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拾陸の3 MajiでKoiする5秒前

 奈良時代末期に成立したとされる現存する日本最古の和歌集『万葉集』には、寝て見る夢に登場する人物は夢を見た本人を慕っているのだという前提で詠まれた歌が数多く見受けられる。

 意中の相手が夢に登場したから、相手は自分を慕っている。あるいは、こんなにも相手を慕っているのだから、相手の夢に自分は登場していることだろう。

 時代が下ると、そんな価値観の文芸作は姿を消す。奈良時代の歌人が、本当にそう考えていたのか、文学的な比喩表現なのか、おれには分からない。


 高校「古文」の授業で『万葉集』を教わる前、中学のころだと記憶している。同級生の男がこんなことを、実際には方言で話していて、感心させられた。

 ーーなんとも思ってない女子が夢に出てくると、目が覚めて、急にその女子を好きになってて驚くよなーー

 感心させられたのは、おれにもまったく同じ経験があったからだ。

 そしてこのことは、三十代も半ばを過ぎ、おれよりやや年かさの人気お笑い芸人がラジオ番組で思春期の思い出話として語っているのを聴いて、やはり感心させられた。


 夢に見る前から深層心理で相手に恋心を抱いていて、深層心理が発露し夢に見ることで、その深層心理に気づかされる、というのが実際のところだろう。『万葉集』における本来とは逆ベクトルの恋心に伴う意中の相手の夢への登場は、そういう願いを込めた、こういう逆転現象の比喩なのかもしれない。


 だから、恋愛感情を抱く相手を、いつからその対象として位置付けたかのスタート地点を測るのは難しい。

 ただ、おれは、後に離婚することになる結婚数年前の妻に対し、「この()は将来、おれの女房になるんだな」と確信した瞬間のことを、今もよく覚えている。この出来事(エピソード)については、章を改め詳述する。


 日常生活イコール報道取材であるおれが、スーパー三和問題をなにかの機会にどこかで発表しようという思いを発生させた、芽生えさせた時期について、女性検事スズキに尋ねられ、おれは少しの間、考えた。

 勾留請求の日に別の女性検事が読み上げた容疑事実には、「かねてより株式会社三和の営業を妨害しようと(くわだ)て」うんぬんとあった。「企ててなどいない」と、おれは否認した。

 しかし、商品が入った段ボール箱を足で蹴って移動させたり、密封されていない惣菜を値下げラベルを貼るためのハンディ機器で砂場のスコップ遊びのようにがさがさ山にしたり谷にしたりする店員の姿を視認して、いつかどこかで発表してやろうという思いは、当時からあった。それを始点だと供述すると、検察のいう「かねてより/営業妨害を企て」が成立してしまう恐れがある。

 また、警察で調書を巻かれた二月三日のレジ係「ほづみ」なにがしの事件に関し、直後に三和本社に、作家であると身分を明かし電話をかけているし、併せて、株式会社三和の法人登記簿を取り寄せている。取り寄せた登記簿のコピーを、うちを訪れた店長ヤスダに手渡してもいる。

 この時点で取材は本格化していると、事情を知れば取材に縁のない人も感じるかもしれない。

 いすれにしても、明確なスタート時点は思い出せないし、ここからだと線引きできるようなものでもない。


「店舗運営部の矢島なにがしを名乗る人物と、文書をやり取りしてます。受け取ったのも、それに返信したのも、三月上旬のことと記憶してます」

「はい」


 検事スズキはやはり、なんの資料も開かない。確認しない。

 ただ、勾留請求の日の若く美しい清楚な女性検事と同じように、綴じられていない束の紙に時折ペンを走らせる。


「その、矢島なにがしに宛てた文書を投函した時点では、ぼんやりとですがイメージが形成されてました。どういう媒体にどういう内容で発表するか、ある程度、想定してました」

