大切なものを生きる糧にする燈たち
ミライが、ポツンと立っていた。いつから立っていたのかケンジは気づかなかった。今辿り着いたのか、それともずっと前からそこにいたのか分からない。気がついたら、そこにいた。
灰色の通路に1人寂しそうに、確かにそこにミライがいた。ずぶ濡れのケンジに比べ、ミライはどこも濡れていなさそうだった。悲しそうな顔とでもいうべきか、なんとも言えない表情を浮かべてこちらをじっと見つめている。
―――ミライ…
見知った顔に会えてケンジは安堵、することはなかった。ここまでの出来事はケンジにとって衝撃であった。消えてしまったエナキ達、ザボ爺の死、選抜パーティの壊滅とも受け取れる兵士達の強襲(少なくともケンジはそう受け取っている)。少しだけ救われた心はすぐに目の前の現実によってすぐ無くなった。
ざぁー。雨が降っている。
土砂降りの雨音が宿舎の通路でそこらかしこでこだまする、遠くの方では雷も鳴っていた。雨粒は止むことを知らず、留まることを知らずしてほぼ自動的に空の上から地面へと降り注いでいる。屋上に溜まった雨が雨樋を通って中庭へと流れている。その管の途中でやや破損しかけた箇所から水が漏れ出し、ところどころでケンジ達のいる通路へと流れて、床を濡らしている。
ケンジのいる床は濡れていた。自分が濡れていたのもあるし、ちょうど水の流れ道だった。でも、ケンジは気にしていない。加えて、ミライに会えた、というのに声をかけられないほどケンジは弱り果てていた。
昨日はエナキがいた。ミキジロウがいた。モモカがいた。他の燈もいた。タクマサがいた。マナブがいた。でも、今日は誰もいない。誰とも会うことができない。昨日まであった日常がもう二度と戻ってこないという事実に押しつぶされていた。
ケンジは、ひとりぼっちになっていた。
ミライは、何も言ってこなかった。立ち尽くしたままで、座り込んだままケンジを、どういう気持ちかは想像もつかないが、黙って見下ろしていた。
ざぁー。
そんな状態がしばらく続いた。
やがて、何が引き金となったかは定かではない。エナキ達が消えたことなのか、ザボ爺が死んでしまったことなのか、それともミライの悲しそうな顔を見てなのか。
しかし、何かをきっかけにケンジの気持ちが溢れ出した。大量の水が押し寄せるように、その地面が全ての水を吸収しきれなくなったように、ケンジの心の中で押さえ込んでいたものが一気に漏れだした。
「みんな、いなくなった!!!」
いなくなった、というケンジの声がやけに通路に響き残った。誰も答えてくれるものもいない。ミライは変わらず黙って立っているままだ。涙が頬を伝うのをケンジは感じた。
「エナキも、モモカも、ミキジロウも…タクマサも!ザボ爺も!マナブさんも…みんな!」
「……」
「ダイゴさんと鍛錬積んだのに…なのに…何やってんだよ…俺は!!!」
ケンジはひたすら床を殴り続けた。手は、側からみれば痛々しいが、もう痛みすら感じない。全く感じない。肉が剥がれようとも、骨が砕けようとも、自分の拳であるのにケンジにはどうでもいい。こんなのはいつか治る。でも、あの日常は直らない。
一つ一つ言葉にしていくだけで胸が締め付けられように痛み、涙はケンジの意思とは反して湧き出て流れていく。ケンジの言葉はしゃくり上がる。一度崩壊した想いは止まらず、言葉となって漏れ出す。
「…」
「エナキは…アイツは大切な記憶を守ろうと必死だった。ダイゴさんは選抜パーティを離脱したってずっと選抜パーティのことを思ってた」
「……」
「ミライだって、前の記憶を大切に思って、俺に色々聞いて、自分にあった元の世界の記憶を守ろうとした…。みんな行動して、全力を尽くしてたんだ!失わないように!―――なのに、俺は…!俺は!!俺は!!!」
