拾伍の9 パンダちゃんへ
「森さん」
「うん」
「森さんの書いた作品が、一冊の本にもなってるんですか」
「なってるよ」
「ペンネームでですか?」
「一冊の本になってるのはね」
「そのペンネーム、教えてもらえませんか。これは、調べに関係なく」
「いいよ。メモ、取れる?」
強行犯係巡査長、ピロシキ田中と向かい合わせのスチールデスク天板には、おれに水分補給させるための半透明のプラスチック製コップ以外、なにもない。
「今、取れないんです。筆記具の持ち込みに制限がかかってて。ちょっと持ってきます」
筆記具の持ち込みに制限があるのは、税務署を欺くための二重帳簿のような、「二重調書」を作成しないため、二重調書は作っていないと聴取対象者にアピールするためだ。
また、本来の調書とは別に書面を作成して聴取対象者と裏取引したり、午前中の「死刑宣告」のようなことを書面で行うのを防ぐ目的もある。これも、それをしないこと自体より、しないという聴取対象者へのアピールの方が重要。
さらに、おれが取材メモを紛失してしまうのと同じように、取り調べに当たる捜査員が聴取内容をあちこちに記入してその書面が散逸するのを防ぐ目的も、あるのかもしれない。
紙とペンでも持ってくるのかと思ったら、ピロシキ田中は、調書を巻いた先ほどのパソコンを担いで戻ってきた。
「お願いします」
「複数あるんだけど、まず、一つだけね。モリフミノスケ。森史まで本名と同じ。『ノ』は『これ』とも読む、ひらがなの『え』に似た字。『スケ』は、助平の助、助けるって字」
「助六ずしの『助』ですね」
「そう。ぼくが食べたくて食べたくて仕方ないのに、スーパー三和では買えなかったやつ」
「これでいいですか?」
液晶画面を、ピロシキ田中はこちらに向ける。
《森史之助》
「うん。そうそう」
「覚えました。調べてみます。探して、読んでみます」
そう言って田中は、Delate ボタンで文字表示を消した。記録に残さない、証拠として残さないためだろう。そのことをおれにアピールするためだろう。
パイプいすと腰縄をつなぐ手錠を外され、腰縄はそのまま手錠を両手首にはめ直され、取調室を出て刑事部屋を出て、厳重な警戒の扉を二つくぐって、留置施設に戻った。
お茶目な巡査長から、身体検査を受ける。手順は体で覚えたから、なにも言われなくても壁に両手のひらを当て、片足ずつサンダルを脱いで足の裏を見せ、髪をかき上げ両耳の穴を見せ、口を開いて中を見せる。羽根突きの羽子板のような金属探知機を操作するときの決まり文句、「キンタン実施~」も、お茶目な巡査長は言わなかったような気がする。
代わりに、こんなことを言った。
「あしたも調べ?」
「えっ? どうかな。そんな話は、聴いてないですよ」
思ったままを口にした。
「そおお?」
「なにもないより、なんかそういうイベントでもあった方が、気が紛れていいっすね」
なにもないと日がな一日、居室でやることがなく、時間の経つのが遅く感じる。
「ふうん」
そんな思わせぶりなせりふで、お茶目な巡査長の身体検査は終わり、手錠、腰縄から解放され、代わりに牢屋に戻り、まずい夕食を待った。
まずい夕食を口に運びながら、箸を使う右手で暦を勘定してみる。この日は火曜だ。
食後、柵の外を見回る白髪の巡査部長を呼び止め、尋ねてみた。
「自弁での購入をお願いした切手とか封筒とか便箋とか、あした届くんですよね?」
「うん、そうね。水曜だから」
おれが逮捕、勾留されていることを早急に知らせなければならない相手が複数いる。おれの身柄がこういう状態だと知らずに彼らが動いてしまうと、おれに損害が及びかねない。
「届いたら手紙を出したいんですけど、正確な住所地が分からないんです。そういうの、お巡りさんたちで調べていただけます?」
「そりゃ無理だよ。便宜供与に当たっちまう」
あらかた予想していた回答だ。
「教えていただけなくても、そちらで調べて封筒の宛て名に書き加えてもらうとか」
「なおさら無理」
予測できていた。
「番地が分からないから、そうなると送達に至らない、戻ってきちゃう可能性が高いんですよね」
前述したギネス記録長寿漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』主要舞台は、実在する警視庁葛飾署の隷下だという架空の警察官派出所(現・交番)だ。この派出所名と登場人物の名宛てで読者がファンレターを投函すると、郵便局員の粋な計らいで、作者の仕事場に配達されたという。宛て先住所なしの《上野動物園カンカン、ランランさま》でも、東京都台東区に立地する恩賜上野動物園に届いていたという。
しかし、令和の現在において、宛て先が正確でない郵便物は、配達されない。その最大の理由は、GPS(全地球測位衛星システム)機器の高精度化、小型化だ。住所を知らない相手に送り付け、居場所を突き止める道具として使われてしまう。
機器を仕込めそうにないぺらぺらの郵便物でも、相手先の住所地を誰でも知ることができる例えば皇居でも、その境界線の設定が困難なことから日本郵便は一律の扱いで、不確かな宛て先へは郵便物を配達しない。
「どこになにを送りたいの?」
失意に暮れるおれに、柵の向こうの白髪の巡査部長は尋ねる。
「最優先は、クレジットカードの会社です。口座残高が不足してるかもしれない、そうすると支払いができない、遅れるって」
仕事の確保や進捗が順調でないおれにとって、お金のやりくりは相変わらずの自転車操業だ。
「一回や二回の支払いの遅れは、どうってことないよ。わたしも遅れたことがある」
「お巡りさんたちは収入が安定してる公務員だから、金貸し屋の信用度が高いんですよ。民間の顧客はそうじゃないし、ぼくの場合、自営業だから、ますます信用度が低い」
「そんなもんかね」
「それにぼく、一度、自己破産しちゃってるんです。そういう前歴があるもんだから、よけいに信用されない。支払いが一度遅れたら即、取引停止ってことになりかねません」
「だけどさ、手紙を出してそれが届いて、支払いを待ってもらえるってもんでもないだろ」
「ぼくがここにいる、刑事訴訟法に基づき勾留されてる、法的な事情で、大義名分があって入金できないんだってことの証明になると思ってるんですけどね」
「そういう証明は、うちらには分からん」
「ですよね。契約は、民事上の扱いですから」
「……」
その通りだ、警察は民事不介入だ、とは白髪の巡査部長は言わない。
桶川ストーカー殺人事件(一九九九)での埼玉県警の捜査怠慢など一連の警察不祥事に端を発し国の警察刷新会議は、この原則にとらわれないよう提言。
しかし、介入するべき民事かそうでないかの明確な境界線は誰にとっても引けず、結局、あいまいな部分を警察は敬遠し、着手しない。誰でも住所地を知り得る相手への、GPSを仕込めそうもないぺらぺらの紙片を、宛て先不明だからと一律に配達しない方針の日本郵便と同じだ。
(拾陸 召集令状を執行する?「1 ボルトから生える指」に続く)