伝わらない愛 ─願い事は伊勢山皇大神宮で─
夕食も済み、いつもはお風呂も入って寛いでいる深夜十一時三十分。
普段ならそろそろ寝ようかなと部屋へ行く時間帯だったけれど、私は今玄関で靴を履いていた。
別に夜遊びに行くわけじゃない。
隣では既に靴を履き終えた両親が、ブーツに脚を入れる私を待っていた。
今日は大晦日。
もうあと三十分ほどで年が明ける。
今年も、何事もなく終わろうとしていた。
ガチャッと音を立てて、パパが玄関ドアを開けた。
途端に外の冷たい冷気が流れ込んできて、コートを着ていたけどぶるっと震えがきた。
それでも気を削がれることなく外に出れば、そこはもっと寒い。
普通なら出掛けるのも躊躇ってしまうくらいの寒さだったけど、どこかそわそわした気持ちになるのは、これから初詣に行くからだ。
パパとママが話しながら先を歩く。
私はそのすぐ後ろを、マフラーを巻き直しながらついて行った。
空気が冷たいから口元や耳までふんわりと包みこめば、だいぶ暖かくなった。
それにほっと力を抜いて、やって来たエレベーターに乗り込んだ。
うちは七階建てのマンションの六階。
パパが一階のボタンを押してドアを閉めると、エレベーターは静かに下降した。
しかし、降り始めたと思ったらすぐに止まり、私は鼓動が高鳴るのを感じた。
止まったのは、五階。
ドアが開く前に奥に詰めた両親の影で、誰が乗ってきたのかは見えなかった。
それでも、私は気配と予感ですぐにわかった。
「おっ、こんばんは」
「どうもどうも、こんばんは」
パパ同士のそんな挨拶と。
「あらお久し振りですね」
「今年も一緒になりましたね」
ママ同士の会話。
そして、
「……」
「……」
目も合わさない私たち。
よく知った間柄であるにも関わらず、まるでたまたま乗り合わせた他人のように振る舞う。
でも、狭いかごに六人も乗っていればぎゅうぎゅうで、必然的に肩がぶつかった。
「あ、ごめん」
「いや」
挨拶もなく、たったそれだけの会話。
それを聞いてか、エレベーターを降りたところで、パパが苦笑混じりに声をかけた。
「まったく、挨拶くらいしなさい」
「おまえもだぞ」
私がちらっと隣を見ると、隣からも視線が降りてきた。
「「……こんばんは」」
挨拶完了。
パパたちはやれやれと肩を揺らすと、そのままエントランスへと歩いていった。
「昔はいつも一緒に遊んでたのになぁ」
「ほんとに。この子達、お風呂もお昼寝も一緒だったのに」
「そうそう。よくお互いの家にお泊りしたのが懐かしいわね」
「最近じゃあ、俺達と買い物すら行ってくれないよ」
「まぁ、男の子はそんなものかもな」
「うちだってパパとはもう出かけてくれないじゃない」
「でも、ママは買い物行ってるよな」
「洋服とかだけだけどね」
「ぐすん。……ずるい」
「やっぱり女の子はいいわねぇ。一緒にお買い物とか羨ましいわ」
「結局服を買わされるだけよ?」
「でも楽しそう」
「……パパだって買ってやるのになぁ」
「あはは。昔はパパと結婚するって言ってなかったっけ?」
「今ではありえない台詞よね」
「うふふ。中二なんてそんなものよ」
「そうかもなぁ」
「……ぐすん」
両親ズのとめどない会話が続く。
話題にされた私はマフラーの中でため息を吐きつつ、その数歩後ろを歩いていた。
少し間を空けた隣を歩くそいつに、こっそり視線を向けてみる。
ニット帽を深く被りダウンコートに首をすぼめているものの、また背が伸びたなとぼんやり思った。
昔は一番の仲良しでいつも一緒に遊んでいたけど、いつからかな、会話もあまりしなくなったのは。
あの頃を思い出して少し寂しくなった。
小学校低学年までは、ずっと一緒だった。
同じマンションに住んでいて、学年も一緒。
それ以前にお互い両親が共働きで保育園も同じだったし、学童も一緒だった。
でも小学校の学年が上がるにつれて、クラス替えがあったり、同性の友達がそれぞれできたりして段々と疎遠になった。
中学に進学してそれは顕著になり、お互いに卓球部と吹奏楽部に入部してからは、顔を合わせる事すらほとんどなくなっていた。
それでも、この大晦日の夜だけは、毎年一緒に過ごした。
それは年越しに初詣に行くのが、お互いの家の習慣だったから。
別に待ち合わせをしたり約束をしている訳ではないけれど、年越しを狙うのでいつも一緒になる。
なんとなく合流して、一緒に歩いて伊勢山皇大神宮に行き、参拝の列に並び、ニ家族揃ってお参りした。
これは記憶のある限りずっと続いている、毎年欠かすことのない大切なイベントだった。
マンションから神社までは歩いて二十分くらい。
割とどこからでも見えるランドマークタワーを眺めながら、のんびりと歩いた。
紅葉坂に差し掛かり登り始めたところで、隣から声がかけられた。
「部活どう?」
「楽しいよ。そっちは?」
「きつい」
なんとなくぎこちない。
たぶん久し振りに話しているからだと思うけど、変な緊張感があった。
