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「やれやれだぜ」 ─灼熱の横浜スタジアム─

 一週間頑張って働いて、やっとやってきた金曜日の夕方。

 俺は要領よく仕事を片付けて、間違っても作業なんて残さずに定時で会社を出た。


 決まった金曜だけは車で出社しているので、駅ではなく駐車場に向かい、いつも停めている場所へ向かった。


 シルバーの国産車に乗り込み、エンジンを掛ける。

 俺は息つく間もなく、アクセルを踏んで車を走らせた。


 十分程で彼女の待つ大通りに着くと、路肩に停車した。

 滑るように素早く乗り込む彼女にお疲れ、と声を掛けながら、俺はすぐに車を再び走らせる。

 焦る彼女に急かされるように、目的地を目指した。


 いつも停めるコインパーキングに車を停めて彼女に視線を向けると、もう既に準備万端だった。

 むしろ、今まで運転していたにも関わらず、なんでお前はまだ準備してないんだと言うような目で見つめられて、がくっと肩が落ちる。


 俺は彼女を待たせまいと、後部座席に置いていた紙袋からユニフォームを取り出し、ワイシャツを脱ぐと手早く着た。


 白地に青のラインがデザインされた、それ。

 胸の部分には、大きくベイスターズと英語で書いてあった。


 素早く戦闘着を身に着けるやいなや、ドアを開けて彼女と外に出る。

 既にここまで聞こえてくる歓声に誘われるように、俺達は歩き出した。


 横浜スタジアムに着くと、外野席用の入り口へと向かい中へ入った。

 彼女へ目をやれば、もう視線はグラウンドへ釘付け。

 転けるなよと声を掛けながら、席を探して座った。


 ふう。

 どっこいしょ。


 仕事を定時までに片付けて会社を飛び出し、彼女を迎えに行って車を走らせ、ここまで休みなし。

 顔には疲れを出さずに一息ついた。


 のも束の間。

 運悪くニ回裏の攻撃が始まり、俺は否応なしに席を立つことになった。


 なぜならここは、外野席。

 がっつり応援しながら観戦する席なのだ。


 しかも最も熱く、もっとも激しい歓声と歌声の飛び交う、この辺りの座席。

 私設応援団の合図に合わせて、誰しもが叫び、歌い、踊り、飛び跳ねるのが当然だった。


 俺の休憩はまだ先かと内心で肩を落としながら、彼女の隣にのそりと立ちあがった。


 彼女に視線を送れば目をキラキラ、というよりも、メラメラとさせている。

 両手にカンフーバットを握りしめ、鼻息も荒く興奮を顕にしていた。


 ああ。

 喉、乾いたな。


 ビールが飲みたい。

 野球場で飲むビール、最高なんだよな。


 しかし、このどこよりも熱いエリアには、攻撃中には売り子さんはほとんどやって来ない。

 なぜならみんな応援に忙しく、回の表の守りの時に漸く来てくれるのだ。


 早く、攻撃終わんないかな。

 心の中で呟いた。


 その瞬間。


「ん?」


 彼女が何かを感じ取り、俺に視線を向けた。

 その目は不審に満ちて見え、責められているような気がした。


 俺のこめかみから、脂汗がダラダラと落ちる。


「どうかしたか?」


 この汗は暑さから流れ落ちたのだと自分に言い聞かせて手の甲で拭い、俺は何でもないように彼女にそう問い掛けてみた。


 だって、俺は声に出していない。

 だから聞こえてないはずだ。


 聞こえてない。

 聞こえるわけがない。


 しかしその視線は、やっぱり俺を責めているように見えた。


“早く攻撃が終われとは、どういう事?”


 不思議とそう問い詰められてる様な気になってくる。


 え。

 聞こえるはずない、だろ。

 だって心の声だぞ?


 聞こえてない、よな?


