迷い込んだ燈たち
声は、ケンジがこの世界に召喚された時にもあった。
―――灯…して…さい。
誰かの声が響いた。ただその時は、何を言われたのか理解できなかった。まだその世界になかったからだ、ケンジの意識は。
その聞き取れなかった声が起点となり、まるで波一つない水面に広がる一つの波紋のように、ケンジの頭の中にゆっくりと響き渡っていく。脳が働き始め、嗅覚、聴覚、触覚、味覚。そして視覚。失われた感覚が、徐々にケンジの体の中に戻っていった。目の前の視界が漆黒から、だんだん、だんだんと灰色となっていく。やがて灰色から白色になる手前で、
ケンジの目は、開いた。
「ここは...?」
目の前の世界が徐々に色づいていく。目を開いたのにも関わらず、辺りはまだ薄暗かった。寝ていたのだろうか、口元から垂れていた涎を拭った。しかし、ケンジは思わずギョッとした。寝ていた、とは到底思えないような場所にいたのだ。
体の下はベッドのマットレスみたく柔らかいものではなく、非常に硬い。撫でるように手を動かしてみるとその表面はやけにザラザラしているのだ。それもそのはずだった、ただの地面だった。拳くらいの石がゴロゴロ転がっている閉鎖的な空間で自分は何故かうつ伏せで倒れていた…とケンジはようやく自分の状況を理解した。
「どうなってんだよ...」
ケンジが立ち上がると、少し立ちくらみがしたのと同時に、服や体のあちこちに付着していた砂が舞い落ちた。嫌気がさして砂埃を払う。服を叩いているとすぐ隣に、人だ、誰かが立っていることに気づいた。正確には、彼はこちらをじっと見つめていたようだった。ケンジよりも体が一回り小さく、その瞳は何か求めているような印象をケンジに与えた。
とりあえず、ケンジは頭を下げた。すると、彼は慌てて頭を下げた後、もうケンジに用事はないと言わんばかりにそっぽを向いた。
―――変な奴だな…
不思議に思ったケンジは、なんとなくソイツの目線を追いかけた。そして、自分がまだ今の状況を全然把握できていないことに気がついた。
ここにいた人間はここだけではなかったのだ。思ったより沢山いた。群れることなくあちらこちらにポツン、ポツンと1人ずつ立っている。立っているだけなく、まだ倒れている奴らもいる。薄暗いからよく分からないが、男の人だけでなく女の人もいるようだ。全体的に大人、というよりは成人前の、もしくはもっと若い。
「あのっ!」
誰かが声を上げた。女性の声だ。閉鎖的な空間、洞穴に彼女の声がこだました。
「誰か、この場所がどこか分かる方いますか…!」
答える者は誰もいなかった。いや、答えたくても答えられないのでは、とケンジも思った。
記憶が、ないのだ。
自分の名前は覚えている、ケンジだ。歳は16半ばで、ある程度の剣術を覚えている。しかし、他の記憶は何もなかった。この場所はどこかも分からない。自分がどうして、いつからこの場所にいるのか何一つ思い出すことができない。
彼女の声は完全に消え、場は静寂に包まれた。次に破ったのは数十秒後で、今度は呼びかけではなく、ほぼ独り言で囁いたような声だった。
「まだ倒れている人を...!」
倒れた人の介抱だった。戸惑いを抱きつつ、ゾロゾロと人が群れを成し始めた。倒れた人の中に、誰かがこの状況の全貌を知っていて、どうして自分たちがいるのか教えてもらう。皆がそんな思惑を持っていたのかもしれない。
近くに倒れる人に寄り添う。でも、皆何にも持っているわけではなかった。救急用具もなければ、水一つも持っていない。ただ、側にいるだけにしかできなかった。できたとしても、せいぜい体を揺すって声をかけることしかやることはなかった。
ケンジも真似するように、近くに倒れる奴に近づいた。
「目が覚めないですね...」
ケンジが最初に見た、ケンジより一回り小さい男が声をかけてきた。目の前で倒れているのは、ケンジと同い年くらいの女性だった。
