参の1 阡と萬
仮眠を取っていた。玄関チャイムの音で起こされた。部屋の明かりは点いたままだ。
腕の時計を見た。午後八時を指している。
「ああ。ちょっと待てや」
警視庁町田署員を名乗る乱暴な物言いに、インターホンで乱暴に応じた。
玄関扉を解錠し、ノブを回して開ける。外には、男一人と、その斜め後ろに女が一人。
「なに?」
「森さんだな」
「うん」
「生活安全課のアサヌマだ」
男が言って、ズボンのポケットからバッジを取り出し、片手で開いてすぐに閉じた。
アサヌマと名乗るその男は、黒いブルゾンを羽織っている。バッジを収納するズボンはベージュ色。一目見て忘れられない特徴は、頭髪が皆無なこと。つるつるだ。
「ちょっと待て。よく見せろ。階級の部分が見えんかった」
私服警察官からバッジを提示されたら、フルネームとともに階級を瞬時に読み取らなければならない。制服勤務員は胸に階級章が付いているから、バッジを提示させても、胸の階級章と矛盾がないかどうかと個人名程度しか、得られる情報はない。
「見せる必要はない」
おそらく初対面だ。アサヌマはおれの面を割っていない。
「生活安全課のコバヤシです」
後ろに控えていた女も、アサヌマと同じようにバッジを取り出し、開いてすぐに閉じた。コバヤシは上下ともブルー系の身なり。緑色のバッグを片方の肩から斜め掛けしている。
「漢字は?」
「カンジ?」
「名前の漢字。どんな字?」
「答える必要はない」
「浅い深いの『浅』に、サンズイの『沼』でいいの?」
「……」
「コバヤシさんは? 小さいに森林の林でいいの?」
「そうです」
小林は答えるのに、浅沼は答えない。
「おれたちがなぜここに来たか、分かるな?」
高圧的に、浅沼が言う。顔を合わせる前から高圧的だった。
「分かんねえよ」
「心当たり、あるだろうがっ!」
「心当たりがありすぎて多すぎて、どの案件のことなのか見当が付かねえんだよ。こういうの、あんたらがよくやる、あんたらの大好きな自慰行為だぞ。もったいぶるな」
自慰行為の部分は、小林に視線を向けて言った。
犯罪捜査に当たる警察官は、聴取対象者に対し、冒頭から自白を迫る。余罪を多く抱える容疑者は、あの件がばれたのか、この件で踏み込まれたのかと、疑心暗鬼になりすべてを吐き出す。
すべてを吐き出させるのが捜査員の狙いだが、彼らは、そのすべてを立件するつもりなど、さらさらない。損得勘定を優先し、ほぼ着手しない。「いつでも立件できるんだぞ」という心理的な圧迫の材料に使う。「見逃してやったんだ」と恩を売る。
ごくまれに、捜査員の想定していなかった重大かつコストパフォーマンスの良好な案件を対象が自白することがあり、一挙両得というか、棚からぼたもちというか、切り株で待っていたら獲物が勝手に飛び込んでくるような事態も起こる。
「いずれ分かると思いますのでお話しします。三和のことです」
浅沼の肩越しに、小林が口を開いた。自慰行為の例えが功を奏したのかもしれない。
センズリの俗称のそれを、女性の場合は、マンズリと称する。関東エリアなどにおける女性器の俗称と、それと重なる、男の「千」より十進数で一桁多い「万」の字を当てた。射精により性的な満足を得られる男と違い、女の性欲にはゴールがなく延々と続くという奥深い意味合いもある。
「最初から言えや。お互い時間と精神をすり減らすだけだろ。株式会社三和と、スーパー三和のことだな。心当たり、あるよ。ちょっと先にトイレ行くから、続きはその後にしてくれ」
かつて鎖式が一般的だった、扉と枠をつなぎ一定角度しか開かないようにする防犯用金具のU字型ドアガードの扉側パーツを、おれは片足を土間の自分の履き物に載せ、手を伸ばし開いた。扉が完全に閉まらないよう、枠との間に噛ますためだ。来訪者がある時には、必ずこのドアガードを噛ます。密室を作出しない。事前に来訪が分かっている場合には、噛ませ数センチ扉を開けた状態で待つ。
特に来訪者が女性の場合には、気を使う。気を使っている、つまり、密室を作出しないというアピールでもある。