「せ、先制点入るといいな」

「うん」


 どもりながらも誤魔化すようにそう言えば、彼女はふっと笑った。


 とっても可愛いその笑顔に、俺も一瞬にして緊張が解けた。


 よかった。

 聞こえてなかった。


 って、そりゃそうだろ。


 見るからに楽しそうに微笑む彼女を見て、俺も自然と笑みを浮かべた。


 そして応援団の指揮の元、応援が始まれば、もう彼女はこっちを見ない。

 前だけを見つめて、その高い声を大きく響かせながら熱い声援を送るのだった。


 そもそもサッカー部出身の俺は、最初野球のルールさえ知らなかった。

 しかし、今ではホーム球場である横浜スタジアムのナイターがあれば、こうしてもっとも熱狂的な席で観戦するのが当たり前になっていた。


 選手たちと同じユニフォームを着て、打席に立つひとりひとりに違う応援歌を歌い、チャンスが来ればチャンステーマに合わせて声を張り上げる。

 傍から見れば、どう見ても熱狂的なベイスターズファンとなっていた。


 しかし、実際のところそうでもなかったりする。

 こんな風に応援すれば少なからず思い入れもあるし、勝てばやはり嬉しい。

 でも負けてたとしても、ああ残念、くらいの気持ちだった。


 それがどうして、一見すると熱いファンと化しているかというと、原因は隣にいた。


 大学のゼミで知り合ってから、長く付き合っている彼女。

 真性の熱狂的ベイスターズファンの、この彼女の為だった。


 普段は穏やかで、優しくて、気遣いの出来る可愛い彼女。

 俺は出会ってすぐに好きになった。


 告白して振られたけど諦めきれなくて、クリスマスにもう一度告白した。

 その時も反応は思わしくなかったけど、返事は保留になり、俺はアタックを繰り返した。


 今思うと、俺はかなりヤバいやつだった気がする。

 ストーカーだと言われても否定できないくらい、盲目的に彼女を追い掛けていた。


 それでも、そんな自分の異常さにも気が付かないほど、その時の俺は彼女しか見えていなかった。

 好きすぎて、どうしても付き合いたくて、想いを伝え続けた。


 すると、バレンタインにようやく返事が貰えた。

 チョコレートという甘い返事に、俺は天にも登る気持ちだったのを今でも鮮明に覚えている。

 彼女と付き合う事になって、俺は更に愛しさを募らせた。


 どこへでかけても楽しそうにしてくれるし、美味い食事も作ってくれる。

 最初は情で付き合ったくれたのかと思ったりもしたけど、そうじゃない事もすぐにわかった。


 手を繋げば穏やかに微笑みを浮かべ、最初のキスをすれば真っ赤になって照れて顔を隠し、初めてひとつになった時は涙をこぼして大好きと言ってくれた。

 喧嘩もほとんどなく、俺はただただ幸せな日々を過ごしていた。


 そう。

 春までは。


 ある時から、彼女の態度がどことなくおかしいことに気がついた。

 なんというか、いつも何かを気にしていて気もそぞろ。


 週末の夜に食事に誘うと、受けてはくれるものの乗り気でない様子だったり。

 俺は当然不安になり、問い詰めた。


 もしかして、他に好きな人が出来たんじゃないか。

 そんな最悪な想像を抱いて。


「正直に言ってくれ。俺と会うのは、嫌なのか?」

「まさか!」


 すぐに否定した彼女。

 でも言葉は続く事なく、腹の前で組んだ自分の指先を見つめていた。


「じゃあ、もう好きじゃなくなった?」

「違うって!」

「なら、どうして?」

「それは……」


 そして、判明した事実。


 彼女はプロ野球のシーズンが始まると、週に一度は必ず野球場へ駆け付けるほどの、それはそれは熱い、ベイスターズファンだった。


「え、じゃあ……」

「ごめんなさい。ナイターが気になっちゃって……」

「……」


 がっくし。

 俺はその場に崩れ落ちた。


「なんだ」


 おろおろする彼女に、湧き上がる笑いを堪えることなくそう呟いた。


 なんだ。

 野球が好きで、その試合が気になってたとか。

 可愛すぎか。


 俺はげらげら笑いながら、彼女を抱きしめた。


「じゃあ、今度から横浜スタジアムでナイターのある週末は野球観に行こう」

「えっ!」

「行きたいんだろ?」

「うん、でも……」


 凄く瞳を輝かせて、それでも申し訳なさそうな表情の彼女。

