映画館 ─想い出の馬車道─
随分久し振りに、横浜へやって来た。
妻を乗せた車椅子を押しての、なかなかの遠出だ。
みなとみらい線の馬車道駅で降りて地上に上がり、街並みを見回せば、懐かしさよりも新鮮さの方が勝っていた。
それでも私は、妻に楽しみだねと話し掛けながら、目当ての場所を目指して歩き出した。
今日は五十回目の結婚記念日。
昔、妻とよく通った思い出の映画館で、また映画を見ようとやって来た。
最後に来たのは引っ越してしまう前だから、もう三十年以上も前になる。
今朝、普段よりも妻の調子が良かったので、その場の思いつきでやって来たのだった。
その為、今どんな映画をやっているのかも、具体的な場所の再確認もしていない。
それでも、過去に長く住んだこの土地。
行けばなんとかなるという軽い気持ちで行動に移した。
それは、普段の私からしたらかなり珍しいだろう。
何をするにも、どこへ行くにも、大抵下調べはしっかりするし、準備も念入りにする方だからだ。
妻が脳梗塞で倒れ、言葉と記憶の多くを失ってしまってからというもの、ずっと気を張っていた。
いつ何時、容態が悪くなるのか。
自分に何かあった時妻はどうなるのか。
そういった不安と常に共にあったため、今朝調子の良さそうな妻を見て、変なやる気が出てしまったのだと思う。
自己分析してみてもらしくないと思うが、たまにはこういうのも悪くないだろうと開き直っていた。
勘を頼りに歩いてみると、見覚えのない建物も多いが、大まかな雰囲気や印象はあまり変わっていない。
これなら迷う事なく行けそうだった。
「もう少しで着くよ」
妻にそう声を掛けながら、馬車道を歩いた。
しかし、確かここだったという場所に着いたものの、目的の映画館は見当たらない。
思い出の映画館は、既に無くなっていた。
そこにあったのは、全く別の建物。
小綺麗なホテルだった。
私はそこに呆然と立ち尽くす。
そうか、もう閉館してしまっていたのか。
酷く切ない気持ちに苛まれながら、そのホテルを見上げていた。
出かける前にちゃんと調べるべきだった。
こんなに遠くまで連れてきて、目的の場所はもう無いなんて。
いくら調子が良さそうと言っても、いつ急変するかも分からない。
そんな妻を、意味もなくこんな遠くに連れてきてしまって、私はとても後悔した。
反応のない妻に、申し訳ない気持ちで誤った。
妻は許しも責めもせずに、ホテルを見つめていた。
その映画館は、その場でスマホで調べてみれば、もう二十年近く前に無くなってしまっていた。
その頃の自分を思い出せば、仕事が忙しく妻と出かけることもほとんど無かった。
まだある内に連れて来てあげればよかったと、さっきよりも深く後悔した。
仕方無しに来た道を戻ろうとすると、そこに置かれた立て看板に足を止めた。
どうやらこのホテルの地下に、フォトスタジオがあるようだ。
「行ってみるかい」
映画館はもう無いけれど、何となくこのまま帰るのも勿体ない気がして、妻に声をかけるとエレベーターを降りた。
ドアが開き降りてみると、そこには数々の家族写真が飾られていて、目を奪われた。
七五三、入学式、卒業式、誕生日、結婚式、等々。
様々な人生の瞬間が収められた写真が展示されていた。
「こんにちは」
そんな写真たちを眺めていると、スタッフと思しき女性に声を掛けられた。
私も挨拶を返し、営業の邪魔になるのを避ける為に立ち去ろうとすると。
「よろしかったら、一枚いかがですか?」
「え?」
思いもよらない言葉に、私は立ち止まっていた。
「このスタジオ今日オープンなんです。キャンペーンをやっていますので、良かったらぜひ一枚撮らせて下さい」
どうやら開店直後の為、まだ予約もそんなにないらしい。
今は他に客はいなかった。
少しだけ話を聞いてみると、料金もかなり良心的だった。
何より押し付けがましい感じもないし、展示してある写真もどれも良いと思っていた。
私は何となく興味を惹かれて、頷いていた。
「じゃあ、一枚お願いしようかな」
「はい。ありがとうございます」
女性は穏やかに微笑むと、中へと案内してくれた。
写真館で写真なんて、それこそいつぶりだろうか。
服もレンタルできるということだったので、それなら折角だしと、借りる事にした。
衣装の並ぶクロークに車椅子を押していく。
色とりどりのドレスや着物が、ところ狭しとハンガーパイプに掛けられていた。
数ある衣装の前をゆっくりと通り過ぎ、妻がどれかに興味を示すのを待った。
確か妻は、黄色が好きだった。
そう思い黄色いドレスの前で止まってみる。
しかし、反応はない。
じゃあ花だ。
妻は花が好きだった。
花柄のドレスの前に止まってみても、特に反応はなかった。
じゃあ着物か?
