結婚 ─プロポーズは大さん橋で─
「ただいまー」
気の抜けた声が聞こえるのと同時にドアの閉まる音がして、彼が帰ってきた。
私は夕食の支度を中断して、玄関まで出迎えに行く。
「おかえり」
そう声を掛ければ、疲れた顔を笑顔に変えてくれるから、私も笑顔で鞄を受け取った。
彼と同棲を初めて半年。
こんな生活にも慣れてきた。
別々の会社に勤める社会人同士の付き合いは、何かと不便な事もあるけれど。
なんだか新婚さんみたいだと浮かれてるのは、私だけの秘密だ。
他愛ない話をしながらリビングに入ると、彼はどさりとソファに座り込みネクタイを外す。
私は対面キッチンに戻り、夕食の支度を再開しながら相槌を打っていた。
「そうそう、車でFM横浜聴いてたら、明日豪華客船が来るんだって」
営業職の彼は、仕事で車を使う。
その時にはよくラジオを聴いていて、耳寄りな情報があるとこうして教えてくれた。
「そうなんだ。何が来るの?」
「ダイヤモンドプリンセス」
「へえ」
何度か見たことのあるその船は、よく横浜に寄港する豪華客船だ。
イギリス船籍の客船だけど、日本で造られた船体は、白くて大きくてとても綺麗だった。
以前、豪華客船で世界を旅したいな、と彼に話したことがある。
それは、いつか実現したい私の夢で、それを覚えていてくれて、こえして教えてくれる事が嬉しかった。
「見に行く?」
「うん、行きたいな」
「よし」
しかも、一週間働いて休みたいはずの土曜日なのに誘ってくれる。
そういう所が、本当に好きだと思った。
ふたりで食事を摂りながら、私は明日は何を着て行こうかななんて楽しみにしていた。
翌日。
午前中の内に掃除やアイロン掛けを済ませて、昼前に家を出た。
車で行こうか電車で行こうか悩んだけど、お散歩がてら電車で行くことにして、京浜東北線に乗った。
そして関内駅で降りて、海の方へとのんびり歩き出した。
「風が気持ちいいね」
「うん」
日差しは強いけどそれ程暑くなく、よく晴れた空が広がっている。
夏の始めの爽やかな風が、肌に気持ちよかった。
大さん橋が見えてくると、すぐにダイヤモンドプリンセスも見えた。
青空の下の白い船体が、とても美しかった。
港町らしい雰囲気のお店や、停泊する小舟を眺めながらどんどん近づいていくと、客船から観光に降りる人たちとすれ違った。
乗客は日本人が多いけれど、他の国の人も結構いて、なんだかテンションが上がる。
大さん橋についてウッドデッキを進むと、その大きな船体を横から見上げた。
船室のデッキでは乗客のカップルが椅子に寛ぎ、横浜の街並みをのんびりと眺めたりしていた。
ハネムーンかな。
素敵。
金髪の異国のカップルをうっとりと見ていると、不意に手を振られた。
私はついガン見していたことに焦りながら、手を振り返す。
そんなささやかな交流も、楽しかった。
暫く客船を眺めてから、大さん橋の中に移動した。
お昼の時間はだいぶ過ぎていたけれど、昼食をまだ摂っていない。
レストランに入って食事にする事にした。
ちょうどランチの時間帯を過ぎていたからか、窓際の海のよく見える席が空いていた。
私たちはそこに座り、それぞれ好みのメニューを注文した。
その窓ガラスの外にも白い船がいた。
この船もよく知っている。
東京湾最大のレストラン船。
ロイヤルウィングが停泊していた。
こちらには以前にデートで乗ったことがある。
その時はディナークルーズだったけれど、今日は違った。
船上で、結婚式が執り行われていた。
船上挙式かあ。
いいな。
料理が来るまでの時間を、彼と話をしつつ、ちらちら外を見て過ごした。
