福音、来たれり
彼は決して多くの物を望んだわけではなかった。
ただ日々を平穏に、何事もなく暮らしていければ充分であった。
生まれてこの方家から出る事などほとんど無いといっていいくらいだったし、本人もそれでいいと思っていたのだ。
荒野も同然であるそこに建てられた館だけが、クロノにとっての楽園で全てでもあった。
貴方様は籠の鳥ではないでしょうに、と従者であるレェテは嘆いていたが、本人が好きで引きこもっているのである。自ら、率先して。確かに何も知らない者から見れば幽閉されていると思われても仕方のない状況ではあるが、本人が好き好んで引きこもっているのである。
父上の跡をお継ぎにはならないのですか?
レェテの目は常にそう問いかけてきたし、実際何度か口にも出された。
そのたびにクロノは否定してきたのだが、レェテがそれを問う事を諦める事はなかった。何度聞かれても答えは同じであるというのに。
そもそも父の跡を継ぐ存在は他にもいるではないか。兄弟姉妹が多い中、クロノはどちらかというと末っ子に位置しているといっても過言ではない。その自分がわざわざ兄や姉を押しのけてまで、とは考えた事もなかったし、言われた所でやる気にもならなかった。
貴方様が、貴方様こそが後継に相応しい。
そんな事を言われたからとて、何だか面倒な事に巻き込もうとしているとしか思えなかった。むしろ余計な事を言うものだとすら思っていたし、その考えは今でも特に変わっていない。
やる気のある者がやればいい。やる気がないのはそもそもクロノだけではないのだ。他の兄弟たちだって何名か、自分が知る限り同じ考えの者はいる。
けれど。
平穏はある日唐突に崩壊する。
自分と同じ考えでもあった兄弟たちが集められ、何事かと思えば母が言うのだ。
自立するつもりはあるのかと。
普段穏やかな笑みを常に浮かべているような母が、この時ばかりは笑みも浮かべずただ淡々とこちらに目を向けていた。何か感情の一つでも浮かんでいればまだ良かった。しかしその目には一切の感情がない。いつもと違う母の姿に、妙な胸騒ぎを覚えたものだ。
その中で、いくつか年の離れた兄が叫んだ。
そんなつもりはないと。
好きで生まれてきたわけじゃない。親なら責任を果たせと。
生まれてきてやったんだ、だったらその分ちゃんと面倒を見ろと。
正直クロノはそこまで思った事はなかったが、母はただ静かにそう叫んだ兄を見ていた。
何も言わない母に、兄は一体何を思ったのだろう。他にも色々と、それは少しばかり勝手がすぎるのではないか? と思うような事も言っていた気がするが、その言葉は唐突に途切れた。
びしゃり、という液体が飛び散る音から少し遅れてどさりと小さな音がした。
音がした方へ咄嗟に目を向けるとそこには兄の腕が落ちている。そうして周囲は赤く染まっていた。
「え……?」
「そうですか。正直な話、わたくしも、貴方のような役立たずが生まれてくるとわかっていれば即座に処分したのですが……それでももしかしたら、と希望を抱いたのが間違いでした。
そもそもごくつぶしならごくつぶしらしくせめて愛玩動物のように媚びの一つでも売るなり態度を弁えればいいものを……親の愛情が無制限かつ無限に存在すると思わない事です。
えぇ、ですが親の務めといたしまして、ここできっちりと責任をもって貴方を処分いたしましょう」
「えっ、ひっ、ち、ちょっと待って、待ってくれかあさ――」
言葉は、最後まで続かなかった。ごろりと転がる首。信じられないモノを見たような顔のまま、兄だったそれは息絶えた。
息を呑むような小さな悲鳴が周囲で聞こえる。
まさか本当に殺されるとは思ってもみなかったのだろう。母が、あの母が――まるで室内に入り込んできた虫を始末するような気軽さで、実の息子を殺すなどとは誰も思っていなかった。
「ところで、貴方たちも同じ考えなのでしょうか? でしたらここで纏めて処分いたします。後から言われるのも手間がかかるので、今、おっしゃってください」
誰も、何も言わなかった。いや、言えなかった。
たった今実の息子を殺しておきながら、普段通りの綺麗な笑みを浮かべる母に誰も何も言えるわけがなかった。流石に死にたいわけじゃない。
この後、結局どうなったかクロノの記憶には残っていない。けれども館へと無事に戻ってきた以上、その場は乗り越えたのだろう。本当だったらまたこのままここで引きこもっていたい。けれどそれは許されない。
気付いた時には館を出て、故郷から遠く離れた地にて暮らす事が決定づけられていた。
とはいえ、流石に生活能力があるかどうかもわからない我が子をそのまま放り出すような真似まではするつもりがなかったのだろう。クロノと共にやって来た従者であるレェテは嬉々としていたし、何でお前はそんなに嬉しそうなんだと恨み言の一つも言いたくなったが、クロノの母に共に行けと命じられたと言われた時点で下手な恨み言は言えないなと思ったものだ。
そうしてやってきた新天地。
そこは、よりにもよって敵地だった。
ひょっとして母は遠回しに死ねと言っているのではないだろうか!?
