弐拾参の6 エリート県庁職員の名刺
〈やらせろっ! おれにやらせてくれ。悪いようにはせんから〉
昭和の時代の「悪い男」が狙った女性に関係を迫るような言い方を、旧知の弁護士はしてきた。
神奈川県警青葉署に威力業務妨害の容疑で逮捕され横浜区検察庁に略式起訴されたものの、横浜簡易裁判所による略式命令の罰金二十万円を拒否し横浜地方裁判所での公判に持ち込む算段をする中で、介入したことが疑わしいおれの従弟は、熊本県警公安・外事専務員の現職警部だと分かったと、一通りそいつに説明した時のことだ。
「おまえ、功名心だろ?」
〈そうだ。だから、森ちゃんには一銭も払わせん。書面に貼る印紙代も全額、おれが出す〉
「おれの罰金命令は、覆るまい?」
〈その部分は期待するな。だけど、森ちゃんが心配してる別件での起訴は、もうない。おれが食い止める〉
「おまえじゃなきゃ食い止められんのか?」
〈やり方次第だ〉
「やり方?」
〈外事だろ? 公安だろ? 介入してきたっていうイトコは〉
「うん」
〈警視庁公安部が、長期勾留してた冤罪被疑者を病死させたって事件、知ってるか? 外事事案だ〉
「知らん」
生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可を得ずに輸出したとして、警視庁公安部外事一課が立件した「大川原化工機事件」のことだ。同社の本社は横浜市内にある。
関連報道を、おれはウオッチできていなかった。
〈初公判直前に東京地検が起訴を取り下げた。保釈が認められんまま長期勾留されて生き残った社長ら二人と、死んだ相談役の遺族が、国家賠償請求訴訟を起こしてる。これは、勝てる。警視庁公安部が敗ける。前代未聞だ。全国の公安は、外事は今、弱ってるんだよ。たたき時だ。たたくなら今だ。絶好の機会だ。おれじゃなくっても、たいがいの弁護士は同意見だろうな〉
「なにを主張する?」
〈森ちゃんの国選弁護人との接見交通権の侵害やらなんやら。それによる捜査、司法判断への森ちゃんにとっての悪影響とか、もろもろ。公判でぶちまける。民事でやってもいい。口頭弁論でぶちまける〉
「ぶちまけることが目的か?」
〈記録に残させて、それで警察を、検察を弱体化させる。うまくいけば未来永劫、判例として残る。結果的に、やつらは森ちゃん絡みで今、俎上に載ってる事件に手を出せなくなる。着手をためらう。それに森ちゃん、森ちゃんの商売にも使える。好きに書け。好きに報じろ〉
「うちの親戚連中の異常さを、おまえ知らんだろ。知らんから言えるんだ」
〈息子が警察官なんて異常の極みだ。それも公安専務員なんて、親子そろってきちがいだ。徹底的につぶそうぜ。親族がそうなっても、森ちゃんは構わんのだろ?〉
「構わん。むしろ、そうなってほしい。何十年もそれを祈り続けてる。星に願をかけてる」
叔母、中村由紀子と、彼女が創設し君臨し勢力拡大し続ける中村帝国の恐ろしさは、それに接した者にしか理解できない。
熊本大在学中に知り合ったという中村由紀子の亡夫、孝は熊本県庁職員で、公務員至上主義である母方親族のお眼鏡にかなう。
娘が生まれた直後のことだ。おれは、新聞記者として、北海道で勤務していた。仕事を終え帰宅し、女房から妙な話を聴かされた。
おれの親族を名乗る二人組の男が、沖縄の女房の実家を訪れたというのだ。女房も自身の母親からの伝聞で、実家でなにが起こったのか、うまく説明できない。
おれはその何年も前から何年も後まで、親族の誰とも顔を合わせていないことは、すでに述べた通り。
女房との結婚式は、女房の親族と、おれたち夫婦の友だちだけを読んで、沖縄で挙げた。
ーー二人だけの結婚式でもいいよーー
独身時代の女房は言っていた。
かえってその方がよかった。新郎の親族が一人も出席しない式と披露宴で結局、女房の親族にはみじめな思いをさせてしまった。
ーー親父だけ呼ぶってのはどうかな?ーー
ーーそんなこと、できるわけないじゃない!ーー
おれの提案を、結婚前の女房は拒んだ。女房の方がおれよりずっと常識人だった。
だから、おれたちの婚姻のことも女房の懐妊、娘の誕生のことも、おれの仕事のことも、親族の誰にも話していない。なにかの都合で例えば身元保証人が必要な場合は、結婚前も含め、女房の実父、おれにとっての岳父を頼っていた。
二人組の男のうちの一人は、熊本県参事の名刺を切ったという。女帝に頭が上がらない、県庁エリート職員、中村孝だ。
女房の母親は、二人を部屋に上げ茶を出し、おれたちの結婚式の様子が映っているビデオを見せたという。
ーーどういうつもりなのかーー
おれは何年かぶりに、大分の生家に電話をかけた。老いた実父が出た。なんにも知らないと、父は言う。
ーー代わるか?ーー
傍にいた女房に尋ねた。意を決したように、彼女は大きくうなずいた。
ーーはい。はい。いいえ、そんなことはーー
そんな言葉しか、受話器を握る女房は発しない。一度お会いしたいけどそんなわけにはいかないから残念だ、申し訳ないというようなことを、実父は女房に話したそうだ。
実父から聴き出した、熊本の中村家の番号に電話をした。女帝、由紀子が出た。北海道と熊本の距離がもう少し近ければ、凶器持参で怒鳴り込んでいたところだ。
ーーなんのことを言っているのか、まったく分からんーー
とぼけて見せる。しかし、それと矛盾したことも言う。
ーー子どもん名前、知ってるんだよ。○○ちゃんやろ?――
脅しだ。娘を人質に取ったつもりだ。
ーーどうやって沖縄の住所を調べた? なにをしに行った?ーー
ーー調べていない。行っていないーー
辻褄の合わないことを言う。当時四十代半ばのはずの女帝は、認知症に罹る年齢でもない。
ーー名刺があるんだよ。熊本県道路維持課参事の。叔父さんだろーー
ーーそんなものは、偽物たい。△△さん(女房の旧姓)の奥さんの実家は、印刷屋じゃろう。そこで刷ったつたいーー
なんて恐ろしい女なのだろう!
女房の母方祖父は確かに、印刷業を営んでいたと聴いている。しかし、おれが女房と知り合った時にはすでに廃業していた。
女帝、中村由紀子は、自身にかしずかないおれに業を煮やし、おれを飛ばして女房の実家を配下に置こうと画策しているのだ。
おれの戸籍を手繰れば、女房の実家を、両親を、そして、祖父母を探り当てること、その旧い職業を調べ上げることなど、女帝、中村由紀子や県庁エリート職員の夫にとってはたやすい。
ーーなんで印刷屋が、叔父さんの職業を、肩書きを知ってるっていうんだ?ーー
ーースパイ映画が好きなんだろう。△△さんのご主人は、××たいねーー
今度は、女房の実父の職業名を出してきた。だから、女房の実父や親族はスパイ映画が好きなんだろうと。
自らがスパイごっこ好きな中村由紀子は、そういう口八丁手八丁で、帝国を築き上げてきたのだ。自慢の長男を、スパイ組織に、スパイ育成機関に入職させることによって、帝国の発展を補完させてきたのだ。
ごめんなさいと、女房が泣いた。寝ている乳飲み子を、抱き上げ泣いた。
(「弐拾参の7 本部長らに抗議の文書」に続く)




