずっとそんな状態なの。常にあなた方に狙われてるの。そうだって知った上で言ってるよね?」
〈さあ、どうでしょう〉
「知らないで言ってんの? ぼくの人定、把握してるでしょ。把握しないで脅しを掛けてんの? 脅しが成立すると思ってんの? だとしたら、ぼくに関する調べが足りないねえ」
〈強がりかな?〉
「そう捉えるんだとしたら、やっぱ、調べが足りてない。ぼくのことを分かってない。あの二人は当直勤務員なんだって? もうそちらに戻った?」
〈知らないよ〉
戻っていても、戻ったとは言わないだろう。
「明日の朝の交代時刻には戻るだろ? そのころ、そっちに行くわ」
〈外回りが長引くかもしれないから、いつ引き上げてくるか分からんよ〉
それもそうだと思い、オカザキとの折衝は終えた。
個人的に付き合いがある警視庁内部の者のうちの一人と、久しぶりに連絡を取ってみた。町田署にも、他署の生活安全部門にも精通しているはずだ。
〈おれ、あいつキライなんだよ!〉
そいつは第一声で、唾棄するようにそう言った。
「なんで? はげてるから?」
〈はげてるから同情して、七掛けで批判してるんだぞ。髪があったら、三割増しで攻撃するところだ〉
「階級はなんだ?」
〈警部補だな。この春の人事異動で、地域課から移ってる〉
「地域課? どこの署の?」
〈同じ町田署内でスライドだ。交番勤務員だった〉
「もともと専務は生活安全か?」
〈うん〉
「なるほど。任警部補で、地域課に出されてたってことか」
ある程度の経験を重ね階級を上げた警察官には、刑事、警備(ほぼ公安)、生活安全、交通といった、彼らの耕す「畑」である部門ごとの本籍地のようなものがあり、その本籍地を「専務」、そこを本籍地とする警察官を「専務員」と呼ぶ。本人の希望と適性に応じて、専務ごとの教育を受ける。浅沼の本籍地つまり専務は生活安全で、浅沼は生活安全の専務員だ。
その専務を中心にキャリアアップしていくが、よその釜の飯を食うために、専務外の部署も経験させられる。ただ、専務性つまり専門性の高い部署に行っても役に立たないばかりか行った先にとっても本人にとっても危険で、また、例えば刑事と公安の間では情報漏洩を防ぐ観点から人事交流が困難という事情もあり、専務性の低い部門で「修行」させられるのが実態だ。
階級の昇任がそのタイミングで、警部補としての最初の「任警部補」、警部としての最初の「任警部」は、専務外で務めさせられることが多い。警部補は一線署の係長職、警部は課長職だから、いきおい地域部門など、小さな所帯の係や課を任される。そこでの指導能力を試されることになる。
彼ら専務員を受け入れ練習台扱いされる「専務性の低い部門」は、若手の草刈り場としても機能する。例えば、刑事部門から投入された係長、課長が、見込みのある若い地域課員を、自分の専務に引き抜く。「希望を出せ。警察学校の捜査専科研修に派遣させてやる。次の人事異動で登用する」などと声を掛ける。だから若手も、志望先の専務員が上司に就くことを歓迎する。
半面、専務性の低い部門だけで警察官人生を終える者も少なくない。交番・駐在所一筋といった輩は、たいがいそれに該当する。専務から出されてそのまま専務に戻れない連中ももちろんいる。警察社会以外の官民事業所で、似たような人事施策や異動にまつわる悲喜こもごもが展開されるのとまったく同じ。
警部補の階級に上がり係長職の練習生として町田署地域課に出た浅沼は、晴れて同じ署の生活安全課に専務員として帰還したということだ。
〈だろうな〉
「小林の方は?」
〈女だってんだろ? そいつは知らん〉
「浅沼と違って、嫌いじゃないってことか」
〈いや、本当に知らんのよ。巡査部長以下だろうし、よくある姓だしな〉
「ああ、それ。階級の件、気になってた。浅沼より、小林の方が偉そうだったぞ。指導的立場っていうか。しかし、警部がお出ましになることはないわな」
〈うん。警部補が二人がかりで当たるような案件でもなかろ〉
「浅沼は、地域課から係長職として専務の生活安全課に戻ったばかりで、張り切り過ぎた。のぼせ上った。だけど、生活安全の専務性は、地域課での修行中にさび付いてた。髪の毛と同じで、脳みそも失ってしまった。もともとなかったかもしれん。部下の小林にいさめられなきゃならないほどのボケぶりだった」
〈そんなとこだな〉
浅沼やオカザキの言う「警告」が、例えば逮捕令状の請求といった、強制捜査が視野に入るなど現実味を帯びそうな様子がうかがえたら教えてくれと依頼した。当てにするなよという条件付きで、そいつは応じてくれた。
警視庁町田署生活安全課の二人組が来訪した二日後、団地一階集合ポストに、こんなおかしなはがきが配達されているのに気づいた。
《郵便物等配達証明書》
《受取人の氏名/弁護士 藤間 崇史》
《上記の郵便物等は、5年3月31日に配達しましたので、これを証明します》
《日本郵便株式会社》
なんのことやら分からない。
土曜、日曜も受け付けている日本郵便サービス相談センターのフリーダイヤル0120-23-28-86をプッシュした。はがきに記される問い合わせ番号を、出てきた女声オペレーターの求めに応じ伝えた。
〈書留が相手方に届いたというお知らせです〉
「相手ってどこのだれ?」
〈芝郵便局管内ですね。相手は、受取人欄にありませんか?〉
ある。《弁護士 藤間 崇史》と活字で打たれている。
「その書留を、誰が出したの?」
〈その証明書、はがきですね、それを受け取った方です。はがきの名宛人です〉
「ぼくになってるんだけど。だから、ぼくが受け取ったんだけど」
ここまで言って、あっ! と気づいた。
〈受取人の氏名欄の方に、書留を出してらっしゃいませんか?〉
「出してないけど、分かった。すべて分かったぞ」
そう言って、電話を切った。
二日前、内容証明郵便を持ってきた配達人に、差出人は誰かと尋ねたら、日本郵便だと言っていた。弁護士からのはずなのに、封書に記される差出人は、弁護士ではなかった。
おれは、日本郵便が差出人だという二日前に受け取った書留を引っ張りだした。弁護士・藤間崇史は、重大かつ間抜けなミスを犯している。
(肆 法律事務所やっつけ仕事「1 受け取ったのは謄本だった」に続く)