天下ってせいぜい畿内だって話
最近の学説では、信長の「天下布武」というのも、結局、「天下」はせいぜい畿内五国のことだということが唱えられているようだ。どういうことなのかを少し考えてみたくなった。まあ、よくやっている人口論的な視点からだけどね。
ネットで見つけた1600年の日本の人口ドット地図がある。
http://mktg-center.blogspot.com/2014/01/1600.html
これを見ると、人口はいわゆる「畿内」、すなわち……
摂津、山城、和泉、河内、大和
の五か国でかなり大きい。
その地図の元データは地図のHPのコメントにある通り、このウィキペディアの項目だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/https://ja.wikipedia.org/wiki/近代以前の日本の人口統計#地域別推定人口
ただ地図の作者が手を加えているだろう。そう思ったのは、1600年の欄の人口と各国のドットに多少食い違いがある感じだからだ。そんなわけで、そのウィキから、1600年の国別の推計人口を抜粋し、今の日本人の感覚に合うような地域別に並べ変えてみる。
<北海道・東北>
蝦夷・松前7,100/陸奥734,400/出羽338,500
<関東>
常陸262,200/上総181,400/下総227,000/上野230,400/下野221,700/安房63,400/武蔵708,500/相模124,300/伊豆42,000
<北陸>
越後388,100/佐渡36,200/越中125,400/飛騨28,900/能登63,100/加賀81,000/越前139,200/若狭 31,200
<甲信東海>
甲斐124,500/信濃274,700/駿河125,500/遠江133,500/三河167,700/尾張312,000/美濃300,600/伊勢295,000/志摩13,600
<近畿>
近江324,400/山城558,000/大和399,400/伊賀51,600/河内247,000/和泉222,100/摂津858,100/紀伊203,300/丹波155,800/丹後53,800/播磨311,000/淡路42,800
<中国>
美作70,100/備前129,200/備中127,800/備後122,700/安芸158,800/周防115,800/長門90,800/隠岐 7,600/但馬62,600/因幡50,000/伯耆56,300/出雲94,000/石見87,800
<四国>
阿波134,800/讃岐142,900/伊予200,000/土佐147,300
<九州>
豊前97,100/豊後204,800/筑前122,800/筑後104,400/肥前253,200/肥後248,100/日向90,200/大隅52,600/薩摩77,700/壱岐9,300/対馬5,900/多禰(種子島等)3,700
全国合計12,273,000
(琉球は入ってない)
以前のエッセイで、戦国時代の人口はだいたい1300万人くらいだろうと書いたけど、この推計はそれにかなり近い1200万人台である。現代の日本の総人口は1億3000万人を切っているので、やっぱり戦国時代は、今の日本の人口のおおよそ10分の1というスケール感がピッタリなのだ。
冒頭にあげた畿内5国の合計で人口は200万を超える。全国でやっとこ1200万人を超えるというくらいで、6分の1の人口が、たった5国に集中しているわけだ。
信長が基盤とした尾張・美濃も人口規模で見れば、決して小さいわけではないが、2国を押さえたところで、60万人ちょいしかいないわけで。結局、京・大坂を押さえないと、統一政権など立ち行かないことが直感的にわかる。
陸奥と出羽は案外に大きい人口規模なのだが、陸奥は現在は3県、出羽は2県のかなり広大な地域であることを考えると人口密度は希薄だ。しかも、冬は厳しい。雪も多い。戦国の末期に伊達政宗が米沢・会津・仙台までの広大な地域を押さえたが、時間がかかったことも納得できる。
関八州も、武蔵が巨大な人口規模を持っているのだが、まずは北条早雲、扇谷上杉、山内上杉、古河公方、房総勢力(里見、小弓公方など)でせめぎ合い、北条が氏綱・氏康の代までに優勢を築くまでがまず大変。さらに北条氏康・武田信玄・上杉謙信で相争い、結果的に壮大な消耗戦。武蔵のポテンシャルをまったく活かせなかったわけだ。北条家は今川の家督争いに乗じて、さっさと東海道を西上した方が経営的に美味しかったかもしれない。史実の結果は、北条の関八州制覇は遅きに失したということを示している。
中国・四国・九州も、群小勢力のせめぎあいが長く続くわけで、そりゃあ、天下を狙いに行くのは、かなり辛い。三好家が松永久秀と組んで畿内をさっさと牛耳ろうとしたのも、領国以外の四国に拘泥するよりはるかに美味しいとふんだからだろう。幕府が没落する中での生き残りのためならば、決して間違いだったとは思えない。幕府の権威を利用して、自分たちで再統一を……というようなビジョンが持てなかったのが不幸だったわけだ。
このような人口分布の時代状況を考え合わせれば、「天下」はせいぜい畿内五国のことだという話に違和感はない。衰えまくっているが、伝統的な権威の中枢でもある。畿内と、自分の領国である尾張・美濃、畿内までの通り道である近江や伊勢の確保をまずは考えようというビジョンが天下布武だったとしても、日本の都市的な地域が、この五国にほとんど押し込められていると考えれば無理もないところではないだろうか。
ただ、包囲網を組まれ、それを打破する行きがかり上もあって武田・朝倉を滅ぼした。さらに、明智光秀に丹波・丹後、柴田勝家に北陸、羽柴秀吉に山陰・山陽、滝川一益に関東、丹羽長秀に四国という方面軍システムを実質的に組むに至った。狭い「天下」からの突破に向かっていたのは間違いんだろう。
その意味では、畿内=天下の布武にはすでに成功しているという思いがあって不思議はない。もう機内の外へと大きく広がっていく時期だと。畿内は絶対的な安全圏になった。それだからこそ防備は薄かった……それが本能寺の変の際の信長の油断の原因じゃないんだろうか。