弐の9 なにもしゃべるなと弁護士が
株式会社三和店舗運営部・矢島宛ての書簡が、神奈川県相模原市の指定の事業所に送達された、すなわち民法(九七条など)でいうところの矢島の支配圏内に到達したと考えられる日から二十一日目の午前、矢島発書簡がここでしか対応しないと言う、最初に架電して本社総務部にかけ直すよう誘導された問い合わせ窓口と同じフリーダイヤル《0120-375-230》をプッシュした。
「店舗運営部の矢島さん宛てに送付した二通の書簡の件は、その後、どうなっていますか?」
そう尋ねた。
〈担当部署におつなぎします〉
相手の女声は言う。最初の時のように、かけ直しは求めない。
転送され出てきたのは、カツミと名乗る女声だ。
〈その件は、こちらから改めてお手紙でお答えします〉
「書面は送達されてるってことですね」
〈受け取っていると聴いております〉
「内容はお読みになりましたか?」
〈わたしは確認しておりません〉
「送達時点から十四日以内の期日を指定していることは?」
〈存じません〉
「十四日以内に回答できない場合、同じく十四日以内にその旨を知らせるよう求めていることは?」
〈存じません〉
「矢島さんは?」
〈本日は店舗を回っておりまして、戻りの時刻は分かりません。戻るかどうかも分かりません〉
「連絡は付きますか?」
〈付くかどうか分かりません〉
「矢島さんのそちらの会社での肩書きは?」
〈…お答えできません〉
「分かった。小山真社長に直接聴く。社長が捕まらなかったら、小山一族の役員のいずれかに聴く」
〈そのようなことは…〉
「きょう中に連絡をください。きょう中に対応できない場合も、その旨の連絡をきょう中にください」
そう言って、電話を切った。
その日の午後遅い時刻になって、カツミから電話があった。
〈顧問弁護士が対応します〉
「いつ?」
〈顧問弁護士が対応します〉
「どんな方法で?」
〈顧問弁護士が対応します〉
「どこの法律事務所?」
〈顧問弁護士が対応します〉
それしか言うなと、矢島か、顧問弁護士から言われているのだ。
「町田市森野二丁目十二番でいい?」
〈…顧問弁護士が対応します〉
「早く帰ってくるように、社長に言っといて」
〈…わたくしからは言えません…〉
「カツミさん。あなたが直接、社長に言えなくても、社長に伝わるルートは存在するでしょ?」
〈……〉
「会社って、そういう組織でしょ?」
〈……〉
「あなたの会社は、そうはなっていないの?」
〈……〉
「そのルートを使って、社長に伝えて。『早く帰ってくるように』」
〈…もう、わたしからはなにもお答えできることはありません〉
「そうでしょうね。それでいいよ。だから、直接じゃなくても、誰かを挟んでも、間になん人を介在させても中継させてもいいから、社長に伝えて。『お宅で待ってるから、早く帰ってくるように』」
〈……〉
「じゃ、カツミさん。確かに言ったよ」
〈……〉
「これから出発するから、もたもたしてると、ぼくが先に社長邸に到着しちゃうよ」
〈……〉
「それよりも、カツミさんの伝言の方が、先に社長の耳に入った方がいいんじゃないの?」
〈……〉
受電した「赤色一号機」を切って、おれは熱いシャワーを浴び、防寒のための身支度をして、一そろいの仕事道具を詰めたリュックを背負い、自宅を出た。
日没が迫っている。
インターネットの地図サイトによると、JR横浜線と小田急小田原線が乗り入れる「町田駅」から北にやや奥まった町田市役所すぐ近くの小山真邸は、おれの団地から五キロ弱地点に建つ。電車を使っても一駅しか離れておらず、小山邸もうちも駅から遠いことを考慮すれば公共交通機関の恩恵はあまり受けない。だから、全行程を歩くことにした。
急いで行っても、カツミに託した伝言が遅滞なく到達しているかどうか不明なまま、社長の帰宅を待つだけになるかもしれないという理由もある。