今度は近くの壁を殴った。壁はヒビすら入ることはなかった。それが自身の無力さをより実感させられた。自身の不甲斐なさにグチャグチャの感情の中からはっきりとした怒りが生まれる。
「俺は、あるものが当たり前だと思ってた!思っただけで、何もやらなかった。 前の記憶とかも、大切にしようとした時もあったけど、ある時から何がしろにした!だから、そんなんだから全部失うんだ…」
「…」
「いなくなることが…失うのがこんな簡単なんだって、一瞬だなんて…思わなかった…!!!失うのがこんな辛いとか思わなかった!!」
「…ケンジ君は頑張ってたよ」
ここでミライが初めて口を開いた。目の前の自分を怖がることも、馬鹿にすることも一切感じない声だった。しかし、ケンジの逆鱗に触れた。ケンジはミライを睨みつけた。
「でも、全部失ったんだ!もう、ない!!」
「ッッっ!!!」
瞬間、ミライの体が震え上がったように見えた。それを見て、ケンジは少し冷静になった。まるで萎れるようにケンジの声は小さくなった。徐々にミライの声を聞こえなくなっていく。
「…頑張っていたって…失ったら意味ないだろっ!」
「そんなこと…」
「何が魔法だよ…何がスキルだよ…何が燈だよ…。何が、『ファンタジー』だよ…。ミライには…まだダイゴさん達がいるかもしれないけど…もう、俺にはエナキもモモカもミキも…何も…何もない…。ないんだ。この世界に何も…」
最後の方は声にも出なかった。
「前の世界に…戻りたい…。もう誰かがいなくなるのは…嫌だ…」
ケンジは初めて前の世界に戻りたいと思った。今まで微塵にも思わなかったのに。
もう、現実を受け入れたくはなかった。何も見たくなかった。顔を上げたくない。前も見たくない。顔を上げて頑張ったとしても、こうして壁にぶち当たる。お金がないと食べるものもない、ならまた剣を握らなくてはならない。仲間…もう、そんなものもない。結局は、いつか全て失う。そんなことから逃げたいと思う。でも逃げられない。そんな運命なら、初めから頑張らなければいいのではないだろうか。
ミライは惨めだと思っているに違いない。雨は止まなかった。
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ケンジの頭の上に温かい何かが触れた、しばらくして。ケンジは顔を上げた。それはミライの手だった。彼女の顔は微かにだが笑っていた。けれど、彼女の瞳も今のケンジと同じように大きな涙の粒が溜まり続けている。
「ケンジ君は、まだ大切にできること残ってる…」
ミライは繰り返した。はっきりと、先ほどより力強い口調で。
「ケンジ君は、まだ大切にできること残っているんだよ」
「そんなことーーー」
ミライは何も分かっていない、とケンジは思った。自分に何が残されているというのだろうか。ケンジは強く否定しようとした。
顔を上げた瞬間、ケンジの視界にミライが飛び込んできた。ミライに抱きしめられた、と気づくにはそれなりの時間がかかった。彼女の、何とも表現し難い匂いがケンジの鼻に焼き付いた。背中に手を回され、鼓動が聞こえそうなほど互いの体は近づいた。
ミライの体はふんわりと柔らかく、そして暖かかった。その暖かさにどこか既視感を覚えたケンジは非常に心地いいものに感じた。その温もりから、ミライは今もこうして生きている、と。そしてやや早くなった鼓動から自分も生きているとケンジは実感した。「聞いて、ケンジ君」というミライの声がすぐ側で聞こえた。
「私にも、大切に思えるものが沢山ある。ティアさん…私の大切な人…お姉ちゃんみたいな人。ダイゴさん、私の大切な人…仏頂面だけど、優しくて…私は兄のような人だなって思ってる。コウガさん…よくないことやっているかもしれないけど…『私達』を創ってくれた大切な人」
ミライは続けた。
「そして、ケンジ君…」
「…っ!」
「私がいた…ううん、私達がいた前の世界からの…とても大切な人…」
