ドロ沼な恋 ─運命を変えたのは横浜中華街─
付き合い始めたばかりの彼女を連れて、横浜中華街にやってきた。
今日は何度目かのデート。
食事に行ったり、映画を見たり、コンサートに行ったりと、毎週末かなり頑張っていた。
今のところ好感度はバッチリな筈だ。
内心でにやりと笑いながら、俺は車を駐車場に停めた。
先に降りて助手席のドアを開ければ、微笑みと共に礼が返ってきた。
なかなかに良い彼女だと思う。
俺はそろそろ結婚を考えていた。
もう三十も半ばになるし、周りは大体家族持ち。
正直、少し焦っていた。
俺も、この歳まで何もしていなかった訳じゃない。
結婚を考えた彼女だっていた。
しかし、その彼女は俺では無く別のやつと結婚した。
俺をふって、親の決めた資産家の息子と一緒になってしまった。
所謂、玉の輿に乗ったのだ。
あの時は流石に俺も荒れたな。
暫くは無関係な周りの人たちにも、ひどい態度をとっていたと思う。
それでも、今こうして立ち直ってまた結婚に前向きになれたのは、きっとこの彼女のおかげだ。
正直、美人ではない。
でも、料理は上手だし、穏やかだし。
小柄で細い身体は、守ってあげたくなるような気分にさせた。
きっと彼女となら、いい家庭を築ける気がする。
俺はそんな核心めいた気持ちでデートを重ねていた。
彼女をエスコートして中華街に入ると、予約していた有名な料理店に入った。
もちろん、個室で円卓だ。
ディナーのコースが出てくれば、彼女は一つ一つ感動してくれて、美味しい美味しいとよく食べた。
そういえば前の彼女は、こういう所よりもこぢんまりした料理店が好きだったな。
そんな事をふと思い出したが、すぐに消しやる。
俺を捨てた女の事なんて、もう思い出したくも無かった。
食事を済ませると、彼女がトイレに立った隙に会計を済ませる。
戻ってきた彼女と外へ出て、のんびり中華街を歩いた。
飲食店からお土産店、絵文字を描いてくれる露店や屋台まで、たくさんの店が軒を連ねている。
彼女は楽しそうに色々な店を覗きながら歩いていった。
やっぱり素直でいい性格だ。
何よりも、明るくてポジティブな所が良い。
俺はそんな風に彼女を見つめながら、はしゃぐその後をついて行った。
「あ」
不意に声を上げて、彼女が立ち止まる。
俺は横に立って顔を覗き込んだ。
「どうした?」
そう声を掛ければ見上げられて、そんな仕草も可愛いなと思った。
「あの、占いをやってみたくて」
「え?」
占いか。
中華街にはたくさんそういった店があった。
正直、俺は信じていないけれど。
まあ、彼女がやりたいならいいか。
そう思い、彼女の視線の先にあった占い店へと入った。
すぐに案内されて、カーテンで仕切られた個室へと誘われる。
彼女に一人で入るか一緒に入るか聞くと、一人で大丈夫だと言うので、俺は店先に置かれたベンチに座って待っていた。
手持ち無沙汰になり、タバコに火をつける。
なんだか、気を張っていたらしく、ふっと肩の力が抜けた。
なんか、疲れたな。
でもこれも結婚の為。
俺は絶対に幸せな家庭を手に入れてみせるんだ。
そう強く思いながら、深く煙草を吸い込んだ。
すると、俺の横でたった今客を見送った一人の占い師が、俺をちらっと見て立ち止まった。
俺はなんだ、と思いながら首を傾げると、
「諦めたの?」
「は?」
「その恋、諦めないほうがいい」
唐突に、訳の分からないことを言われた。
俺はどういう事かと問い詰めるべく立ち上がる。
しかし、受付らしき男に止められた。
「お客さん、あの占い師は順番待ちよ」
「は?」
「彼女に占って貰うなら、2時間待ちね」
俺はちっと、舌打ちして断る。
そしてまた、ベンチに腰を下ろした。
占い師はとっくに奥へと消えていた。
立て看板を見れば、どうやら一番人気の有名な占い師らしかった。
何だったんだ。
さっきのは。
俺が、恋を諦めた?
いつ?