道中、スーパー三和の未知の店舗二軒の前を通過した。「sanwa」のロゴが誇らしげだ。そして、間抜けだ。これほど多くの店舗がこの辺りに乱立しているとは、それまで気づかなかった。
法人登記簿に掲載されている、同族とみられる役員、小山克已、小山壮之の居宅に寄り道した。すでに辺りは暗く、小山克己邸は確認できない。小山壮之邸とされる番地には集合住宅が建っており、入居者の名前は分からない。
寄り道するに当たり、都内でも有数の大規模という警視庁町田署庁舎を遠方から視認した。
町田市役所には、仕事で行ったことがある。市役所に面する「駅前通り」から一本入った筋の小山真邸を、初めて目にした。不動産登記簿でも確認できる通り、築年数は浅い。二階建ての、ちょっとした豪邸だ。敷地内に、赤い国産小型車が止まっている。建物内の明かりは見えない。
門柱のチャイムを押した。チャイムの電子音は鳴る。しかし、誰の反応もない。家人も含め、留守かもしれない。
おれがここに来たことの証明のため、置き手紙を残すことにした。
仕事道具の中に、適当な封筒がある。それに折らずに入れられる、愛用のフランスRHODA社製縦長メモ帳を横置きし、手書きでしたためる。名刺と一緒に封筒に放り込み、社長邸郵便受けに投げ入れる算段だ。
道路の電柱を垂直に立つデスク天板代わりに手紙を書いている最中、社長宅に黒っぽい国産中型セダンがバックで入っていった。
相模ナンバーのその車の運転席から降りてきたのは、おれよりやや小柄の、おれより一世代ほど若そうな男だ。
「小山社長っ」
人違いである可能性は十分考慮した上で、声を掛けた。「小山社長ですか」などと誰何すると、本人であっても否定する、とぼける余地を与えてしまうからだ。
「はい」
男は応じた。
「横浜市内で作家をしております」
名刺を社長の胸先に押し付けた。社長は受け取った。
「なぜぼくがきょうここに来たか、お分かりですね?」
今度は疑問文を投げかけた。この表現は悪趣味と知った上でだ。悪趣味に関する詳細は後述する。
「なら…なら…奈良北店のことですか?」
どもり口調で社長が言うから、吃音症気味なのかと疑った。
小山社長はこのちょっとした豪邸に越してくる前、そこよりずっとおれの住む団地、つまりスーパー三和奈良北店に近い、町田市成瀬台三丁目に居を構えていたからだ。
問題の店舗から一キロも離れていない。家人が買い物に使っていたかもしれない。開業時に物件を選定したのは、社長就任前の小山真本人かもしれない。
「そうです。そこでなにが起こっているのか、お聴き及びですね?」
「その件に関しては、なにも答えるなと、顧問弁護士から指示されてるもんで」
口調はよどみない。「なら…なら…」と口ごもったのは、あえて関心のないふりを装った。あるいは、おれの襲撃にあまりにも驚いた。後者だとしたら、カツミの伝言が伝わっていなかった。
「指示されてる? 顧問弁護士は、社長の会社が報酬を払っている、社長の会社が雇っているんじゃないんですか?」
「その通りです」
「だとしたら、指揮命令系統は、社長が頂点だ。下が上に指示する、頂点が下層から指示されるというのは、変じゃないですか?」
「……」
「指示されているのではなく、例えば、助言を受けているのではないですか?」
「……」
「発言の訂正はしませんか?」
「訂正します。助言を受けている、です」
「いいでしょう。また来ます。あるいは、社長の方からなんらかの連絡をください。お待ちしております。今夜は突然押しかけて、社長個人に対しては申し訳ないと思っています。ですが、事業所従業員の問題については、会社として、その代表としての社長に説明責任を果たしていただきます」
「……」
社長が家屋に入ったのを見届け、リュックからニコンの一眼レフを取り出し、内臓ストロボを二度ほど光らせ社長の家と車を撮影した。
帰路も歩いた。町田駅周辺の繁華街を通って、スマートフォンの地図アプリに頼らず往路とは別ルートを使ったから、ずいぶん遠回りをしてしまった。
(「弐の10 アイドリングで問題ない」に続く)