経験値が得られた気がしない戦闘後
「――つ、疲れた……」
一度店の看板をクローズへと変えて、ゴンザレスは店内に戻って早々カウンターで突っ伏していた。
アリサ……彼女は何気に強敵であった。いや、別段こちらに攻撃しようと思っていたわけではないのだろうけれども。
いかんせん女子力とかそういった物を遥か彼方に捨て去って来た身としては、その捨て去った物を無理矢理拾い上げようとするアリサの言動は色んな意味で大変だったのだ。
前世でやったスキンケアやら美容関連の知識など、もうすっかり覚えていない。何かこんな感じでやってた気がするなー? 程度の朧気美容法だ。雑誌やらネットで得た知識もふわっとしか覚えていない。実践していた過去があっても、それがどういう効果を及ぼすだとか、科学的根拠のようなものでもって説明しろとなると完全に今のゴンザレスには難しいものだったのだ。
だからこそ、とりあえず今現在ゴンザレスが作ってあるアイテムの中からそれなりに無難な物を勧めるだけにしておいたのだが。
それでもその説明にとんでもなく精神的な物が削り取られた気がする。
まず泡立てネットを目当てにやってきたので次に勧めたのは洗顔石鹸だ。この世界、割と前世の世界と似たり寄ったりな生活ができなくもないのだが、変な所で昔気質な部分がある。ゴンザレスも故郷の村で暮らしていた時にその洗礼を受けていた。
前世であれば何でそんなに種類あるの? と言っても許されるレベルで石鹸だけでもとんでもなく色々な種類があった。けれどこちらの世界では石鹸は石鹸でそれ以上でも以下でもないのである。
顔を洗う石鹸も、身体を洗う石鹸も、髪を洗う石鹸も、全部同じ物なのである。
前世でもそうやって全部一つの石鹸で賄っていた人はいたようだが、その数は少なくとも自分の周囲では少数だった。一般的と言える程の数はいなかったように思う。
だがこちらの世界はそもそも洗顔フォームだのボディソープだのシャンプーだのトリートメントだのを選べる選択肢が、無い。全部一つの石鹸なのだ。
確かに生活はそれなりに前世と似たような感じで便利な部分もあるにはある。
しかしそれは魔石という物があるからであって、石鹸に関しては魔石でどうなるものでもないから、という部分に尽きるのだろう。
転生したという事実に気付く前までならまだしも、気付いてからは色々と大変だった。幸いにしてその頃には一人でお風呂に入れる年齢であったために、こっそり隠れ家で作っておいた自分用の石鹸やらシャンプーやらリンスやらを使っていたわけだが。おかげで今のゴンザレスの髪は艶々のサラサラである。
ベルナドットはこちらに来るまでずっと石鹸だった割に、それなりに肌も綺麗だし髪もサラサラというのが解せないと思っているが。
とにかく、洗顔用の石鹸というものをアリサに勧め、次に勧めたのは当然シャンプーとリンスである。
ここら辺も人によって合う合わないがありそうではあるが、化学物質とかそういうものを使ったわけでもなく、大体が自然由来かつ魔法成分的な物しか含まれていないので大丈夫だろうとは思っている。
こちらの世界、衛生観念はそこまで酷いわけでもないが、それでも前世と比べるとほんの少しだけ微妙だなと思う部分はある。そこら辺をもう少し気を付けて何となく身綺麗になればアリサなら充分元が良いだけに効果があるのではないだろうか。
ちなみに他に勧めたのは、ハンドクリームとリップクリームである。
本格的な化粧品とか香水とかそういったものを初っ端から勧めるのは場合によっては最悪の展開になりかねないと思ったりもしたもので。
かくして、勧められた物を言われるままに買うでもなく熱心に自分の目でも吟味していたアリサは、はちみつの香りのリップクリームと桃の香りがするハンドクリームを自らの手で選び取ったのである。
シャンプーとリンス、洗顔石鹸あたりはゴンザレスのお勧めをそのまま選んではいたが。
これもまたそこら辺で採集してきた素材で作ったものなので、コストを考えると割と安めに設定しているのだが、それでも多分前世の値段と比べると微妙にお高いかもしれない。
