58話落下の始まり
最近、不満だった事がスッキリして毎日の体調が良い。
離婚も成立して自由な身。
仕事も、出世の事を考えていた時よりも、働かずに、自分が生活する分の給料が貰えるのは素晴らしいと思う様になった。
確かに、昔みたいにしっかりした給料があり、キャリアアップを目指していた方がやりがいはあっただろう。
しかし、今は、彼女。矢野美代と過ごす時間を大切にしたい。
思えば、これが本当の初恋なのかもしれない。
以前までのは、綺麗なものが欲しいと言う物欲や所有欲、独占欲だったのだと今更ながら思う。
彼女は決して美人でもないし、スタイルもよくはない。
しかし、彼女といれば安心できるし、これが本当の幸せなんだと感じる。
彼女の口から、旦那の愚痴もたくさん聞いている。
仕事人間で、彼女を蔑ろにする酷い旦那だ。
彼女と僕は話も合うし、相性もいい。
俺は離婚した事だし、彼女も離婚を勧めて一緒になれば、今度こそ幸せな家庭を作れるだろう。
幸い、略奪愛は得意だ。
まあ、今の相手より俺の方がいい男であれば女性がなびくのは仕方のない事だろう。
今日も彼女と仕事終わりに食事に行く予定だ。
俺は彼女を口説き落とす為、気合をいれ、鼻歌を歌いながら時間を潰した。
仕事も終わってafter5。
俺は少し奮発していつもよりいい個室の居酒屋を予約していた。
先ずはメニューから料理を頼んでビールで乾杯する。
ビールを飲んでニコリと笑う彼女の素朴な笑顔が荒んだ心を癒してくれる。
少し、会話を楽しんだ後、俺は、ついにあの話を切り出すことにした。
「美代さん、俺、離婚したんだ。相談に乗って貰ってた妻と離婚したんだ。
それで、美代さんもいつも言っている酷い旦那と別れて俺と結婚を前提に付き合わないか?」
言った。女性は離婚後すぐに結婚できないのはもどかしいが、その間もじっくりと愛を育む期間と思えばそれもまた近しいだろう。
しかし、その言葉を聞いた美代さんの顔は、ストンと表情が無くなって真顔になった。
そして「はあぁぁ」と大きいため息を吐いた。
「何言ってんの?あんたとそんな事考えられるわけないでしょ?」
いつもの様な癒しの笑顔ではなく、真顔で、抑揚の無い声で言われたその言葉に俺は言葉が出なかった。
「ちょっと優しくしてやっただけで私があんたに惚れてるとでも勘違いした?バカじゃないの?
あんたみたいに自分のことしか考えない男と一緒になっても不幸になるだけでしょ?
あ、その点を言えば奥さんは幸せかもね、あなたと離婚出来たんだし」
辛辣な言葉に俺は口をパクパクとさせるが、声は出てこない。
「なに?面白い顔して。初めの頃と違って最近は自分の自慢が増えてきたし、私の相談に乗るふりして旦那の事こき下ろしてたけど、まさかアピールのつもりだったの?
笑っちゃうわ。くだらない。
そんなのに引っかかった元嫁は箱入りだったのねー」
くすくすと笑うその顔はいつもの優しい笑顔ではなく、俺を見下している目だ。
「顔はそこそこイケメンだし、まあ安いけどご飯奢ってくれるし、あんたの不幸話は聞いていて面白かったから付き合ってあげてたけど、ここまで来るともう鬱陶しいのよね。
それでも、武勇伝語るくらいだからあっちの方は上手いのかと思って一回寝てあげたけど、自分勝手でヘタクソだし、小さいし、あんた、顔が平均よりちょっと良い以外なにもいいとこないじゃない。今度からやめた方がいいわよ。自慢するの」
美代は言い終わると席を立って部屋の出口へと向かう。
「もうつまらないしあんたとの関係はこれで終わり。
あ、それとね。私、旦那と冷めてるし、それはお互い分かって好きな様に夫婦やってるけど、旦那は世間体とか気にする人なのよ。
まあ、明日になったら分かると思うわ。
それじゃ、ここのお会計はよろしくね」
そう言って部屋を出て行った美代さんに、俺は声をかける元気すらなく、変わってしまった理想の女性と、散々に言われてプライドをズタズタにされ、しばらくの間、1人個室で放心状態だった。




