100話事前準備
その日、椿翠は郵便受けに届いた手紙を読んだ後、その手紙を握り潰した。
「あの馬鹿パパが!」
ついつい汚い言葉が出てしまっても仕方のない事だろう。こう言う人だから、昔の様にパパなどと呼んではやらないのだ。
『翠へ
翠ももう大学生になり、大人の仲間入りをした事はパパも十分に理解しています。
しかし、翠に彼氏ができて、親として心配するのを許してください。
つきましては、楓君を我が家に招待したいと提案いたします。
家族の目で、翠に相応しい人か見極めさせていただきたいと思います。
パパが京都に帰る7月24日に家でお待ちしております
パパより』
なんで1週間前に付き合ったばかりの私達の事をお父様が知っているのだ。
また、定期的に見守り隊をなんかと言い出すのだろう。
なら、その見守り隊に未然にトラブルを防いで欲しいものだ。
明らかにストーカーだった孝久に事前に手を打つとか。
まあ、今更文句を言っても仕方がないだろう。
しかし、付き合ったと言っても今までと何が変わった訳ではなく、あ、いや、手を繋いで歩く様になったくらいで、そこから先には進んでいない。
私としてはキスくらいならと待ち構えているのだが、奥手な楓くんはなかなか先に進んでくれない。
いや、1週間ならこんなもの?でも毎日一緒にいるわけだし…。
そんなこんなを考えている内にエントランスから部屋へとたどり着いた。
ベッドに腰掛け、ふと左の手を見つめた。
先程家まで送ってきてくれた彼の手の温もりが残っている様な気がして自然と笑みが溢れる。
楓くんは実家に招待したらどんな反応をするだろうか?
いきなり親に会って欲しいなどと言ったら引かれるだろうか?
いきなり連れて行った実家で親からぐちぐちと言われたらどうするだろうか。
楓くんなら大丈夫だと思う反面、不安も残る。
いや、こんな事で悩むのはいきなりこんな事を言い出したお父様が悪いのだ。
だから、約束の日にちまで約1週間。
その間にママ達を味方に付けてしまおう。
楓くんには少し酷かもしれないけど、いきなり家族全員と会うよりはママ達と会って仲を深めておけばお父様と会う時にはママ達は味方をしてくれるはず。
それに、楓くんもまとめて会うよりは気が楽だよね?
この話を無視すればお父様は押しかけてきそうだし、その方が良さそうだ。
とりあえず、楓くんにも相談しよう。
翠はそうして楓に電話をかけるのだが、この話だけでは終わらず、他愛のない話で通話時間がとんでもない事になっていたと言う。
数日後、楓くんやママと相談して外でランチする事になった。
まずはママ1人だけで会うという事になり、妹はブーたれていた様だが、楓くんの心労を考えると徐々に慣れていく方がいいと決まったのだから仕方ない。
なので、本日楓くんと連れ立ってママとの待ち合わせ場所に来たわけだが、何故かそこには妹も一緒に居た。
「なんで貴方が居るのよ、朱音」
「だって、お姉ちゃんの彼氏が見たかったんだもん」
そう言って笑う妹に悪びれた素振りはなく、舌を少し出していたずらが成功した事に喜んでいる様にも見える。
「ごめんなさいね。ここに着くまで後を付けていた事に気づかなくて」
「大丈夫です。来てしまったのは仕方ないですし、賑やかな方が楽しいですから」
ママの謝罪を楓くんは快く受け入れてくれる
この話を続けても雰囲気が悪くなるだけなので、予約していたお店に移動する事にする。
ママと妹に楓くんの事を聞かれながら歩く道中、楓くんは一歩下がって会話に入ってくる事は無かったが、私は気づいている。
私達に気づかれない様に気を遣いながら予約のお店に1人増える事を連絡してくれている事を。
こう言うスマートな振る舞い方は師匠に似てきたなと思う。
そのおかげで、お店に着いた時に、スムーズに入店する事が出来た。
最近人気のランチレストランで、好きなものを頼み、2人の馴れ初めなどママや朱音に聞かれながら、初めは緊張していた楓くんも食事が終わる頃には楽しそうにしていた。
家族の前で、私の事を褒めるのは恥ずかしいのでやめて貰いたかったが、これでお父様と会う時にアウェーな感じはなくなるだろう。
尚、この食事の時にも何気なく、楓と翠はいつもの様に、おかずの交換をしたのだが、それを母は微笑ましそうに見守っていたと言う。