だがしかしアリサは満足げに購入した品を抱えて帰っていったので、そういう意味ではゴンザレスの勝利である。
何というか本人が無駄にお高い物だと思い込んでるせいもあってか、実際の値段を聞くととてもお買い得に聞こえる罠が発動していたようにも思えるが。
そういう意味では前世って本当に物が溢れていたんだなと今更のような実感をする。
さておき、ゴンザレスがアリサに勧めた物は大体すぐに効果が出るようなものではない。ハンドクリームに関しては少しだけ前世と違ってポーション的な効果も含まれているので場合によってはすぐさま効果が出るかもしれないが。
花屋というのは案外手が荒れる。客として見てる分にはそんな事には気付かないかもしれないが、切り花が枯れないように水はいるし、その水だって定期的に取り換えないと花も駄目になってしまう。
切り花を集めて花束を作る、なんて事をすると場合によっては棘があるもので指先が傷ついたり、棘がないにしても葉っぱで切る事だってある。大きな怪我をする事は滅多にないが、小さな怪我ならそれこそ数えきれないくらい存在するようだ。
これはアリサの話を聞いてゴンザレスが把握した程度なので、実際はもっと色々とあるのかもしれないが。
指先にできた小さな傷は、血が出る程ではないものの、やはりちょっとした作業をする時や仕事以外の水仕事などでも影響を及ぼす。顔を顰めて痛いと叫ぶものではないが、油断している時に走るピリッとした痛みは慣れる気がしない。
冬場の静電気みたいなものだろうか。くるとわかっていると触るのにやたら身構えるので、そういう意味ではゴンザレスも何となく理解はできる。
だからこそ、ハンドクリームは保湿効果だけではなく傷を治す効果もあるやつを勧めた。
もうポーション飲んどけよ、と言う者も中にはいるかもしれないが、本当に大した傷ではないのでそこまでするつもりもないのだろう。そんな怪我で毎回ポーションを飲む方が無駄に出費が嵩んでしまうし、冒険者ならともかく一般家庭でポーションはそこまで多用されない。
クリームを塗った直後に食べ物を触ったりする事がないよう念の為使うのは寝る前とか、出かける直前あたりだけにしておくようには言ったけれど、どうだろうか。使いすぎたところで精々手がつるつるになるだけなので、思った以上の弊害はないはずだ。
つるつるになりすぎて、物を掴む時に滑るという悲しい事故はあるかもしれないが。
アリサとのやり取りを思い出しつつも、流石にいつまでも突っ伏しているわけにはいかない。
そう思ってのろのろと身を起こし、一度台所へと移動する。魔石式の冷蔵庫から飲み物を取り出してそれをぐいっと飲み干す。
「……はー、気は進まないけど店開けるか……」
魔除け的なものを置いてはいるが、あくまでも店や店主に害になるものが排除されるのであってそうでない客は普通にやって来る。
なるべくならもうちょっとパワフルさが抑えられてる人が来ますように……そう思いながらも再び店へと戻る。
「すみませぇん! 泡立てネットくださぁい!!」
本日二人目のお客様は、店がやっていると知るなり半分泣きながら勢いよく飛び込んできた。
見覚えがある。開店初日の客一号、つまりはアリサの妹のエリザだった。
「できれば二つお願いしますぅ!」
他の商品を見る余裕もなさそうな状態で、一直線にゴンザレスのもとへとやって来る。
「……二つ、ですね。少々お待ちください」
というか、エリザはそもそも開店初日に泡立てネットを購入している。だというのに何故半泣きでやって来て再び購入しようというのだろうか。
姉がいる。その姉に強引に取られてしまった、というのであればまだわからなくもないが、その姉は先程自分の分を購入して帰っていった。
「聞いてくださいよ店主さぁん! 母さんったら酷いんですよ。買ったばかりの泡立てネットを台無しにしちゃったんですぅ!」
