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女の戦い ─決戦は赤レンガ倉庫─

 九月最後の金曜日。

 俺は、朝からウキウキワクワクが止まらない。


 身支度をしながら、鼻歌を歌って。

 簡単な朝食を摂ったら、いつもより早めに家を出た。


 会社に着くと、普段は女子社員がやってくれているコーヒーメーカーをセットして、他の者が出社する前からひとり仕事を始めた。


 機嫌が良いのは週末だからって訳じゃない。

 今日は毎年楽しみにしているイベントがあった。


 赤レンガ倉庫で開催されるオクトーバーフェスト。

 今日から二週間に渡り開催される、毎年恒例のイベントだった。


 本場ミュンヘンの酒造から届くものをはじめとする、多種多様なビールを楽しめるそのイベント。

 ビール好きの俺にはたまらなかった。


 しかも、そこではソーセージやドイツ料理も提供される。

 最高の取り合わせのつまみに舌鼓を打ちながら、たくさんのビールを飲み比べて好みのものを探すのが、毎年の楽しみだった。


「おはようございます」

「おはよう」

「課長早いですね」

「まあね」


 ぼちぼち社員が出社してくると、オフィスは賑やかになった。

 空席だった席がどんどん埋まっていく。


 なのに、四台の机から成る俺の島だけは、まだ俺しか居なかった。

 そして、始業時間のギリギリになって、やっと俺の部下が出勤してきた。


「おはようございまーす」

「あ、課長もう来てる」

「おはようございます、課長」


 少し呆れながら挨拶を返した。


 今年入った新入社員は、三人とも女性だった。

 普通なら別々の部署に配属されると思うのだが、なぜか全員俺が面倒見る事になった。


 まあ別に男だろうが女だろうが、仕事さえしてくれればそれで良い。

 そう思っていたので、特に気にせずにいたのだが。


 今、俺は狙われていた。


 なんというか。

 モテ期?が到来していた。


「課長帰りに飲みに行きませんか?」

「あっ、ずるい!」

「私もご一緒します」


 仕事中にも関わらず、そんなことを言い出す。

 他の部署からの冷めた視線が痛かった。


「仕事中だぞ」


 そう嗜めれば、はーいと声を揃えて返事をしたが、反省した様子はなかった。


 もうすぐ昼休みという時間になると、またしても同じ誘いを受けて、俺はげんなりした。

 あと数分も待てないのかと、本当に呆れる。


 午前指定の荷物をぎりぎりで持ってきてくれた配送業者から荷物を受け取りながら、俺はきっぱりと断った。

 良かった、この書類午後一で必要だったんだよ。


「いい加減にしろ。今日は無理」


 すると、


「えー!」

「どうしてですか?」

「ま、まさか、誰かとデート?」


 全くいい度胸している。


 俺の事もきっと誰が落とすかというゲームだろうに、三人揃って押しが強すぎだ。

 俺なんて良くて中の上の、ありふれた物件だと思うのだが。


 つれない態度を取っているのがいけないのか?

 それが逆に火をつけてしまっているとか。


 面倒臭くなってきた俺は、無意識にさらっと答えていた。


「違う。今日は毎年楽しみにしてるイベントなの」


 ぽんと受領印を押して、配送業者にご苦労さまと声をかける。


 そして部下を振り返れば、己の失言に気が付いた。


「それってオクトーバーフェストですか?」

「今日からですもんね!」

「行きましょう行きましょう」


 ついぺらっと言ってしまったのが失敗だった。


 俺は至福のお一人様ビールタイムを、彼女たちに奪われる事になった。




 新高島の職場を定時に出て、赤レンガ倉庫に着くと、もう既に凄い人で賑わっていた。

 イベントも初日だというのに、やっぱり人気なんだなとしみじみ感じた。


 俺は四人座れる席を探し、歩き回る。

 ああ、一人だったらこんな苦労もなかったのに。


 後ろできゃいきゃい騒ぐ三人が恨めしい。

 ひとりでのんびり楽しむつもりが、こんな事になってがっかりだった。


 これも、気のない部下に対しても無下に出来ないお人好しな自分のせいなのか。


 仕事とプライベートでしっかり割り切って、冷たくしてみるか?

 それも今更だよな。

 最初からそうしておけばよかったと、つくづく後悔した。


 何とか席を見つけて座り、歩きながら買っておいたビールを一口飲んだ。


「うん、うまいな」


 俺は取り敢えずという気持ちで買ったその一杯目にも満足して頷いた。

 すると三人の内の一人が、上目遣いに俺を見てきた。


「課長の美味しそうですね」

「ああ、うまいぞ」

「一口頂いても良いですか?」

「は?」


 何言ってるんだ?

 自分も選んで買ったビールを飲んでいるくせに、俺のビールをよこせとな?


