密林回転木馬
「走れ、シゲ!」
俺は声を張り上げた。
「待ってくれ、かっちゃん」
夜間の襲撃に、俺たちの部隊はあっけなく散り散りになった。
照明弾が打ち上げられ、密林が白と黒の印画紙になる。くらみそうになる目を細め、軍刀で目の前の蔦や木の枝を払う。
「かっちゃん、それ」
俺の後ろを付いてくるシゲの声は、息が上がってかすれ気味だ。
「いいだろ、部隊長のだ」
いつも威張り散らしていた部隊長に、砲弾が直撃した。
軍刀はちぎれた右手が掴んでいたが、俺は構わずもぎとったのだ。
「とにかく、攻撃の届かないところまで逃げようぜ」
俺たちは、およそ着の身着のままの姿だ。夜の襲撃に用意していたといえば、そうなのだが、ここ数日は夜襲もなく油断していたのだ。
半数以上が眠っていた野営地は、海からの砲弾が直撃しあっという間に崩れた。
「走れ」
呆然と座って行いたシゲの腕を掴んで、俺は密林へと逃げ込んだ。シゲは同郷の幼なじみだ。ちょっと鈍くて、人より多く上官から殴られているシゲを放っておけるはずもない。
未だ艦砲射撃が収まらない。着弾した時の地の震え、爆発音、どこまでも追ってくる血と火薬のにおい。
敵は上陸まではしなかったらしい。背後から追っ手の気配はない。
汗だくになりながら、密林の奥まで進むと、ようやく人心地ついた。
「大丈夫か、シゲ」
「かっちゃん、これ以上奥へ行ったら部隊へ戻れなくなる」
「いいよ、俺はこのままとんずらする。シゲ、戻ったなら俺は死んだと報告してくれよ」
「な、なに馬鹿なこと言ってるんだよ、庸子ちゃんと弘子ちゃんはどうするんだよ」
シゲは妻と子の名前を口にしたが、俺は口を歪めて息を吐いた。
「おまえにやるよ」
「かっちゃん、そんなこと冗談でも言うな」
ははは、と俺は感情のこもらない笑い声をたてた。
妻の庸子と俺たち三人は幼なじみだ。シゲは子どもの時から庸子が好きだった。でも、庸子が好きだったのは俺だった。料亭を営む俺の生家と、お茶問屋の庸子の家。釣り合いもよく、誰も反対する者がいなかった。シゲがかなうはずがない。シゲの家は小さな魚屋だったから。
「俺はこの島の女を新しく娶るさ。陽気でいい女ばかりだ」
「ふたりとも、かっちゃんのこと待っているんだよ」
「いつまでもふらふら女遊びをしてる俺を?」
シゲは困ったようにうつむいて、手を上げたり下げたりした。
「もうごめんだ。食い物も薬も何もない。きっと俺たちは捨て石だ」
シゲは何も言わずに、うつむいた。
「おまえは戻れ」
シゲへ背を向けて一歩踏み出した目の前で、光りがさっと走った。
「伏せろ」
とっさに伏せると、眼前で複数の光りがゆらめいた。
「な、なんだ」
こわごわと身を起こすと、そこには信じられない光景があった。
密集した森の中で、どうやったものか大きな天幕が張られていた。俺たちのほうに、広い間口を開け天幕の中には、いくつもの遊具があるように見えた。
盛大とはいえないが、天幕のあちらこちらに、角灯がつるされ柔らかな明かりを灯している。
ぼんやりとしている俺たちのほうへと、誰かが歩んできた。
木の間に張られた蜘蛛の巣も、倒木や伸び放題の下草も、ぬかるむ泥地もまるで無関係のようにして、それは歩いてきた。
「あら、お早いのね」
這いつくばる俺たちを見下ろしていたのは、まるで上海の歌姫のような格好をしていた。
詰襟でからだにぴったりする、裾の長い赤い絹地の半袖のドレスを身にまとい、ゆるくうねる髪は金色の大きな蝶がついたピンで留められている。
「おんな、あやしい、おまえは誰だ」
起き上がった俺は、抜身の刀を女の喉元に突き付けたが、声はみっともなく裏返っていた。
あら、と女は真っ赤に塗られた唇の端をわずかに持ち上げて笑った。
「慰問団ですわ。何日か前にこちらへ参りますと将校様へは連絡を入れていましたのよ」
ご存じなくて? と女は豊かな胸の前で腕を組み、人差し指を頬にあて小首をかしげた。白くてすらりとした足が、ドレスの脇から見えるのはドレスの横に切れ込みがあるからだろう。
「ちょうど準備が終わりましたの。一息ついていかれませんこと?」
女は俺が突き出した切っ先を、左手でそっと横に押しやった。
「や、やめてくれ。いま明かりをつけたら、敵に見つかる、標的に……」
シゲがどもりながら女に詰め寄るが、女は目を細めて微笑んだ。
「大丈夫、この天幕は特別なんですの。光を通さない布地で作ってありますのよ。中へどうぞ」
女は踵を返し、テントへと向かう。俺とシゲはお互いの顔を見合ったが無言で女の後をついていった。入口のカンテラには、蛾が数匹明かりに吸い寄せられてぶつかっている。天幕の中に入って息をのんだ。大きな回転木馬が静かに鎮座していた。
「奥には撞球や囲碁将棋の台もありましてよ」
女は昇降機ガールのような手つきで案内する。
天幕の中は信じられないほどの広さだったが、女以外誰の姿も見えない。不自然なほど、しんとした場所だ。これが故郷だったら、狐か狸に騙されているとでもいうんじゃないか。
「あんたの他には誰かいるのか」
「いないと言ったら?」
「たたっ切る」