ミライの腕の締まりが少しだけ強まった。戸惑いつつもケンジは素直に受け入れた。体をなるべく動かさず、ミライが伝えようとしていることを待った。
「君が大切なものを失うのが嫌うように…私も、大切に想う君をここで失うわけにはいかないんだよ」
ケンジはハッとした。瞬間、体の力がみるみる抜けた。そんなケンジはミライによって支えられ、なんとか倒れることはなかった。座り込んでいるも、支えられて、倒れずにいる。
「私も色々失った。私は住む場所を失った。私とダイゴさんとティアさんは、選抜パーティを失った。私は…ううん…私たちは、仲間の燈をたくさん失った。王族達は、数多くの勇敢な戦士を失ったんだよ。今回の事で沢山、数えきれないほど皆何かを失ったんだよ。何もケンジ君だけじゃない。君だけが失ったわけじゃないんだよ」
ミライの言っていることは一理あるとケンジは思った。しかし、簡単には受け入れられなかった。失った大切なものの存在があまりにも大きすぎた。それは非情なもので、いくらミライに自分が大切と言われても、今のケンジの心を十分に支えられるほど強固なものではなかった。それだけケンジはエナキ達の存在が大きかったんだ、と自分でも改めて実感している。
「でも、俺も、もうどうしたらいいか…分からない…。パーティもない、唯一『家族』とも呼べるような存在もーーー」
「取り戻そう」
ミライは強い口調でそういった。
「失ったら、また取り戻すしかないよ」
「できないだろ…取り戻せない!死んだ人は、生き返らない!!!」
「二度と手に入らないものを失ったら…今度は、別の大切なものを取り戻す。そして失わないようにするんだよ」
「そんな代わりがあるような言い方ーーー」
「でも、そうやって私たちは生きている。そうやってしか、私たちは生きていけないんだよ。生きていくしかないんだよ。大切なものを糧にして…生きる力に変えて…この世界でもーーー前の世界でも」
ケンジの背中に回っていたミライの手がギュッと拳を作った。確かにミライは今、前の世界でも、と言った。
「前の世界でもって…ミライ…記憶が…」
ミライは静かに頷いた。優しく抱きしめられていたものが、だんだんと力が込められていく。互いの体にあった僅かの隙間はなくなった。密着した。そのせいもあってか、ケンジと同じように泣きじゃくり始めたミライの体の震えが、ケンジに惜しみなく伝わってくる。それがケンジをより悲しませると同時に、徐々に冷静にしていく。
「失ったものは悲しい。私だ。って、悲しいよぉ!本当は、泣きたいよ!でも、失ったものばっかり見てたら!下を向いてばかりいたら…ケンジ君、今まだ残っている大切なものも、同じように消えちゃうかもしれないんだよ…?」
「…ミ、ミライ」
「そんなの…それこそ耐えられないでしょ…?そうじゃなくても、私たちはもう数えきれないほど失っているのに…また同じことを繰り返すの…?」
数えきれないほど失っている、その一つにはきっと召喚前の記憶も含まれていることだろう。そう思うと、ケンジはエナキが言っていたことを改めて思い出した。大切だと思っていたものでさえ、いずれ忘れてしまう。そしてその忘れたことでさえ、忘れてしまうことが怖い、ということを。
「私たちに、残された大切なものは…なに?」
雨の勢いは止まらない。しばらく抱きしめあっていた。その間、自分の残された大切なものをケンジは考えていた。
ミライの顔が現れた。鼻水と涙でグチャグチャだった。きっと自分の顔も同じだろうとケンジは思った。
「取り戻しに行こう、まず目の前のものから」
ミライがケンジから離れ、立ち上がった。温もりを名残惜しいと思いながらも、ケンジの気持ちに確かに熱い何かが残っていた。ケンジは、ここで少なからず、自分のやるべきことが見えた気がした。
「行こう、みんなが待ってる」
目の前に手を差し出してくれるミライを、ケンジは見た。