「そうだな」
なんとか会話を探そうとするが、気まずさと状況の混乱で言葉がうまく出てこない。
「死んでいる...わけじゃないよな」
「多分...」
ソイツは、何も気にすることなく頭を地面スレスレに近づけ、その女体を見つめた。この後すぐに言われて気がついたが、呼吸があるかないかを確認したらしい。女性の胸部には、ケンジにはない、ふっくらとした丘があり、ケンジは思わず目を背けた。
倒れている女性。それを囲む2人の男性。なんだかいけないことをしている気分になった。
「呼吸は、していると思います。多分、うん」
「そっか」
「うん、怪我もなさそうだし」
「確かに...。とりあえず、全員倒れているみたいだな」
「よかった...」
「...」
「...」
会話が止まった。しばらく。
「...名前、俺はケンジって言うんだ」
「ぼ、僕はタクマサ。タクマサって言います」
「タクマサか、よろしくな」
「よ、よろしく」
またしても会話はそこで終わった。しかし、今度は理由があった。目の前の女性の目が覚ましたからだ。ケンジが目を覚めたとの同じように、とはいかずケンジとタクマサを見るなり「きゃぁ!」驚きの声をあげて自分の体を抱きしめた。ケンジとタクマサはよく分からずお互い顔を見合わせていると、他の女性の方が駆け寄ってきて彼女に「大丈夫だよ」と声をかけると落ち着きを取り戻したようだった。
ケンジが再び辺りを見渡した頃には、ほぼ全員が立ち上がっていた。
「あの、ケンジさん」
横にいたタクマサが声をかけてきた。その声は実にたどたどしく、一言一言をまるで自分に言い聞かせるような口調だ。
「ケンジ…さんは、どうしてここにいるとか...どうして倒れていた...とか...そういったこと覚えていますか?」
「いや、全く…。ここがどこだかもさっぱり。タクマサは?」
「ぼくもなんです、ぼくも...何も覚えていなくて...。覚えているのは、名前と...年と...鳥類と話せるのと...それくらいしか...」
「鳥類って、飛んでいる生き物のことか?」
「多分...。そこは覚えているし、実際話している時とか...。もしかしたら間違っているかもしれないけれど」
「凄いじゃんか!俺、生き物どちらかといえば好きな方だけど、話せたら好きになれただろうな」
気まずさを取り除きたいこともあり、ケンジは少しだけ取り繕った。できる限り声の調子をあげ、楽しそうに見せた。
「ははは...大したことじゃないけどね」
「いや、それは大したことだろ」
この時、実は、少しだけケンジの記憶が戻っていた。といっても、その記憶さえもかなり曖昧であり明確にまでは覚えていない。故にケンジ自身も「記憶を取り戻せた」とは気づかなかったし、聞いているタクマサも同じであった。
ケンジは以前、ある生き物を手なづけようとしたことがあるが、成長するにつれ凶暴化してしまったから処分されてしまったことをタクマサに教えた。その時、タクマサがいてくれればまだやりようがあったかもしれない、と話すとタクマサは「そういってくれると嬉しいよ」と照れ隠しをするように頬を掻いた。
それから、また少しタクマサと喋った。話せるのは鳥類の生き物だけなのか、いつから話せるようになったのか、とかケンジはほぼ一方的に尋ねた。対して、タクマサは、相変わらず自分の記憶を確認しながら話しているのだろうか、時々躓きながらも嫌な顔をすることはなく答えてくれた。
タクマサの口調がだんだん流暢になってきたな、とケンジが思ったところでまた大きな声が響いた。今度は男性の声であった。
「それは本当か?!!」
声の主に、皆が一斉に目を向けた。先ほどより薄暗くなっているためほぼシルエットだけだったが、ある男性が片膝をつき、地面に座っている女性の両肩を握っていた。
