拾陸の4 こんなに震えてるじゃないか
神奈川県警青葉署刑事課強行犯係巡査長、ピロシキ田中と同じようなことを、横浜地方検察庁検事、鈴木陽子は聴いてくる。「調べとは関係なく」とピロシキ田中が言ったのと同じように、「調べとは別」と、鈴木陽子は言う。
ピロシキ田中は、パソコン上に打った文字を消す作業までして、記録に残さないことを強調してみせた。しかし、「警察は常に、検察の指示、指揮の下、捜査手続きを進めている」とピロシキ田中が説くように、供述調書の文面に残らなくても、被疑者に関する周辺情報を警察が検察に献上していると考えるべきだ。
また、検察独自でも、事前にいくらでもおれの素性を調べ上げられる。税務署に照会を掛ければ、おれの取引先出版社に容易にたどり着く。
しかも、今回の事件は、通常の警察ではなく検察が端緒なのだとおれはにらんでいる。株式会社三和やその顧問弁護士、藤間崇史に、おれの作品をいくつか送り付けた。その中に、ピロシキ田中に教えたペンネームによるものもあったはず。
だから、検事・鈴木陽子は、おれに聴くまでもなくおれのペンネームなど知っていてしかるべきなのだ。
「ご関心があおりですか?」
焦らしてみることにした。検事・鈴木陽子が、横浜地検が、おれのペンネームを本当に知らないのか試すためだ。
ピロシキ田中に答えた前日のようには、スムーズに口を割らない。「調べとは別」と言う以上、おれがペンネームを答えようが答えまいが、どのように答えようが、少なくとも表面上は、検事・鈴木陽子の心証に影響を及ぼさないはず。
「はい。もし、お差し支えなければ」
「いいですよ。本名に依存するペンネームが一つあります」
「そうですか。モリ…モリ…」
右手をペンを持ち紙になにかを書き付けようとする検事・鈴木陽子は、明らかにおれのペンネームを知っている。知った上で、おれから言わせるよう誘導している。
「モリフミノスケ。森史まで本名と同じ、『ノ』は『これ』とも読むひらがなの『え』のような漢字。『スケ』は助平、助けると同じ字」
ピロシキ田中に対するのと同じ説明をした。
「一冊の本にもなってるのも、このペンネームですか?」
「この名義では、著書が二冊あります。ぼくの前科前歴で検事さんが掌握されている通り、罰金前科があって、払わず五十日間、刑務所に労役場留置されました。一冊は、その獄中記です。もう一冊は、今、住んでる団地の部屋は先住者が亡くなってるいわゆる『事故物件』で、その入居体験記です」
「入居体験記は、オカルト的な内容なんですか?」
「そういう霊的な要素は、極力排除してます。事故物件がどのように発生してどのようにマーケットに乗るか、そこに住むのはどういう人か、住むとどんな心情にさいなまれるかっていう、心理学も含めた社会学の観点で取材、執筆しました」
獄中記のことを、検事・鈴木陽子は尋ねない。刑務所は検察庁と同じ法務省の機関で、労役場留置についてよく知ってるからなのか。
入居体験記は、UR都市機構の団地でのことと、知っているはず。UR関連事業所とのトラブルに探りを入れたのか。しかし、UR問題を立件するつもりなら、被疑者の前でやすやすとその話題を持ち出さないはず。
分からない。
「アマゾンでも買える本ですか?」
「在庫があれば。絶版にはなってません」
獄中記は二刷り、入居体験記は四刷り、版を重ねた。
「終わりました。お願いします」
おれ越しにおれの後ろに向かって検事・鈴木陽子が声を掛け、パーテーションの向こうに控えていた男性制服警察官二人が姿を現し、パイプいすと腰縄をつなぐ手錠をいったん外しおれの両手にはめ直し、おれを部屋の外に連行した。
