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拾陸の6 脇の汗のにおい

「…アシ…」

 何度か続けた。

 連続では声が出ない。一度言って、次の声が出るまで待つ。

 呼吸を整えるというような状況ではない。自分が呼吸しているかどうかも分からない。


「なんだ」

 視界の左端に、制服勤務員の姿が見える。顔は分からない。

「…アシ…」

「暑い?」

 首を振って否定しようとするも、首はわずかしか動いていない。わずかしか動いていないことが、視界のぶれの小ささから分かる。

「…脚…閉じたい…」

 通じたようで、制服勤務員はおれの下半身辺りに自身の膝を突く。

 しかし、上から見れば「才」か「オ」の字のように広がっているのではないかと思えるおれの右脚をまっすぐの状態にしてくれたのかどうか分からない。そもそも、おれの右脚が広がっているのかどうかも分からない。

「これでいいか。これでいいな」

 制服勤務員は、視界から消えた。

 右脚付け根部分内側の、血流が遮られるような違和感は消えない。


〈アセトアミノフェン、イブプロフェン…〉

 遠くで聴こえる。明らかに幻聴だ。


「地検を出発する時は、異常なかったんです」

 幻聴ではないヒトの声が聴こえる。おれの手錠の鎖にロープを通し結び付けるのに手間取った制服勤務員の声だ。

 勾留請求の日に、十日の期限の起算はその日か翌日かを確認して指折り数え教えてくれようとした制服勤務員が、あの男だった。ロープを結ぶのが手間取っているのは自分の問題だと釈明している時には気づかなかった。思い出せなかった。

 青葉署員なのか、所属は別のところにあるのか分からない。巡査長の階級章だった。胸の階級章の上の個人識別章は、ほかの留置管理部門の勤務員同様、裏返しだった。


〈アセトアミノフェン、イブプロフェン…〉


 幻聴を打ち消す大きな音と声で、制服勤務員数人が部屋に入ってきた。視界の左端から現れ、無影灯のような明かりの下で巡査長、ガコ古賀らに囲まれた時のように、勤務員らが上からおれの顔をのぞき込む。黄色い明かりではない。緑色の蛍光灯だ。

「五十九番。水は飲めるか?」

 そんなこと分からない。答えようがない。

「起きろ。起こせ」

 上半身を起こされるのが、視界が大きく動いたので分かる。

「飲め。飲ませろ」

 唇になにかが押さえつけられた。唇の感覚は残っていた。

 視界の下方に、プラスチックの器が見える。透明の液体の表面が動いてみえる。

「飲め」

 器がこちら側に傾く。唇に器のふちを押さえつけられたのは分かったが、透明の液体が唇に当たる感覚はない。吸ってみた。舌がぬるい水を感知した。

 しかし、喉が動かない。動いているのかもしれないが、動いている感覚がない。器の水は減っていく。

 喉が受け付けていなければ顎を伝って胸辺りにこぼれ落ちているかずだが、顎にも胸にもそんな感覚はない。

「食え。食わせろ」

 プラスチックの仕出し弁当の容器と箸を、顔色の悪い巡査部長が持っている。

「春雨だ。口を開けろ」

 顔色の巡査部長が箸でなにをつまんで、おれの口に押し入れた。唇と舌がそう感じた。

 押し入れられた次の瞬間、鼻の奥に酢の香りが広がり、むせた。むせたのと同時に、おれの口は押し入れられた物と唾液のような物を吐き出した。吐き出されたなにかは、顔色の悪い巡査部長の腕と胸の辺りにかかった。