「まあ、怖い怖い」
女はわざとらしく、両肩を抱いてふるえて見せた。俺が軍刀を少し持ち上げると、女は自分を抱いていた手をほどき、やれやれとでもいうように首を振った。
「まさか。今は片付けをしていましてよ。みな裏手に回っております」
耳を澄ますと、確かに天幕ごしに物音が聞こえる。ね、と女は小首をかしげた。
「さあ、どういたしましょう。とりあえず、木馬を回しましょうね。きれいですのよ」
女は回転木馬の起動室らしき扉を開けると、何やら腕を動かした。とたんに木馬は派手な音楽を鳴らしながら回り出す。
「わあああ!」
シゲは叫ぶと地面に体を伏せてうずくまった。
「まあ、どういたしました?」
女はシゲを見下ろして微笑んだ。
「止めろ! 敵に見つかる!」
「まさか、ここはみつかりませんのよ」
青ざめる俺たちとは裏腹に、女は優美に微笑む。
「でも、殺風景な遊具は、賑やかにいたしましょう」
女はすっと腕をあげた。どんっと体がゆれた。いや、地面か。
ちがう、空だ。大輪の花が夜空に咲いていた。あまりのことに俺の体が固まる。余計なことをする女を止めなければ、敵の砲火の餌食だ。
「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫ですわ。その証拠に」
ご覧になって、と女は回転木馬へと案内するように優美に腕を動かした。
俺はその光景に目を見開いた。
「シゲ」
這いつくばるシゲの体を支えて引き起こした。がたがたとふるえるシゲの肩をだいて俺たちは回転木馬が光りながら回るさまに目が釘付けになった。
いつの間にか、回転木馬には人が乗っていたのだ。
それも、俺たちみたいな兵じゃなく、乗っていたのは母親と子ども、老人たちだった。この場にいるわけのない者たちが、笑いながら乗っているのだ。
「ま、まて、どういう事だ」
女は腕を組んで笑みを浮かべた。
「ほら、また花火があがるわ」
女が空を指さすと、盛大な花火があがった。大きな白菊が夜空に描かれる。
花火に気を取られたが、視線を戻すと回転木馬への乗客が増えている。
「どういう」
シゲが突然立ち上がった。
「庸子ちゃん! 弘子ちゃん!」
突然シゲは俺の俺の女房と子供の名前を叫んだ。
「かっちゃん、庸子ちゃんとヒロちゃんだよ、いまぐるって回ってくる、見てろ、見てろ」
シゲは興奮して目を血走らせている。俺の肩をゆすぶり、早口でまくしたてる。
「ほら!」
金で縁取られた小さな馬車の中に、庸子と弘子がいるように見えた。
「シゲ、こんなところに二人がいるはずがない。ぜったいに違う、落ち着いてみてみろよ」
しかし、あたまに血が上ったシゲにはもう冷静な判断を失っていた。何度も、何度も、二人の名前を呼ぶ。
「あの馬車はせいぜいが大人二人と子どもひとりで一杯ね」
女の声に、シゲはさらに落ち着きをなくした。
何度目かに回ってきたとき、馬車の中からまるで手招きするように、ひらひらと大小二本の白い手がゆれた。
「庸子ちゃん」
シゲは回転木馬へと突入すると、無謀にもそのまま外側の柵につかまり乗り込んでしまった。
内側と外側、速さの違う円盤の上をシゲは進んで、馬車へと到達した。
「あーあ、定員いっぱいになるわね」
まだ乗れるかしら、と女の手が空へとひらめく。三発目の花火が俺の頭上で花開く。
とたんに、すべての木馬は人を乗せた。馬車やそり、椅子、すべてが満員だ。
「美しいでしょう、皆さん笑っているでしょう」
女の赤い唇は、口角がきゅっと吊り上がり、青く塗られた瞼は金の粉を刷いたようにきらめいた。
目の前の回転木馬を見ていると、動悸が激しくなった。たまに見える馬車には、まるで夫婦のような庸子とシゲ。シゲは弘子を膝に乗せ、弘子はシゲの首につかまり笑っている。
「女、これはまやかしだろう」
「そうでございましょうか」
「どんな手品だ、種明かししろ」
「まさか、手品などではございませんよ。これはひとときの癒し、慰めでしょうか」
赤や青の光とともに回り続ける木馬たち。
「悔しかったなら、あそこまで乗り込んでお友達を引きずり出したからいかがかしら」
女は俺を見て挑発するように笑った。
「ほら、その軍刀を振りかざして、ご自分の家族を取り戻されたらいかが?」
体の中を熱が走った。俺の軍刀は女の肩口に食い込んだ。
手ごたえがまるでなかった。刀の刃は、そのまま女の腰のあたりまで斜めに切り裂いた。
女の体は布に描かれた絵のように、上半身がゆっくりと倒れていく。
意気地がないのね……
女の唇が動きを止めると、蝶の群れが女の体の中から飛び立った。
俺は悲鳴さえ上げられずその場に軍刀を構えたままで立ち尽くした。
粉々に崩れていく女の体と、回転木馬とをただ見つめた。
怪しい女の記憶はそこまでだ。
次に目を覚ますと、俺は捕虜になっていてそのまま戦争は終わった。
慰問の回転木馬など、聞いても誰も知らなかった。
でも、おれは確かに見たのだ。密林のなかで回る回転木馬。
消えてしまった、おれの家族と親友と、それからあの女を。
坊ちゃん文学賞に出すには、ちょっと……と思ってやめました。