エレベーターで待機室に戻った。
寒い。冷房が強すぎる。
待機室には十人ほどが詰め込まれている。寒いと口々に言っている。
「建物が古いからな。温度調節ができないんだよ」
柵の外の廊下の警察官は言う。
「窓を開けてもいいぞ。少しは暖かいんじゃないか」
窓はすでに、半分ほど開いている。窓の向こうはすぐに壁だ。窓から見える範囲の景色で、自分のいる待機室が、地面より低いことがうかがえる。
マイクロバスの駐車場は建物の地下にあった。エレベーターで移動した先の待機室は、駐車場の真上にあるようだ。
「おじさん、寒いんだろ。風が当たるから。トイレに入って、風が当たらないようにしなよ。ちくしょう、こんなに震えてるじゃないか!」
若い囚人の男が年老いた囚人の体を大げさにさすりながら、柵の外に向かって声を張り上げる。
老人が震えているかどうか、おれの眼では分からない。若い男は老人をだしに使っているだけで、本当は、自分が寒いのだろう。いや、寒くても寒くなくても、警察官に対しなんらかの怒りをぶつけたいのだろう。寒いのは、そのための都合のよい材料なのだろう。
しかし、確かに寒い。
冷房の効き過ぎに伴うこの寒さと関係があるのか、あるとしてそれがどの程度のものか分からないが、おれの聴覚は相変わらずおかしい。過敏になっている。耳に入る音すべてが大音量で聴こえるし、呼ばれてもいないのに自分が誰かに呼ばれている錯覚に陥る。
聴取を受けた検事の部屋では、そんなことはなかった。検事の部屋は、待機室ほどの冷気は漂っていなかった。
聴覚の異常は、検事の調べを受ける前より、調べを終えて待機室に戻ってからの方が顕著だ。冷気が強くなっているのかもしれない。室内温度が下がったのかもしれない。
寒さと聴覚の異常が収まらぬまま時は過ぎ、留置されている署ごとに呼び出され別の待機室に移され、そこで手錠、腰縄ともにロープを通され、朝、青葉署から連れて来られた連中との「電車ごっこ」が再開する。
おれの手錠の鎖にロープを通す際、巡査長の階級章を付けた制服警察官は、通したロープをうまく結べず、何度もやり直す。
「あれ? あれ?」
巡査長の発するいらだったような声も大きい。
「ぼくの問題?」
尋ねてみた。
「いや、おれの問題」
巡査長のせりふが、耳にがんがん響く。
「電車ごっこ」のままエレベーターに乗り、駐車場に移動する。駐車場は、ものすごい熱気だ。ディーゼルエンジンを駆動させたまま駐車中のマイクロバスが吐き出す排気ガスのせいもあろう。
ところが、乗せられたバスは、エンジンが回っておらず、冷房も効いていない。駐車場全体よりさらに暑い。蒸し風呂という表現では甘すぎる。
「エアコン、早く付けてくれよお」
おれとロープでつながる囚人の男が、おれより前のシートで声を張り上げた。
エンジンが駆動し窓の上の吹き出し口から冷たい空気が流れだす。しかし、冷気が強すぎる。涼しいとか冷たいとかいうより痛い。
吹き出し口は向きや開閉が調整できる仕組みだが、両手錠を腰縄の腹の位置で固定されているから腕を上げられない。吹き出し口の向きも開閉も調節できない。
マイクロバスは冷蔵庫状態で検察の庁舎を出発し、街中を抜け有料道路に入った。右側遠方に、自動車メーカー「MAZDA」の青いロゴが見える。メーカーかディーラーの事業所ビルだろう。勾留請求の日の帰路でも、同じ光景を見た。
ジャンクションであろう、小さな弧を描き右に旋回する車から、ガードレールのコンクリート製支柱を貫き横に走る上下二列の太い鉄パイプのような物を見た。それも青かった。
二つの青で、おれの記憶は途絶える。
(「拾陸の5 仮面の告白」に続く)