ちょうど料理が来て食べ始めた頃、船が汽笛を鳴らした。
どうやら出航するみたい。
たまたま居合わせた人や大さん橋のスタッフなど、たくさんの人に手を振られ見送られている。
眩しい笑顔を振りまいた新婦が、幸せそうに手を振っていた。
そしてゆっくりと沖へと前進し、見えなくなった。
「食べないの?」
くすりと笑い混じりに掛けられた声に、はっと我に返る。
いつしか私の食事の手が止まっていた。
「食べる」
私は誤魔化すように、慌てて食事を再開した。
食事が済むとレストランを出て、何件か並ぶショップをふらふらと見て回る。
品数はそんなに多くはないものの、珍しいものやこだわりのものが多く、時間はあっという間に過ぎていった。
私は廃棄された海図を再利用したレターセットが気に入り、自分へのお土産に購入した。
買い物にも満足するとまた屋上デッキに上がり、“くじらの背中”を歩いた。
ウッドデッキと芝生が、目にも足にも気持ちいい。
独特のこの足音も好きだった。
海の良く見える奥の方へ行くと、たくさんのカラフルな南京錠が金網に付けてあった。
そこには看板があり、ハートロックスポットと書かれている。
南京錠には、願い事や相合傘が書かれていて、それらひとつひとつに大切な気持ちがこもっているのがわかった。
パステルカラーのそれらがとっても可愛くて、自然と顔が綻んだ。
シャッター音がして後ろを振り返ると、またウェディングドレスの女性がいた。
でも今回はタキシードを着た相手の男性と、カメラマン、それに女性のスタッフっぽい人がひとりしかいない。
どうやら結婚式の前撮り写真を撮っているようだった。
間もなく夕暮れ時になるこの時間。
一番色鮮やかで綺麗なこの瞬間に、とても幸せそうな笑顔が眩しかった。
カメラマンの指示か、抱き上げたり、額を付けたり、手を繋いだり。
時折恥ずかしそうにしながらも、楽しそうに撮影をしている。
素敵。
私は思わず見惚れていた。
すると、突然するりと指が絡められて、慌てて彼を振り返った。
その顔を見上げれば、彼は可笑しそうに笑っていて、私は途端に恥ずかしくなって、俯いた。
「羨ましい?」
「……そりゃ」
顔に熱が溜まる。
よっぽど物欲しそうに見てたのかな。
だって、とっても素敵だったんだもの。
そりゃ魅入ってしまうでしょ。
羨ましいかなんて、そんなの。
羨ましいに決まってた。
ふと思った。
今度、ひとりで来ようかな、って。
南京錠に、願いを書いて付けるの。
彼には恥ずかしくて見せられないから、ひとりで。
あなたのお嫁さんになりたい、なんて。
絶対に言えないから。
傾いた太陽が、辺りに少しずつ色を付けていく。
だんだんと観覧車のライトが鮮やかに光り出した。
やっぱり、この時間が一番綺麗。
繋いだ手をきゅっとしっかり繋ぎ直して、夕日に染まる景色を眺めていた。
すると、不意に名前を呼ばれて。
再び視線を向けてみれば、真剣な彼の顔があった。
「さっき」
「え?」
「俺も羨ましかった」
どくん。
と、私の鼓動がひとつの予感に高鳴って、そして早まっていく。
きっと次の言葉は、私の一番欲しいものだって、もうわかってた。
「結婚しよう」
「うんっ」
気付けば私は、彼に飛びついていた。
きらきら光りながら回る観覧車。
遠く、近く、過ぎゆく様々な船たち。
夜の色彩へと姿を変えていく、建築物。
それらの前で。
私たちは永遠を約束した。
もう他の花嫁さんを羨ましく思うことは、たぶんない。
だって、次の花嫁は私だから。
現在は管理会社が代わった為、大さん橋のハートロックスポットはなくなっています。
ロイヤルウィングは去年より運行休止中です。