 俺はダメ押しとばかりににやりと笑ってやった。


「チケットは任せるから、よろしく」

「!」


 生のスポーツ観戦とかほとんどした事ないし、野球はルールさえうろ覚えだ。

 だから、彼女にそう言ったのだが。


「うん!任せておいて!」


 効果てきめんだったようだ。

 今まで見たこともないようないい顔で、俺に抱きついた。


「ありがとう」


 見上げてくる顔は、最高の笑顔。

 俺はどういたしましてと返しながら、抱きしめ返してキスをした。




 あれから、五年。

 俺達は今週末も横浜スタジアムにいた。


 あの頃の、俺にドン引きされるのが怖くて言えなかった姿は、もうどこにも無い。

 今では一切隠すこともなく、また、俺も巻き込んで熱い夏を過ごすのが通例となっていた。


 声を張り上げて応援する彼女の背中で、背番号の2が揺れる。


 ここまで一点ビハインド。

 もうすぐ七回裏が始まるところだった。


 俺は少し前から準備して膨らましておいた風船を彼女に渡す。

 観客が一体となって“熱き星たちよ”を歌い、ジェット風船を飛ばした。


 最初はしんどかったこの風船の空気入れも、今では手慣れたものだ。

 俺の肺活量はこの五年で相当増えたと確信している。


 空を舞うたくさんの風船を嬉しそうに見上げる彼女を見るだけで、俺も満たされた。


 さあ。

 あとは、頼んだぞ。

 今夜もどうか、勝ってくれよ。


 俺は彼女の隣に立って、声援を送る。

 本当は別にベイスターズファンじゃないけど、心から勝利を願って応援した。


 しかし、願い虚しく七回も八回も点は入らなかった。

 むしろ、八回の表に追加点を許し一対三で負けていた。


 そしてやってきた、九回の裏。

 彼女はもう、俺を見ない。


 ランナーを二人おいて打席に立つのは、背番号2を背負う主砲だ。

 同じ番号を背負う彼女の背中から、緊張が伝わってくる。


 俺も手に汗を握りながら、バッターボックスを見つめていた。


 頼む!

 打ってくれ!


 祈るように声援を送っていると、


「「あっ!!」」


 打った!大きい!


 よし!

 伸びろ!


 行け!

 行け!行け!


 入れ!


「入れー!!」


 彼女が叫ぶのと同時に、すっと右中間の客席に吸い込まれる打球。


 は、入った!


「うわーーーーー!!」

「おおーし!!」


 大歓声に包まれながら、打者がゆっくりとホームベースへと帰ってくる。

 サヨナラ逆転ホームランで、見事勝利を掴み取ったのだった。


「勝った!やった!勝った!」

「すげー!やったな!」


 テンションの臨界点を突破した彼女が、俺に飛びついた。

 俺はそれを抱き留めて、髪をくしゃっと撫でた。


 頬を染めて嬉しそうに笑う彼女。


 ああ、可愛い。

 本当に、可愛い。


 にこにことご機嫌な彼女の、興奮冷めやらぬ感想を聞く。

 一緒に見ていたにも関わらず、事細かに試合の流れを説明してくれた。


 それを聞く俺も、自然と頬が緩みきっていた。


 そして、勝利した後は恒例の“熱き星たちよ”と“勇者の遺伝子”の大合唱。

 最後に、再びジェット風船を飛ばした。


 スタージェットが空を舞う。

 彼女は夜空を見上げて、それはそれは嬉しそうに笑っていた。


 それを見て俺は思う。

 俺がいつもこんなに熱く応援するのは勝利の為でなく、この笑顔の為なんだよな、と。


 勝てばご機嫌、負ければ不機嫌。

 彼女の機嫌を左右する勝敗に、一喜一憂する。


 もし負けたとしても、しょんぼりと可愛く落ち込むだけだけど。

 それを慰めるのも、中々に約得ではあるのだけど。


 やっぱり、笑ってほしかった。


 俺は横浜スタジアムに通い続ける。

 この可愛い笑顔を、すぐ傍で見たいから。


 要は惚れたほうが負けという事だなと一人納得して、俺達はご機嫌に球場を後にした。


 さあ、明日も頑張りますかね。

 明日はここで、……デイゲームだ。

コロナ禍で中止されていたジェット風船は、今年から再開されました。今は口ではなくポンプで膨らませるそうです。

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