捨てられた覚えなら、あるけどな。
“婚約したの”
“お父さんの勧める人と”
“ごめんなさい”
思い出しただけでイライラした。
俺は、本気だった。
すごく彼女が好きだったし、結婚したいとさえ思っていた。
でも向こうはそうじゃなかったんだ。
俺と付き合いながら婚約を済ませて、俺を捨てるとさっさと結婚して幸せになりやがった。
諦めるも何もない。
もうこの恋はとっくに、終わってるんだよ。
俺は消えた占い師に心の中でそう言った。
嫌な記憶をかき消すように、携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、彼女が戻ってきた。
ぶつぶつ言いながら、何かを考えているようだ。
「どうした?」
俺がと問うと、彼女はぱっと視線を上げて俺を見た。
その目には何か力が籠もっていて、ドキッとする。
「あのね」
「ああ」
「別れて欲しいの」
「……は?」
あまりにも予想外の言葉に間抜けな声が出た。
きっと、口も開いているし目も見開いているから、顔も間抜けに違いない。
「あなたは、運命の相手じゃないって」
「……」
え、まさか。
「占い師に、そう言われた?」
「うん」
「信じたの?」
「うん」
……。
え。
なんで?
俺の視線から疑問を読んで、彼女は申し訳なさそうに話してくれた。
「なんか、一緒にいて疲れるの」
「……」
そうか。
それなら、仕方ないよな。
「わかったよ」
「ごめんね」
「いや」
「今までありがとう」
「こちらこそ」
一応、家まで送るよと、言ったけど、彼女は電車で帰っいった。
やっぱり良い娘だなと実感した。
ひとりで駐車場に戻り車に乗り込むと、ハンドルに頭を付けて項垂れた。
ふられた。
でも、どうしてだろう。
そんなに傷付いてはいなかった。
むしろ、ホッとしたような感覚に自分で戸惑う。
そして、分かってしまった。
俺は彼女に恋してなかった。
結婚したい焦りで、良い男を作っていた。
彼女と本音で話した事は、あっただろうか。
多分ない。
俺は、多分一度も本心を見せていなかった。
そりゃ、疲れるよな。
俺も彼女も。
悪いことしたな。
でも占いの力を借りたにしても、男を見る目のある彼女だ。
きっと次は、いい相手と出会うだろうという予感がした。
問題は、俺だな。
さっき、占い師に言われた言葉が、まだ頭の中を巡っていた。
別の男を選んで結婚したあいつ。
俺はひとり幸せを掴んだ彼女に僻んでいた。
しかし、彼女は今、本当に幸せなのか?
そんな疑問が浮かんでいた。
別れを切りだされたあの時、俺は簡単に諦めた訳じゃない。
情けなくも嫌だとすがりついたのは、黒歴史だ。
でも、駄目だった。
彼女はただ泣いて、ごめんなさいと繰り返していた。
諦めるなって?
あの占い師も、簡単に言ってくれる。
俺は未練たらしく残していた元カノの連絡先を表示させる。
……そう。
連絡先、まだ残してあるんだよな。
未練たらたらじゃないか。
暫くスマホの画面を眺めてから、意を決して一言送った。
“元気?”
と。
きっと返事は来ない。
そう、思っていたのに。
返事が来た。
ただ一言。
でも、それだけで充分だった。
“たすけて”
俺はすぐに車のエンジンを掛けて、走り出した。
彼女の家は知っていた。
なぜなら、有名な資産家の元へ嫁いだからだ。
俺は法定速度ぎりぎりで車を飛ばす。
すぐに、山手にあるその豪邸の前に着いた。
目立たないように脇道に車を停めると、スマホを取り出す。
“助けに来た”
何も考えずに、それだけ送った。
すると、すぐに玄関ドアが空き、彼女が走ってきた。
靴も履かずに、裸足のままで。
その異常な様子に、俺は車から降りて駆け寄った。
そして、走ってくる彼女をそのまま抱きとめた。
細い。
たった二、三ヶ月で彼女は痩せ細っていた。
俺は彼女を抱き上げると助手席に乗せる。
そして車を出した。
彼女は何も言わなかった。
でも、その顔や服の隙間からのぞく肌を見れば、暴力を受けた跡があった。
俺は怒りに狂いそうになるのを必死に堪えながら、車を走らせる。
安全運転で、もときた道を戻っていった。
そして、連れてきたのは、中華街の外れ。
以前にふたりでよく来た、刀削麺の店だった。
「美味しい……」
彼女は笑いながら、泣いていた。
美味しい。ありがとう。ごめんを繰り返しながら、ぽろぽろと涙を零していた。
俺はそんな彼女を、ただ見つめる。
そして、決めていた。
俺はもう引かない。
決して幸せなんかじゃなかった彼女を、今度こそ幸せにする為に。
たとえ、歩む先が茨の道だとしても、もう諦めないと決めたのだった。
中華街の占いは、待ってでも人気の占い師に占って貰うべし。