ゴンザレスが何でまた買いに来たんだろう、というのを顔に出したわけではないが、エリザはとにかく事情を聞いてほしかったのか唐突に語り出した。
それ以前にこの娘、こんな語尾で喋る子だっけ? むしろこちらの疑問の方が今は強い。
「母さんったらわたしが使ってた泡立てネット見て、とても泡立つからそれなら、ってよりにもよって揚げ物した後の鍋洗うのに使っちゃったんですよぉ! そのせいで酷い油汚れがついちゃったし、鍋底の一部が焦げてたみたいで、そこにネットが引っかかっちゃって台無しですぅ! 母さんはわざとじゃないって言ってましたけど、わざとじゃないから許されるってことないじゃないですかぁ!!」
まぁ、買って一週間経ってないうちに駄目にされたらそりゃ怒るわな。
ゴンザレスの正直な感想ではあるが、それを口にすると余計面倒な事になりそうだったので曖昧に頷く素振りを見せつつも愛想笑いと苦笑の中間点、くらいの表情を浮かべておいた。
「だからその分の料金は徴収してきたんです。あと、折角だから母さんも欲しいっていうので二つ下さい」
喋っているうちに泣き止みつつあったのか、口調が何となく初日に会った時に近い形に戻って来る。
しかし泡立てネットで食器洗う人とか初めてすぎてゴンザレス的には驚きである。
確かにあれだけ泡もこもこさせるやつならそりゃ食器洗ったりするのもよく落ちそう、と思っても仕方のない部分はあるけれども。
こちらの世界に食器用洗剤という物はない。
食器を洗う際にもやはり石鹸なのである。けれど身体を洗う石鹸と違うのは、粉末状になっているというところだろうか。汚れの酷い部分に振りかけて使われている。
そして洗う時には大抵スポンジなどではなく布だ。着れなくなった服で、お下がりにもできないような、売る事も難しいような物を切り刻み使用している事が多い。
汚れたままの布で洗うわけでもなく、使う前には洗っているけれどそれでもなんとなくゴンザレスには抵抗があった。服を作った後の端切れを使用している所もあるが、それもやはりなんとも言えない抵抗感がある。
ゴンザレスが泡立てネットを取り出すべくバックルームに引っ込んだというのに、それでも声は聞こえているだろうと話し続けるエリザは、別段こちらの返事はどうでもいいのかとにかく聞いてほしいだけだったらしい。
というか、前世の知識のこともあるが、そもそも泡立てネットって個人で各自用意して使うものだったっけ……? という気がしなくもない。そのうち父親の分も、とか言い出すのではないだろうかとすら思えてくる。
「はい、こちら泡立てネットです。……食器用の洗剤とスポンジもありますけど、どうします?」
「なんですかそれ」
きょとんとした顔をするエリザに、ついでに裏から持ってきた事になっているそれらを見せる。
食器用洗剤は石鹸を作る過程から魔力粉を多めに足して作ったのでそのまま下水に流れていったとしても工業排水のように汚染するという事はないし、自分の家だけで使うには流石に多く作りすぎたのでこれもまぁ、売れるなら売ってしまおうという算段だ。
使い方を説明すると、エリザはふんふんと頷いて――
「ちょっと母さんに確認してくるので、少し待っててください」
泡立てネットの代金だけを払い、ネットを手に慌ただしく店から出ていった。
「あっ、銀貨三枚くらいで買えますか!?」
――と思いきやすぐさま戻って来たエリザに、
「スポンジは銅貨一枚、洗剤は銅貨五枚、ですかね」
淡々と答える。
「わかりました聞いてきます!」
代金を聞くなりまたもや風のように去っていったエリザ。
「次は母親と一緒に来るんだろうか……」
どこか遠い目をしながらも、ゴンザレスの口からはついそんな言葉が漏れ出ていた。
エリザがどういう話をしたのかはわからないが、姉妹の母親はスポンジを五つ、洗剤を二つ購入する代金をエリザに渡したらしくそれらを購入して帰っていったエリザを見送った頃には――
「現在の客数二名、なのになんでこんな疲れてるんだろ私……」
何故だか知らないがとんでもなく疲れていた。