町田署生活安全課員を名乗る二人に対しては、逃亡も立てこもりもしないという意思表示の意味合いもあった。
ところが間抜けな浅沼は、扉と枠の間に、自らの片足を突っ込んだ。低速かつ弱い力で閉じようとする扉は、浅沼の黒い革靴で止まった。
「なにやってんのよ。扉が閉まって自動的に施錠される仕組みだとも思ったの?」
失笑し、おれはトイレに向かった。
用を足し玄関に戻り、二人に言った。
「上がる?」
「ここでいい」
浅沼が答える。浅沼は勝手に扉の内側まで入り込んでいる。
「丸いす、あるよ。持ってこようか?」
「いらん」
やはり浅沼だ。
「で、なんなの?」
「町田市内の小山社長宅に行ったな?」
「うん」
「もう行くな」
「なんで?」
「社長が迷惑してる」
「あんたらには関係ないじゃん」
「関係ある」
「どんな?」
「社長は困ってる」
「だから、あんたらには関係ないじゃん」
「ある」
「どんな関係が?」
「小山社長が、『来るな』と言ってる」
「ぼくは言われてないよ」
「おれたちが言われてる。あんたを来させないようにって」
「直接言ってこいって、社長に言っといて」
「なにを~~っ」
「なんだよ」
「三和関連のほかの場所にも行ったんですか?」
浅沼の暴言を制するように、斜め後ろの小林が再び口を挟んだ。扉が閉まらぬよう肩で支えている。
「そこにある店舗には、しょっちゅう行ってるよ」
顎をしゃくっておれは答えた。
「そこの店舗以外には?」
「どうだろうねえ」
「行ってるんですね。どこに行ったんですか? いつ行ったんですか?」
「自分から率先しては言わないよ。町田市内の小山真社長宅とか、あんたらが個別に挙げてくれれば、行ったか行ってないか、答えられないかで応じる」
「なにをしに行くんですか? 行ったんですか?」
「それが商売だからねえ」
「森さんのご商売ということですか?」
「うん」
「ジャーナリストのつもりかっ!」
浅沼が口を挟んだのは、彼らの作戦ではあるまい。聴取対象者であるおれの口がせっかく滑らかになったのにと、小林は臍を噛んだはずだ。
「そうだねえ。ジャーナリストのつもりなんだよ。ごっこ遊びなんだよ」
「あしたも行くおつもりですか?」
小林の言葉は丁寧だ。
「あした?」
その日は三月の最終日かつ金曜だ。
「行くと社長に言ったそうですね?」
「土曜に? 行くつもりはなかったけど、待っててもらってるんなら、行こうかな」
「行かないでいただきたい」
謙譲語も機能している。
「だって、待っててくれてるんでしょ? 招待していただけるんでしょ? 反故にしちゃっちゃ申し訳ない」
小山真社長は、あるいは株式会社三和は、「あしたも来ると言っている」と町田署に泣きついたのに違いない。土曜、日曜の警察は「当直体制」で、交代勤務の部署以外、体制が薄くなる。顧問弁護士からの内容証明郵便をおれが受け取ったのを確認してから、手足のように自由に使える町田署員を差し向けたのだと、その時のおれは思った。
「行くな。手を引け。これは警告だ」
扉の内側の土間に立つ浅沼は、ブルゾンのそでをまくり上げ、両腕を組んでいる。金属製バンドの腕時計の黒い文字盤に《SEIKО》のブランド名が浮かぶ。秒針は一秒ごとには時を刻まない。スイープ式と呼ばれる滑らかな駆動だ。動力に電気を使わぬ、機械式時計であることを示す。広告にメジャーリーガー大谷翔平(一九九四-)を起用した高級モデルかもしれない。
図体がでかい浅沼は、低めの上がりかまちのおれと、視線はほぼ同じ高さ。玄関が狭いから、小林は、扉の枠の外側のままだ。
「警告? それに従わなければ?」
「逮捕だ」
「フダは?」
「フダ?」
「だから、容疑は? つまり、罪名は?」
「そっ、そんなこと自分で考えろ」
「あれ? だって、逮捕するんだろ。その予定があるんだろ? なんの容疑で令状請求すんのよ?」
「令状なんかいらん」
「にゃはははははは」
おれを笑わせるジョークのつもりでは、浅沼はなかったはずだ。
(「参の2 おんぼろカメラでジャーナリスト気取り」に続く)