「そのための取材を続けたということですね」

「そうです」


 警視庁町田署生活安全課警部補、つるっぱげ浅沼や、内容証明郵便の書き方を知らない間抜けな顧問弁護士、藤間崇史の介入についてもしっかり描写する目算でいた。

 しかし、検事スズキに対しては、尋ねられるまでこれらのよけいなことは言わない。


「その取材を、ずっと続けていたということですか」

「そういうつもりでした。成果を発表するために、取材をしているつもりでいました」

「そうではなくなってしまったんですか」

「無関係の第三者に対してまで手を広げた時点で、取材のあの段階でそういう行為に出た時点で、もはやそれは、正当な取材とは言えません」

「なぜ無関係の第三者に対してまで手を広げたんですか」

ブラフ(揺さぶり)のつもりでした」

「誰を揺さぶるんですか」

「三和の本社と、会社代表である社長、さらに、顧問弁護士です。彼らを揺さぶるために、関係のない第三者を巻き込んでしまいました」

「関係のない第三者を巻き込んで、取材はうまくいきましたか」

「いきません。取材を、大事なネタを、つぶすことになってしまいました。捜査機関が事件をつぶしてしまうのと、おそらく同じです」


 三和関連の問題ではもはやどこでも作品を発表しない、できないと強調しなければならない。そうしなければ、捜査機関、いや、顧問弁護士や裁判所を含めた法曹の追撃は続く。

 法曹によって、ネタだけでなく、おれ自身がつぶされてしまう。


「なぜ、取材をつぶしてしまったんですか。大切なネタをつぶすようなことになってしまったんですか」

「会社勤めをしていたころや、独立してからもチームで取材をしていたころは、個人の判断でネタをつぶすと、大変なことになってしまいます。同僚やチーム全体に迷惑を掛けてしまう。競争相手がいたら、その時点で敗けが確定します。だから、間違った行為は、同僚やチームによって指摘され、矯正される」

「……」

「ですが、だんだん単独で動くことが多くなってきて、ネタをつぶしてしまうことのリスク管理ができなくなってきてるんだと思います。ネタをつぶしてしまっても、誰にも迷惑をかけない。競争相手もいない。誤りを軌道修正してくれる者もいない」

「……」

「加齢のせいもあるかもしれません。認知症の初期症状で、正常な判断ができなくなっているのかもしれない。不眠症で心療内科に通院してます。自覚症状はありませんが、精神疾患のせいかもしれない。守るべき家族もいないから、仕事で失敗しても、それで収入が絶たれても、大して困らない」

「……」

「こういう状況で、傲慢(ごうまん)になっていたかもしれません。取材対象への謙虚さが欠如していたかもしれません」


 具体的にどこの誰に対するどの行為が問題だったか、おれは言わない。言うと彼ら捜査機関の取り扱い対象を増やしてしまう。おれが自身の首を絞めてしまう。


「分かりました」

「……」

「きのう警察で、今後、三和との関わりは、消費者としての立場も含め極力避けたいと思っている、と供述してますね」


 女性検事スズキがおれの前で初めて、ピロシキ田中が巻いた員面調書らしい書面に視線を落とした。


「はい」

「極力とはどういう意味ですか。絶対に、と言えないんですか」

「天変地異レベルの災害でも起こって、あの建物しか避難場所がないとかっていうケースを担保するため、そう述べました」

 それレベルの災害が起こったら、最初に倒壊するのは実際には()()()()だ。

「そういうことでもない限り、関わらないという理解でいいですか」

「はい」

「店舗にも近づかない、入らない、関係者と接触もしないということでいいですか」

「さきほど例に挙げた通りです」

「天変地異レベルの災害が起こって、そこにしか避難できないというような場合でもない限り、店には近づかない、入らないということですね。関係者とも会わないってことですね」

「その通りです」

「分かりました。きょうの調べはこれで終わります。聴取を始めた時刻と終わった時刻の書類に、署名と指印をしていただきます」


 女性事務官が持ってきた紙によると、この日も勾留請求の日と同じ四十五分間ほどの聴取だった。

《検事・鈴木陽子》

 担当検察官名欄は、そうなっている。


「これは、調べとは別なんですけど」

 おれがサインして右手人差し指で捺印し、紙を事務官に戻してから、検事・鈴木陽子は言った。

「作品を発表しているのはペンネームですか」

「実名もペンネームも使ってます」

「一冊の本にもなってますか」

「ペンネームの方ではなってます」

「もしよろしければ、そのペンネームを教えていただけませんか?」


(「拾陸の4 こんなに震えてるじゃないか」に続く)

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