 鼻の奥の酢の香りは収まらない。収まらないまま、むせて呼吸が苦しくなった。呼吸をしていたのだと自覚した。

「無理だな。片付けろ」

 誰かに言われ、顔色の悪い巡査部長は、プラスチックの器と箸を脇に置いた。

「栄養剤だ。栄養剤を飲ませろ」

 誰かが言う。一八〇ミリリットルほどの小さな缶を誰かが持ってきて、上面のタブを引いて開ける。

「…アレルギーが…」

 脚を直してもらった際よりは、声が出るようになっている。上体を起こされているせいかもしれない。

 上体を起こされてはいるものの、首がぐらぐらしてまったく安定していない。左右から制服勤務員が腕で支えてくれているようだが、それでもぐらぐらだ。

 首の据わらない赤ん坊を無理に起こそうとすると、きっとこんなあんばいだろう。

「アレルギー?」

 左側から支えていた勤務員が尋ねる。

「…薬物アレルギー…」

「どんな薬物に?」

「…あなたには話した…」

「いつ?」

「…白髪の巡査部長と一緒の時…」

 逮捕された初日に聴き取られている。

「あれは、おれじゃないんだ」

 そうだ。白髪の巡査部長との相勤(ペア)は、お茶目な巡査長だ。この男は、樽の巡査長だ。だから相勤は、顔色の悪い巡査部長なのだ。

 樽の巡査長は、お茶目な巡査長とは似ても似つかない。瞳も茶色ではない。そんなことも分からないほど、その見分けも付かないほど、おれは、おれの頭は混乱していた。

「…アセトアミノフェン。イブプロフェン…」

 幻聴の文句を、口に出した。缶の表示を、顔色の悪い巡査長が読み取ろうとしている。

「薬じゃないんだ。大丈夫だろう。飲ませろ」

 誰かが言う。

 顔色の悪い巡査部長が、缶のふちをおれの唇に押し付ける。

「飲め」

 缶がこちら側に傾く。どろっとしたなにかを、舌が受け止めた。甘い。

 どろっとしたなにかは、ゆっくりと舌の奥に流れ込む。むせるのが怖い。

 ところが、どろっとしたなにかが流れ込んだ先の喉は、そのどろっとしたなにかに押され、大きく動いた。

 開かずの扉がぐるんと開いたように回って開いたように感じた。ごくりと喉が鳴る。

 喉を通過したどろっとしたなにかは、ゆっくりと、しかし確実に、食道辺りを下っていっているのが分かる。

 大きく息を吸った。鼻で吸ったのか口で吸ったのか分からない。肺が吸った。

 喉が動いた拍子に、体中の歯車が再駆動を始めたように感じた。大きく吸った息を、吐いてみた。

「ブォォォ」

 仏僧が吹くほら貝でできた楽器のような音が聴こえた。おれの声帯が震えている。ほら貝を吹くような音は、おれの声だ。おれの口から出ている。

 もっと息を吸え、もっと吐けと、体が訴えている。体に命じられるまま、おれは息を吸う。息を吐く。

「ブォォォォォ」

 声帯が震える。喉が開く。鼻が通る。視界が広がる。緑色の明かりで緑色に染まっていたはずの壁が、クリーム色になる。よだれか鼻水か汗か涙か、飲めなかった水か、液体が顎の先に向かって流れていくのが分かる。

 両手のひらがしびれを切らした時のようにじんじんする。両腕のひじを、誰かにつかまれているのが分かる。

「…マツダの看板が、青い看板がーー」

「幻覚で見たのか?」

 気を失う前の最後の記憶だと説明しても理解してもらうのは無理だろう、説明しても意味のないことだろうとあきらめた。

「ーー腕の感覚が戻りました。左を素手で、右をビニール手袋のような物でつかまれてます」

 言ってから、実際にそうであることを視認した。

「これ、効くんだな」

 おれの右腕をつかむ顔色の悪い巡査部長がもう片方の手で缶を持ち、感心したように表示を読む。

 手から遅れて、足の裏もじんじんしだした。しかし、首は相変わらず安定しない。左側から、樽の巡査長が腕を後ろに回し支えているのが分かった。

 鼻がどんどん通ってくる。鼻水がだらだら垂れているのが、自分で分かる。お巡りさん、制服の脇の汗のにおいがひどい、とは言わなかった。


「その体じゃ、布団、運べないな。おれたちが持ってきてやっから。敷いてやっから」

 そう言われて初めて、おれが放り込まれたその部屋は、おれの居室だと分かった。照明が緑に見えていたから、気づかなかった。負傷者や病人を収容するための特別の部屋だと思っていた。


(「拾陸の7 今、一番したいこと」に続く)

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