「嫌だ。欲しけりゃ自分で買ってこい」

「えー」


 俺は取りつくしまもなく、断った。


 あほか。

 合コンじゃないんだぞ。


 こんな所で男を落とす技を繰り出してくるとは、本当に恐ろしい。


 すると、残りの二人の内の一人がくすりと笑って、俺にプラスチックのトレイを差し出してきた。


「課長、このソーセージ美味しいですよ」


 見てみれば確かに美味しそうだ。

 皮がぱりっと張っていて、しっかりと肉が詰められたそれは魅力的だった。


「美味そうだな」


 とりあえずそのまま返してみると、


「はい、どうぞ」

「……」


 箸でつまんで差し出される一口大のソーセージ。

 あーん、しろってか。


「いらん」


 そんな事されたら食う気も萎える。

 俺はソーセージから視線を外すと、自分のビールを口に運んだ。


 全く、何を考えてるんだ、こいつら。

 どうしてそうまでして俺との距離を詰めようとしてくるんだ。


 呆れた視線を送っていると、最後の一人が俺の腕にもたれかかってきた。


「課長、私ちょっと酔っちゃったみたいです」


 そいつのグラスを見れば一口程度しか飲んでいない。


 俺は知ってるぞ。

 春の新入社員歓迎会でザル自慢していたのを。


「帰れ」


 冷静にそう返せばぶーと唇を尖らせる。

 そんな顔をしても、悪いが全く響かない。


 俺はビールの味も堪能できずに、それらの攻撃をかわしていた。


 少しイライラし始めたこともあり、ピッチが上がっていく。

 本当なら大事に味わって楽しむそれも、部下たちを相手にしていれば、あっと言う間に飲み干してしまった。


「ビールが切れた……」


 俺は残念に思いながら、空のグラスを見つめる。


 次を買ってくるか。

 そう思い席を立とうとすると、


「私買ってきます!」

「いえ、私が!」

「私が!」


 お。

 これは。


 いい事を思いついて、俺は財布を取り出した。


「あー、じゃあ美味いビールを頼むよ。お釣りは好きなの買ってきていいから」


 そう言って一万円札を出して、テーブルに置いた。

 三人はすぐに買ってきますと言ってお札を奪い合いながら、俺の好みを推測して買い出しに出かけていった。


 ふふふ。

 計算通り。


 大金をはたいた甲斐もあり、きっと暫くは帰ってこないだろう。


「ああ、やっと静かになった……」


 俺はようやく訪れたお一人様タイムに笑みを浮かべた。


 このままとんずらしてしまおうか。と思う。

 しかし、それはさすがにあんまりかと思い直した。


 きっと彼女たちは、指示どおり色々買ってきてくれるだろうしな。


 本当は、この待望のお一人様時間に楽しむビールを買いに行きたいところだが。

 席をとっておかなくてはいけない為、買いにもいけなかった。

 俺は折角作った逃げるチャンスを棒に振って、ビール無しで雰囲気だけを味わっていた。


 俺も大概人がいいよな。


 秋になったとはいえ、まだまだ暑い。

 美味そうにビールを飲んでいる人々をぼんやりと眺めていた。


 すると、


「お疲れ様です」


 すっと、目の前にビールが差し出された。


「え?」


 視線を上げてみれば、そこにいたのは知らない女性。

 でも紛れもなく俺の前にビールを置いて、にっこりと微笑んだ。


 誰だ?

 逆ナンパ?

 そんな感じは、しないけど。


 でもよく見れば、どこかで見た事があるような気がした。

 俺が訝しげに首を傾げると、彼女はふふと笑う。


 その仕草に、ドキッとした。


 健康的な肌の色も。

 染めていない髪も。

 短く切られたありのままの爪も。


 俺は全てに好感を持った。


 何より、この笑顔がいい。

 まるで、イタズラが成功した子どものような表情。


 でも、ちらりと見えた白い歯と、口もとのほくろが魅力的だった。


 俺は声を掛けようと、口を開きかける。

 しかし、彼女はそれを待たずにそのまま去っていった。


 俺は呆然と彼女の消えた先を見ていた。


 残されたのは、彼女が持ってきたビール。

 美味そうに汗をかいたグラスが、俺を誘っていた。


 誘惑に負けた俺は、それを手に取り一口飲んだ。


「……うまい」


 それはその日飲んだ中で、一番俺の好みの味だった。




 翌日、まだ誰も出社しない中、また一人で仕事に取り掛かる。


 あの後、部下が大量に買い込んできたビールと食べ物を食べて、さっさと解散した。


 なんせ、イベントは始まったばかり。

 だから当然、今日もある。


 今日こそは邪魔されることなく楽しむぞ。

 そんな気合の元、土曜日の朝のだるさを打ち消した。


 それに、今日はビールだけじゃない。

 ビール目当てに暫く通うつもりでいたが、新たにもう一つ目的が出来ていた。


 俺は仕事をしながら、あの女性を思い出す。

 健康的な印象の、美人だった。


 また、会いたい。

 なんて、思っていた。


「お荷物の受け取りお願いします」

「あ、はい」


 いつもよりも少し早めの時間に、いつもの宅配業者が来た。

 オフィスには出社したての者がまだ数人しかいない為、俺が応対する。


 土曜はみんなやや遅めに出てくるのが、当たり前のようになっていた。


 うちの社員よりも早いぞ。

 全く、見習えよ。


「ご苦労さまです」


 いつものように、労いの声を掛けて受取印を押した。


「ありがとうございます」


 ふと。

 俺の中で何かが引っかかった。


 ん?

 この声。


 俺は、帽子のつばの向こうをちらっと確認する。

 口もとの小さなほくろが目に留まった。


 そのまま引き寄せられるようにその顔を見ようと見つめていれば、すっと見上げられて目が合った。


 あ。

 昨日の彼女が、微笑んでいた。


「……ありがとう」


 サインした伝票を返しながら、それとなく昨日のお礼を言った。

 伝わったかは、分からない。


「いえ」


 彼女は俺好みの笑顔で伝票を受け取った。


 ああ、やっぱり美人だな。


「また、」


 会えるかな、と言いそうになって、慌てて止めた。

 ほんの僅かの間にも、会社には社員が結構来ていた。


 ああくそ。

 せっかく会えたのに、私的に声をかけることは憚られた。


 俺が葛藤していると、


「では、また」


 彼女はぺこりと頭を下げると、いつも通りきびきびした動きで行ってしまった。

 俺はそれを呆然と見送る。


 そして、姿が見えなくなってから、口元を緩めた。


 また、ね。


 今日も俺はオクトーバーフェストに行く。

 大好きなビールを楽しむのと、気になる彼女に会うために。

赤レンガ倉庫の大人気イベント。

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