今では独立した息子の卒業式やら結婚式やらでは、だいたい和装だった。
しかし、やっぱり反応はない。
私は何が良いのか分からなくなり、女性に助けを求めた。
「あの、」
「はい」
「妻に似合うものを選んで頂けませんか?」
女性は少しだけ驚いた顔をした後、笑顔で頷いてくれた。
「畏まりました。何着か見繕って参りますので、少々お待ちくださいませ」
「すみません」
出してもらったお茶を飲みながら、椅子に座って待っていると、女性がドレスを二着選んで持ってきてくれた。
一着は緑色の少しタイトな形のもの。
もう一着は、白い生地に刺繍が施されたものだった。
さすがだ。
これはどちらも、妻によく似合う。
私は感心しながら、それぞれのドレスを妻に見せた。
「どうだい?着てみたいものはあるかな?」
そう声を掛けると、一着のドレスの前で、視線が動いた。
妻は、白いドレスを真っ直ぐに見つめていた。
「これが気に入ったかい?」
そう聞きながら、白いドレスを妻の膝に載せてやる。
すると、あまり表情を変えることのない妻が、微かに笑った気がした。
「これにします」
「はい。畏まりました」
女性は嬉しそうに白いドレスを受け取ると、妻の着替えを手伝ってくれた。
珍しく嫌がることなくおとなしく着てくれたので、私はほっと息を吐いた。
そして、自分もタキシードを選んで着替えると、女性の案内でスタジオに入った。
そこには若い男性のカメラマンがいて、私と妻を笑顔で迎えてくれた。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
簡単な挨拶をして、指示通りの場所へ立つ。
妻には車いすが目立たないようにと、綺麗なストールを掛けてくれた。
緊張を解くような、軽快な指示と賛辞を受けつつ、次々にシャッターが切られていく。
初めは自分でもわかる程固かった顔も、少しずつ自然な笑顔になっていった。
車椅子に座る妻の隣に立って。
二人で同じソファに腰掛けて。
それから、花びらを撒いた床にそのまま腰をおろして、など。
色々なポーズやシチュエーションで撮ってくれた。
全然慣れていないにも関わらず自然に笑えたのは、単にカメラマンと女性スタッフのおかげだ。
私たちはこの記念写真をとても楽しむことができたのだった。
本当は、思い出の映画館で映画を見るはずだった。
しかし、それは叶わなかった。
でも観れなかった映画の代わりに、記念写真を撮った。
夫婦二人で、五十年の記念に。
それは、きっと、一生の思い出になるだろうと、私は思っていた。
数日後。
買い物から帰ると、妻は椅子に座ったままうたた寝をしていた。
私は膝掛けを掛けようと、そっと近づく。
柔らかな布地を広げたことろで、手に何かを持っていることに気がついた。
よく見るとそれは、あの時の記念写真。
妻の手にあったのは、まるで映画のワンシーンの様な写真だった。
妻は眠る。
幸せそうな表情を浮かべて。
大切な写真を、その手に持って。
実は少しだけ実話です。(ダジャレではありません)