「みんな、聞いてくれ!この子は、ここがどこだか分かるらしい!」
空気が張り詰めた気がした。すっかり生き物の話題に染まっていたケンジでさえ、聞き逃してなるまいとできる限り耳を立てる。その女性の声は消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。
「ここは...丘を降りたところにエクリュ・ミエーランという海辺の町があります...。町には...いや、えっと、町は結構大きなところで岩肌を削って…探鉱で栄えていた町で、色は灰色の建物が多くて…で...ここから歩いて、そこまで長い時間かからなくて...あっ、行商人移動に使う魔物だとすぐに辿り着けるーーーー」
「あ、ありがとう!そ、それでどうして僕たち...いや、まず話を聞いた方がいいか、どうして君はここにいたんだ?」
男は興奮気味だった。興味深い話だと思っていたが、女性の話の腰を折った。
「私がここにいる理由ですか…?」
「そうだ…!それを1番知りたい」
「それは...えっと...あれ、え」
「ど、どうした?!」
「思い出せないです...」
膝から崩れ落ちたくなる、誰もが待っていただけに。
「な、なんでもいい!ほ、他には..?!」
「えっと...他には...えっと、名前はミライ、タマイミライ。で、年は16辺り...で、雷系統が得意な魔法使いです、くらい...ですか。...す、すいません。あのこれくらいしか...」
これは駄目だ。この情報は聞いたところで無駄だと言わんばかりに、ミライの両肩を掴んでいた男は大きなため息をついて立ち上がった。
「誰か、誰でもいい!他に何か覚えている奴か!」
いなかった。
代わりに答えたのは、この洞穴に入ってきたもの達だった。
前触れもなく、唐突で、かつ勇ましかった。オレンジ色の差し込む夕日をお構いなしに遮り、銀色の甲冑を装備した兵士が堂々たる態度で続々と洞窟に入ってくる。近くにいた者は怯えさせ後方へと下がらせ、逃げ遅れた者は無視してそのまま踏み台にした。悲鳴や怒声が広がるも、引き続き隊列をなし、足から頭まで一切の乱れがない。
「何者だよ、お前ら!」
彼らは答えなかった。代わりに、何かを合図に左右によって、洞窟の入り口から中までに道を作り始めた。その入り口から圧倒的な存在感を持った者が、こちらへと一つ、また一つとゆっくり歩んでくる。ケンジも事の出来事に息を呑んだ。土埃の場所に不適切な純白のドレスを身にまとい、長髪の金髪。スラリとした背丈。手足も長く、細長い手や腕には指輪などのいくつか装飾品が見える。
ケンジは途端、妙に息苦しさを感じた。その正体は分かりそうで分からない。その彼女が閉じていた瞳を開けた瞬間、薄暗い中でもケンジは手に取るように分かった。
ケンジから、その彼女までの距離は遠い。彼女は、そもそも彼女の正面から外れているのだから、ケンジのことなど見えていないだろう。しかし、彼女は俺のことを見ている、と錯覚している。そんなはずは絶対ないのに。
そんな彼女が口を開いた。透き通った、でも脳を焼き付けられるような力の籠った声がケンジの耳に飛び込んできた。
「ご機嫌よう、燈の者たちよ」
彼女が続けた。
「この世界の闇から、救ってくれる者たちよ」
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その時のケンジの心は皆と違っていた。もちろん、洞窟に入ってきた奴らも気になった。それよりも気になったことがあったのだ。
自分の記憶と、町の名前を覚えていたあの女性だ。記憶を取り戻したのか、それとも元々存在していたが、気づいていなかったのかそこまでは説明できない。しかしケンジは、確かにある1つの事柄を、今度ははっきりと自覚した。
ミライと名乗っていた、その女の子のことだ。
ーーー俺は、ミライを知っている
と。頭の中に。