でも、話し掛けてくれて私は嬉しかった。
「運動部って、大変そう」
「吹奏楽部だって厳しいだろ」
「うーん、でもやっぱり楽しい、かな」
うちの吹奏楽部は割とレベルが高くて、指導も厳しいことで有名だ。
それでも私は、やっぱり楽しいっていう思いが強くて、素直にそう答えていた。
すると。
「そっか」
「!」
ふっ、と柔らかく微笑みを浮かべるから、一瞬息が詰まった。
「ごほっ!」
「どうした?風邪?」
「う、ううん、むせただけ」
お前のせいだ。
とは言えないから、取り敢えずそう答えた。
いきなりその顔は、心臓に悪いから。
ドキドキして顔が熱くなるのを止められないから。
「顔、赤いけど」
「えっ……!」
「やっぱ熱あるんじゃねぇの?」
だから、やめて。
その少し心配そうな顔も、またやばい。
どんどん鼓動は速度を増していった。
「ん、大丈夫」
「そう?」
「寒いから赤くなっちゃうんだよ」
私はマフラーを引っ張って、誤魔化すように顔を隠した。
すると、スポッ、と頭に温もりが与えられて。
私は思わず顔を上げた。
「被ってろ」
目の前には無造作に乱れた髪を揺らす、幼馴染。
頭には、彼の温もりの残るニット帽。
「あ、ありがとう」
私はなんとかお礼を言うと、それを目深に被り直した。
「二人とも!早くー!」
「あ、はーい」
呼ばれて慌てて駆け寄れば、もうそこは伊勢山皇大神宮のすぐ近くで、たくさんの屋台が道路の脇に並んでいた。
その屋台の前をたくさんの人々が歩いていく。
みんな初詣の参拝客だ。
逸れないように両親ズとまとまって先を行くと、参拝の列の最後尾についた。
石段の途中のそこへ並びながら下を見下ろせば、毎年見る大晦日の夜景が広がっていた。
二人のときは少し話せたけど、親がいるとなんだか気恥ずかしくて会話はしなかった。
だから二人してぼーっと、どこか静かに興奮を孕む町並みを眺めて待っていた。
暫くすると年が明け、みんなで明けましておめでとうを言い合った。
これも毎年の事だけど、その年その年で何となく新鮮に感じるのは、新しい年の始まりだからなのかなとふと思った。
もうすぐ順番というところで、お財布からお賽銭を取り出す。
これもいつも決まって同じ、十五円。
私はそれを握りしめて、また隣に視線を向けてみた。
「「!」」
ちらっと見たつもりだったのに、向こうもこっちを見ていて、びっくりした。
お互いに少し驚いた顔をして、なぜか笑ってしまった。
「ふふ。願い事決まった?」
「ああ、決まってる」
さっきよりも自然と言葉を交わせば、もう次の順番でお参りできそうだった。
「何を願うの?」
「ん?」
「部活?受験?」
今年の春が来たら、もう三年生。
そのどっちかかな、と思って聞いてみた。
「お前は?」
でもそれに答えることなく、質問が返ってきて。
逆に私の方が焦ってしまった。
「えっ、私?」
「どっち?」
「私は……」
私の願い事は、いつからか毎年同じになっていた。
それは、部活じゃなくて。
受験でもなくて。
恋愛成就。
“君との関係が、変わりますように”
そう願ってた。
幼馴染のポジションというのは、なかなか変えらるものじゃない。
このぬるま湯のような関係を失うのが怖くて、ずっと踏み出せないでいた。
だから、情けないけど毎年神頼み。
神様お願い、と手を合わせていた。
「私は、……秘密」
少し熱くなった頬を夜風に当てて、そう答える。
すると、それを聞いた君は、少しだけ目を見開いてから、
「じゃあ、俺も」
そう言った。
「お、順番きたぞ」
「行こう」
両親ズに促されてお社の前まで歩み出る。
お賽銭を投げ入れて鈴を鳴らした。
そしてみんなで手を合わせる。
神様どうか叶えてください。
今年こそ。
お参りが終わり目を開ける。
去年も、一昨年も、同じ願い事をした。
でもまだ叶っていない。
ああ。
今年は叶うと、いいな。
そう思いながら、
「「はあ……」」
小さく息を吐き出した。
それは白い塊となって、あっと言う間に夜空に解けていく。
無視意識に漏れたお互いの溜息は、まだ聞こえなかった。
「毎年熱心に何をお願いしてるのかしらね、あの子たち」
「ふふ。本当気になっちゃう」
「よっぽど叶えたい願いがあるんだろ」
「普段は絶対一緒に出掛けないのに、今日は何も言わなくても準備してたしな」
「あら、そちらも?」
「お、そっちも?」
「あらあら」
「なんだかその内、私たちとは別で行っちゃうのかもしれないわねぇ」
「え!なんで!?」
「ふふ」
「そうねぇ、もう既に逸れそうだし」
「え、あ!」
「おーい、置いてくぞー」
「まったく、パパたちは野暮なんだから」
「ふふ。本当に」
「は?」
「え?なんの話?」
「何でもないわ」
「さ、行きましょう」
そんな会話が繰り広げられているとは露知らず、遥か後ろをふたりで歩く。
今年こそは、この気持ちが伝わりますようにと、お互いに願いながら。