思わずそう叫んだのは記憶に新しい。そんな事はありませんよと言っていたが、レェテの言葉すら信用できなくなりつつある。
住む場所と、とりあえず日々の糧を得るためには平たく言うと金もいる。自分でも始められそうな仕事をという事で道具屋を経営する事にしたけれど、既に数店舗あるため本当に稼ぎは日々を暮らすのに最低限、といったところだった。贅沢したいわけでもないのでそこは問題なかったけれど。
そんな事よりも、だ。
問題はここが敵地であるというのに、思った以上に他の兄弟たちがここに集っていたことだ。一体なんでまたわざわざ、と思ったが詳しい話は聞いていないし聞こうとも思わなかった。聞いたら何か面倒な事に巻き込まれそうな気がする。
それでなくとも敵地。奴らの目があるところで下手に兄弟たちと接触するとそれも何か面倒な事になりそうなのだ。
だというのに兄弟たちは割と好き勝手に外を出歩き時として派手に喧嘩もしているそうではないか。
ちょっと怖くて外に出たくないからこそ自分は店をやりつつ基本引きこもって買い物などの外への用事はレェテに任せていたけれど、そのレェテからもたらされる情報は聞けば聞く程胃が痛くなる代物で。
ついこの前もレェテに言われて無理矢理外に出ることになったけれど、あの時だって襲われる結果になったし、本気で外に出たくない。もうヤダひっそりと誰にも知られないような所で暮らしたい。
多少は飲み食いしなくたって死にはしないしそう簡単に病気にもならない体質だ。もう本当に人里から離れた所で隠者ばりの生活してたい。
外に出るにしても、知り合い以前に然程仲の良くない身内と遭遇するようなここはイヤだ。
今日も今日とてそんな感じでレェテと攻防を重ね、食料の買出しについていくことは回避した。その分店番はしっかりとやって下さいねと釘を刺されてしまったが。
どうせ客なんて滅多に来ないのだから、奥に引っ込んでいてもいいだろう。
――そう、思っていたのだが。
人の気配と物音に、こんな時に限って客がやってきた――!?
世の中ままならないものだなと嘆きつつ店へと出て行けば。
そこに、女神がいた。
いや実際に女神だったわけではない。神族がそう簡単にそこらをふらふらしているはずもないし、もしやって来たならば今頃ここは爆心地と化している。
人族だ。
けれど、クロノの目にはそれはまるで女神のように見えていた。
まるで夜空のような色合いの髪は揺れるたびにさらさらと音を立てるようで、ついそちらに目を奪われかけたがそれよりも、目だ。
深い海のような色合いの青。整った顔立ちもあってか、一瞬よくできた彫刻か何かに命でも吹き込まれたのかと疑った程だ。
魂そのものがキラキラと輝いているかのような――そんな錯覚すら覚えた。
クロノにとっての世界とは、荒野にある自らの館だけが全てであった。
けれど、あの変化も何もない、色合い的にも乏しい記憶の中の光景が一瞬で塗り替えられるかのような衝撃。
あぁ、なんて眩しいのだろう。
危うく息をする事すら忘れかけていたが、意識とは裏腹に身体はちゃんと接客を終えていた。
ほぼ無意識にまたのお越しを、なんて普段はまず言わない言葉を口にして、彼女はそれに頷いてくれたのだ。
また、来てくれる。
また、会える。
その次が待ち遠しい。
それが世間でいうところの一目惚れであるという事実に気付くまで些かの時間を要したが、それを自覚した頃には当然彼女はいない。店を出ていってから既に一時間は経過している。
そう、自覚するまでの間、彼は熱に浮かされたかのようにぼうっとレジに突っ立ったままであった。客が他にこなかったからいいようなものの……いや、この場合マトモであれば即奥に引っ込んでいたのでこのままで良かったのかもしれないが……
クロノが冷静さを取り戻すのにややしばらくの時間が経過して、ふと気付く。
さっきの返答、あれ、社交辞令ってやつでは?
とても冷静にそんな事が思い浮かんでしまったのだ。
そうすると途端に何もかもを悪い方へと想像してしまう。
また来ますとは言ってくれたけど、もう二度とこの店に来てくれないのではないだろうか。それはイヤだ。とても、とても嫌だ。
そもそも彼女がどこの誰であるかもわからないのだ。本当にただ待っているだけで次があるならまだいい。けれど、次がないのであれば――
「自分から、動かなきゃ……」
それはつまり、外に出るという事になってしまう。
外はイヤだ。ここは敵地であいつらの目は厳しいし、下手に身内に遭遇すればただでは済まない事の方が多い。外はイヤだ。
けれど、外に出なければ次がないかもしれない。
考えに考えて――決意する。
「ただいま戻りました、クロノ様」
覚悟を決めた矢先に、買出しに出ていたレェテが戻って来た。
「レェテ、これからは僕も外に出ようと思います」
自らの覚悟を宣言する。
「なんと……!」
唐突にそんな事を宣言されたレェテはというと、驚きに思わず手にしていた袋を取り落としてしまっていた。どさり、と小さな音と共に荷物が落ちて、上の方に入れてあったリンゴが一つ転がった。
正直な話、クロノが自ら外に出ると宣言したのは単純に惚れた女に会いたいからという頭の中身がハッピー極まりない浮かれ切った理由からなのだが、当然レェテはそんな事を知る由もない。
むしろようやくやる気になってくれたのかとレェテは信じて疑う事なく素直に喜んだ。きっと、クロノが恋に落ちる瞬間を目撃していたのであれば窘めていたのは確実なのだが……知らないのだから仕方がない。
だからこそレェテは素直に称賛した。折角やる気になってくれた主の気を削ぐような真似はしてはいけないと、心境の変化が気になりはしたもののそこは深くは突っ込まずに。
そしてその言葉にクロノもまたより一層頑張りますね、なんて応えて――
そのやり取りは、レェテが落とした袋の中に卵が入っていた事を思い出すまで続いたのだった。




