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拾陸の5 仮面の告白

「ーー五十九番、手錠だ。手錠を出せ。両手を上げろ」

 自分の両ももと、手錠でつながれた両手首が見える。

 上を向いているのか下を向いているのか分からない。腰縄につながったままの手錠を、誰かが視界上方向に引っ張る。

 引っ張られている感覚はない。痛みもなにも感じない。暑さも寒さも感じない。


 頭の中を整理する。警察に逮捕、勾留されている。検察に二回行った。二回続けて、帰りのバスから遠方に「MAZDA」のロゴを見た。二回目は青かった。いや、青かったのは、ガードレールのコンクリート支柱を貫く鉄パイプだったか。

 分からない。分からないまま、両手首にはまる手錠を引っ張られる。腰縄とつながるロープがぴんと張っている。


「こいつ、わざとやってるんだよ!」

 甲高い声が、遠方から聴こえる。声の響きで、その主は遠方にいるのだと分かる。声は響いている。狭い箱の中での響き方だ。バス車内だ。おれは、まだバスの中にいる。

 視界がぼやける。まばたきをする。視界がクリアになる。ぼやけていたのは、汗か涙のせいだ。

 まぶたは動く。眼球も上下左右に動く。しかし、体のそれ以外の部位は、動いているのか動いていないのか分からない。

「みんな迷惑してるんだよ。引きずり降ろせ!」

 さっきの甲高い声と同じ主のようだ。


「足を出せ。膝を曲げろ」

 別の男の声が聴こえる。

 手錠の鎖と腰縄をつなぐぴんと張ったロープの向こう、両ももの間に見えるはずのおれの足の甲は、なにかにさえぎられている。膝を曲げているつもりだが、ももから下はまったく動いていない。

「引っかかってる。引っ張れ」

 誰かがおれの足元に手を突っ込む。《59》と書かれた粘着テープを貼ったサンダルが、前のシートらしい物の陰から出てきた。

《59》はサンダルを履くおれからは上下逆に見える。正常に足にはまっている。座っていたシートと前シートの間から体を引っ張り出されたようだが、上下左右が分からない。


「歩け。足を前に出せ」

 視界の真ん中に、右サンダルを履いたおれの右足が見える。足を前に出す。しかし、出しているはずなのに、視界の真ん中のおれの右足は少しも動いていない。

 力を入れる。自分のうなり声が聴こえる。おれの右足は、ちっとも動かない。左足は視界になく、どこにあるのか分からない。


 どうやってバスから降ろされたのか分からない。手術台の患者を照らす無影灯のような黄色い明かりがまばゆい。

 青葉署庁舎内の天井のようだ。無影灯のように感じたのは、照明の周囲に、大勢の男の顔が(サークル)サークル状に並んでいたから。

 その中に、おれのDNAを採取した巡査長、ガコ古賀がいた。作業服のようなブルゾンを着けている。ブルゾンの色は分からない。黄色い明かりが強すぎる。


 ノーベル文学賞候補にもなった小説家、三島由紀夫(みしまゆきお)(一九二五-七〇)は自身の生まれた時のことを覚えていると、複数の場所で明かしている。自伝的作品『仮面の告白』(一九四九)によれば、産湯(うぶゆ)(たらい)たらいのふちに射していた日の光を、「わたし」は見ていた。


 出生時だけでなく誕生前のことを記憶する赤ん坊の存在が、各界で報告される。それは、胎内でのことであったり、前世といった宗教的な領域のことであったりする。

 赤ん坊がそんなことを覚えているはずがない、そもそも眼が見えていないという主張の二番目を、おれは激しく否定する。なぜなら、おれの娘は、生まれてすぐにおれを認めたからだ。

 へその緒が首に巻き付き難産だった娘は、母親である女房の胎内から出てきた時、立ち会い分娩のため女房の頭上にいたおれと視線が合った。驚いたような表情をしていた。産声は上げなかった。


 その時の記憶など、成長後の娘にはない。

 ーーママ、カレーばっかり食べてたでしょ。ジャガイモとかニンジンとか、いっぱい降ってきたよーー

 なにかで知恵を付けて、戯れで言っているだけだ。そうでなければ、記憶が創作されているだけだ。


 青葉署庁舎の天井の明かりに照らされ複数の署員に周囲からのぞき込まれたおれの見た景色は、無影灯で照らされる分娩台で母胎から出てきて医師や複数の看護師や父親であるおれに囲まれ、驚いた娘が見たのと似た構図ではなかったか。


「重いな、こいつ」

 署員がおれを留置施設に運び込もうとしているのが分かる。手錠をいつ外されたのか分からない。

 絞められる鶏の断末魔のような叫び声を出しているのが自分だとは、それが止むまで分からなかった。頭を誰も支えていないから重みで大きく後ろに反り、そのため気道が締め付けられたようだ。


 床に降ろされ座らされる。後ろで誰かが背中を支えているのか壁にもたれかからされているのか分からない。

「握れ」

 おれの左手のひらが誰かによって開かれ、その上に、ビニールかゴムの手袋をはめた手がじゃんけんのチョキのように人差し指と中指の二本のみ載っている。言われた通り握っているつもりが、おれの左手はまったく動いていない。触られている感覚もない。

「握らんぞ」

 そう言って顔を上げ周囲の誰かに告げたのは、顔色の悪い巡査部長だった。

「こっちだ。こっちの手を握れ」

 眼球のみ動かし、自分の右手を見る。手袋をはめない裸の二本指が、おれの右手のひらに載せられている。その主が、おれの右手も支えているようだ。

 右手を握る。しかし、握っているつもりなのに、左手同様まったく動かない。

「握れっ。強く握れっ。握れって言ってるだろっ」

 右手を支え手のひらに自分の指を載せる誰だか分からない署員は、おれに怒鳴り付ける。しかし、どんなに力を入れても、入れているつもりでも、手はぴくりとも動かない。

 力を入れ、顔面が引きつる感覚がする。だけど、顔面の筋肉が動いているのかどうかさえ自分では分からない。


「駄目だ。運び込め」

 緑色の蛍光灯がともる狭い部屋に、乱暴に投げ入れられた。


〈アセトアミノフェン、イブプロフェン…〉


 遠くで声が聴こえる。アレルギー反応を起こすおれの禁忌薬の成分名だ。

 しかし、幻聴かもしれない。なぜなら、その成分名を唱える声はずっと聴こえるから。ずっと繰り返して聴こえるから。


 体のどこが動くか、どこか動かないか、試してみる。

 まぶたと眼球はほぼ正常に動く。唇は開いているように感じる。舌を出せる。出せているように思う。出せていないかもしれない。

 首を軸に、床の上で頭を転がせる。転がせる角度は浅い。右も左も、真横は向けない。首から下は、まったく動かない。


 仰向けで横たわっているのは分かる。しかし、四肢がどういう状態なのか分からない。ただ、右脚の付け根内側に違和感がある。無理に引っ張られているか圧迫されているかのように感じる。血流が滞っている印象だ。

 両腕、左脚には一切、そんな感覚はない。そもそも、なにも感じない。


 右脚だけを大きく開いて寝かされているのではないか。上から見ると漢字の「才」や、かたかなの「オ」のような状態ではないか。

 もしそうであれば、直してほしい。署員を呼ぼうとした。

 しかし、声が出ない。舌がうまく動かない。

「…アシ…」

 耳に入ってくるのは、自分の声とは思えない、弱々しい後期高齢者か重度病人のそれだ。


(「拾陸の6 脇の汗のにおい」に続く)

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